SMOKE GETS IN YOUR EYES
小振りで柔らかな感触のクッションを腹に抱え込むように抱いてソファーに転がったゼルは、横の棚上に置かれた時計の青く発光するデジタルの数字を見て溜息を付いた。
今日もあいつの帰りは遅いのか。
別にそれをどうのこうの言うつもりはないけれど、ただ、何となく。
ガーデンを出て、折角こうして二人一緒の生活をしているのに。以前よりも一人でいる時間の方が多いように思えるのは自分の気のせいなのだろうかと。
今日の任務はそれほど時間を取られるようなことではなかった筈だ。
確かにスコールの副官として常に傍らにあるようになってからのサイファーの仕事は、ゼルの目から見てもかなりの量だとは思う。
扱う内容が内容なだけに、量が多いからと言って誰にでも割り振れる仕事ではないから、当然のようにスコールとサイファーのプライベートな時間が削られるのも理解している。
だからこそ。
これじゃ、どうにもなんねえ。てめえに会う時間もままならねえ生活なんざやってられっか、と憤りのままに一人で勝手に住む所を探し、一人で勝手に引越しの日にちまで決めて来たサイファーに文句も言わず従ったと言うのに。
従ったと言うのは、些か語弊もあるかも知れないが。有無を言わさぬサイファーの勢いに気圧されたのは確かであったし、それに流されたと言えないこともない。
けれども二人で暮らすこと自体にゼルとしても否やはなかった。どちらかと言えば、嬉しいと思ったのが本心で。
我慢は、した。
自分の中で出来うる限りの我慢は、したのだ。
夜毎、酒の匂いを纏い。戻って来るのはゼルがとっくに夢の中に落ちた後。悪びれもせずにそんな行動を繰り返すサイファーに対しても、それもストレス発散の一つだろうと自分でも信じられないほどの広い心で我慢はしてやったのだ。
「ちくしょう、何だよ、プライベートな時間も何もねえじゃねえかっ!俺に会えねえのがどうのこうのって、帰ってこねーのはあんたの方だっつーのっ!!!」
がっ、と勢いのまま上体を起こし抱えていたクッションを勢い良く部屋のドアへとゼルは投げつけた。
と同時にチャイムの軽やかな音が、静かな部屋の中に響く。
「……んな時間に、誰だよ」
サイファーならば鍵を持っているのだから、深夜と呼べるこの時間にわざわざチャイムを鳴らすようなことはしないだろう。
だが、対応するのも面倒くさいと知らん顔を決め込んだゼルを急き立てるように、二度三度とチャイムは鳴らされる。しぶしぶの体で玄関へと向かったゼルが内側から力いっぱいドアを開ければ、見知った二人にまるで抱えられるようにしたサイファーの姿があった。
「な…スコールに、アーヴァイン……お前ら、どうしたんだよ」
「どうしたも、こうした、も」
「キミの旦那がさあ、飲みすぎちゃってねえ」
正体を失くすほどに酒を飲んだサイファーを、揃ってここまで抱えて運んでくれたのだと言うことはゼルの目にも明らかだ。
平然としているアーヴァインに対して少しばかりスコールの息が上がっているのは、体格の差なのだろうか。
ぐったりと脱力しきった状態で二人に支えられてやっと立っているサイファーの姿はこの際、見なかったことにしよう。一瞬、そんな考えまでもが頭の隅を過ぎる。
きっとこういうのを泥酔と呼ぶんだろうな。何とも言えない気分で半ば呆れながらも玄関先であったことを思い出し、ゼルは慌てて横へと退く。
「わ、悪り!重てえよなっ、ごめん俺じゃこいつ運べねえからさ、面倒ついでに部屋ん中までいいか?」
スコールは渋面で、アーヴァインは相変わらずの人好きのする笑顔でゼルの頼みに頷いた。
ひとまずリビングへと運ばれたサイファーは、先ほどまでゼルの転がっていたソファーの上にどさりと荷物のような扱いで投げ出される。
それでも悪態の一つも吐かないのはそれだけ酔いが回っている証拠だ。
「ほんと、面倒かけちまったな」
冷蔵庫の中から冷えた水のボトルを取り出して戻って来たゼルは、こんなもんしかねえけど、とスコールとアーヴァイン、それぞれに手渡した。
「ありがと、ゼル」
「誰かさんのお陰で余計な汗もかいたし、喉も渇いていた所だ」
キャップを捻じ切り喉を反らして水を飲む二人に、本当に迷惑かけちまったなと。ゼルは心底、済まなそうな表情を向けた。
「でもさ、何でお前ら二人がサイファーと一緒だったんだ?」
「何でって……ねえ、スコール」
「ああ。たまたまアーヴァインと一緒に飲みに出たらお前の旦那にばったり、な」
「だ、旦那って誰のことだよっ!」
「違うのか?」
「う…う、うるせえっ!!」
明らかにからかいを含んだスコールの言葉にゼルは過剰な反応を示す。
「お前も酔ってんだろ、スコール。ったくよー、あっちもこっちも酔っ払いばっかじゃねえか、やってらんねえ」
「ちょっとゼル、酷いなあ。僕は酔ってなんかないよ?ほら、ね」
「うわっ、やめろって!」
ゼルの手を掴み自分の頬へと触れさせたアーヴァインはひたすらに酔ってない、を繰り返し。そんなものは酔っ払いの常套句だとゼルの態度はにべもない。
滅多なことでは軽口を叩かないスコールのそれすらも、ただ酒のせいだと思い込んだ。
そろそろガーデンへ帰ると言う二人を玄関まで見送ったゼルはリビングへ戻るなり大仰に溜息をつく。
「ったくよー、何でこんなんなるまで飲まなきゃなんねんだ?こいつ」
ぼやきつつ立ったままサイファーを見下ろせば、その顔には深い疲労の跡が見て取れる。
そもそもが、酒を飲んだくらいでこんな風になることがおかしい。
ガーデンにいた頃も気が向けばアーヴァインやスコールと飲むことは多々あったが、どれほど酒を過ごそうがこうまで酩酊したサイファーを見た覚えが無い。
ここ数日、遅い帰宅に加えアルコール臭を纏って戻って来るサイファーