INNOCENT FLOWER


空一面を薄い雲が覆っていて、陽射しはほんのりと穏やかだった。
頬を撫でる風は、もうすっかり春の匂いだ。
石の家の南側に広がる一面の野原は、我先にと芽吹いた若草の匂いに満ち溢れている。
ここ数日の陽気につられたのか、中にはいささか気の早い花弁を誇らしげに広げているものもあった。
広がる緑の中に見え隠れするピンクや白のぽちぽちとした花は、風がそよぐたびに瞬いて、まるで、夜中に見上げる天空の星みたいだった。

膝下をすっぽりと青草の茂みに突っ込んだまま立ち尽くし、ゼルはもう何度も野原を見回していた。
広い野原には、人っ子一人見当たらない。
(どこに居るんだろう。)
そわそわと落ち着かない気持ちで二、三歩草を踏み締める。
もうあまり時間がないのに。
お昼になったら「お迎え」が来る、とまま先生は言っていた。
薄い雲の向こうにある太陽は、もうほとんど空のてっぺんに差し掛かろうとしている。

他のみんなとは、ゆうべのうちに「お別れ」を済ませていた。
夕食のあと、まま先生がゼルを呼び、そうしなさいと言ったからだ。
だが何が「お別れ」なのか、実はゼルは良く解っていなかった。
「お別れって、なんで?」
不思議に思って問い返すと、先生は微笑みながら、でもなぜか寂しそうにそう言った。
「ディンさんのおうちに養子に行くからよ。」
「うん。解ってる。でもなんでお別れなの?」
すると、まま先生は少し困った顔になった。

ヨウシに行く、とはその家の子供になること、新しいお父さんとお母さんができること、それはこの前まま先生に教えてもらって解っていた。
ディンさんとは、一ヶ月ほど前に石の家にやってきたおじさんとおばさんの事だ。
おじさんは体が大きくて最初は怖かったけれど、ずっとにこにこしていて、子供達に魚の釣り方を教えてくれた。
おばさんはとても優しそうな、朗らかな声で笑う人で、みんなに美味しいクッキーを配ってくれた。
あのおじさんとおばさんが「お父さんとお母さん」になるなら、それは嬉しい事に違いなかったし、まま先生とシド先生と、あわせて二人ずつお父さんとお母さんが出来るなんて、凄い事だと思った。
だから、ディンさんたちがゼルを養子にしたいって言っている、ゼルはどうかな、とシド先生に尋ねられた時、すぐに大きく頷き返して、ヨウシになると答えたのだ。
でも、それがどうしてみんなとの「お別れ」に結びつくのだろう。

「ヨウシになると、お別れなの?」
「‥‥そうね。」
再び問い掛けたゼルに、まま先生は潤んだ声で頷いた。
ふうん、と首を傾げ、ゼルは考えてみたが、やっぱり良く解らなかった。
ディンさんの家に行くということは、確かにしばらくみんなとは会えないのかもしれないけれど。
それはあくまで「行ってきます」だし、「さようなら」とは違うと思う。
帰ってきたらまたみんなには会えるのに、どうしてわざわざ「お別れ」なんだろう。
でも、まま先生がそうしなさいと言うならそうするべきなんだろうな、とは思った。
だから、みんながベッドに潜る前、ひとりひとりに「お別れ」を言った。
セルフィもアーヴァインもびっくりして、なんでどうしてと尋ねてきたけれど、ゼル自身が理解できていないのだから答えようもない。
ただ、まま先生に言われたから。
しどろもどろに、そう説明するしかなかった。

そんな中、たった一人だけ、お別れを言えなかった相手がいた。
サイファーだけは、また例によって物置きに閉じ込められていたのだ。
ついこの間まで怪我をしてベッドから動けなかったというのに、怪我が治った途端サイファーは元のサイファーに戻っていた。
昨日はスコールと取っ組み合いの喧嘩をして、止めに入ろうとしたアーヴァインまで殴りつけたものだから、罰を食らう羽目になったのだ。
仕方がない、サイファーには明日言えばいいや、と思った。
しかしいざ今朝になって朝食の席についた時にはその事を忘れていた。
昼近くになって、そろそろ準備をなさいとまま先生に促されてようやく思い出したものの、サイファーの姿はとっくにどこかへ消え失せていた。
裏の野原の方にいるみたいよ、とまま先生に教わって慌てて飛んできたけれど、どこにもその姿はない。

ゼルは困って、その場にしゃがみ込んだ。
足元に、一輪の花が咲いているのに気付き、指先でつついてみた。
小さな花びらのたくさんついた、丸い花だ。
名前は知らないけれど、もう少ししたらこの野原中いっぱいに咲く。
去年も女の子達がよく摘んで遊んでいた。
細い茎を指にからめ、手折ろうかどうしようか一瞬迷う。

と、不意に何かの影が差し掛かって、手元が暗くなった。
はっとして顔を上げると、目の前にずいと突き出されたものがある。
指先に摘んでいるのと同じ、白い一輪の花だった。
びっくりして立ち上がろうとすると、その花を掴んだ拳がさらに突き出された。
気圧されて、思わず受け取る。
拳は満足したように下ろされ、その向こうに、いつもの不機嫌そうなしかめっ面があった。

「サ‥‥イファー。」

驚きから立ち直れず、ゼルは花を握り締めたままぱちぱちと瞬いた。
一体どこにいたのだろう。
さっきまで、どこにも姿が見当たらなかったのに。
しかしそんなことよりも、ようやくサイファーを見つけられた事の方が大事だと気付いた。
そう──もう、あまり時間がないんだ。
慌てて立ち上がって、口を開こうとする。
だが、それより早くサイファーがぼそりと呟いた。

「デージー。」
「え?」
「デージーっつうんだよ、その花。」

ゼルは呆気に取られた。
サイファーが花の名前を知っているのもさることながら、なぜそんな事を突然言い出すのかが解らなかった。
サイファーはさらに何かを言いかけ、口を噤んだ。
その大人びた顔が、奇妙に歪んでいる。
怒っているようでもあり、落ち込んでいるようでもあり、どこかが痛むのをじっと耐えているような顔にも見えた。
何を言っていいかが解らなくなって、ゼルは所在なく花を見つめた。
すると、ゼルの視線が転じてほっとしたのか、サイファーはようやく言葉を続けた。
「お前、もうすぐ誕生日だけど。言えなくなっちまうから、今のうちに言っとく。‥‥誕生日おめでとな。」
「え‥‥。」

ゼルは再びサイファーの顔を見つめた。
誕生日。
そう、確かにそう──だけれども。
「言‥‥えなくなるって?」
「もうすぐ、迎えがくるんだろ。」
「うん。」
「バラムに養子にいくんだろ。」
「‥‥うん。」
「そしたら、もう言えなくなるじゃねえか。」

憮然としてそう吐き捨て、サイファーは横を向いた。
その瞬間。
ゼルは、雷に打たれたように硬直した。
今になって、ようやく、初めて、自分の置かれた状況を理解できたのだ。
バラムにヨウシに行く。
それは「行ってきます」で済むことじゃない。
「ただいま」は二度と言うことができず、この石の家にもう自分の居場所はなくなる──つまり、そういうことなのだ。
つまり、まま先生もシド先生もみんなも「他人」になってしまい、一緒に食事をしたり勉強したり遊んだりすることもなくなってしまう。
そして。
サイファーとも、二度と‥‥会えなくなる、という事なのだ。

鼻の奥がつんと痛くなり、みるみる目の前が涙で滲み始めた。
こみあげる嗚咽で、わなわなと唇が震える。
「‥‥そ‥んな。オレ、だって‥‥」
ヨウシになる、それにそんな意味があったなんて。
サイファーと離れ離れにならなければならないなんて、考えてもみなかった。
だって、誰もそんな事は教えてくれなかったじゃないか。
まま先生も、シド先生も、言ってくれなかった。
解っていたら、頷いたりするわけがない。
サイファーと離れて、二度と会えなくなるなんて。
そんなの、絶対に嫌だ。

「やだ‥‥よ。オレ‥‥サイファーと離れたくない。離れるなんて、やだよ‥‥!」
ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭うのも忘れ、ゼルはしゃくりあげた。
方やサイファーは、突然泣き出してしまったゼルに驚いたらしかった。
「‥‥お前。解ってて養子に行くって言ったんじゃなかったのかよ。」
「そんなの知らねえよ! オレ、ただちょっとの間行くだけで、また帰ってくるって思っ、て‥‥」
サイファーは、呆れたように眉をひそめた。
大人びた薄い唇を歪めて、まるで壊れた玩具を持て余すかのようにじっと黙り込む。
そして、泣きじゃくるゼルをしばしじっと見下ろしたあと、ゆっくりと言った。

「お前。ほんと、バカだな。」
「バカ、じゃね‥‥もん!」
首を振ると、ふわり、と髪に触られた。
はっとして肩を竦めると、ゼルよりも一回りも大きな掌がわさわさと髪を掻き回す。
「心配すんな。離れても‥‥どこにいても。いつでも、ちゃんと俺が守ってやるから。」
「‥‥ほんとに?」
瞼を擦りつつこわごわ視線を上げると、どこか誇らしげに、サイファーはきっぱりと言った。
「ああ。俺は、お前のナイトになるんだからな。」

ゼルは潤んだ瞳のまままじまじとサイファーを見つめた。
サイファーの言っていることは、矛盾しているかもしれない。
離れ離れになってしまったら、守ることなどできるはずがない。
けれども、そんなことはどうでも良かった。
サイファーの声、大きな掌、そして強い光に満ちた翠色の双眸、そのすべてが、根拠はなくとも揺るぎのない確信をゼルの心にもたらし、不思議なほどに安堵することができた。

「‥‥また、会える‥‥よな?」
「会えなくっても、会ってやる。」
即答して、サイファーはするりとゼルの頬を撫でた。
冷たい指先の感触に、とくりと心臓が鳴る。
くすぐったいような、暖かいような不思議な気持ちで、ゼルはゆっくり瞬いた。
「オレ‥‥強くなる、から。」
涙声のまま、胸元の一輪の花をぎゅっと握り締める。
「ちゃんとサイファーに追い付けるように。きっと、強くなるから。」
サイファーは小さく笑ったように見えた。
けれどそれ以上何かを言う訳でもなく、もう一度ゼルの髪を掻き回した。

穏やかな風が一面の草を撫でて、そよそよと囁き声のようなさざめきが二人を取り囲んだ。
草原の向こうに横たわるくすんだ色の海は、春の陽差しを柔らかく照り返して、きらきらと鮮やかに輝いている。
やがて背後から、遠く微かに、ゼルの名を呼ぶまま先生の声がした。

fin.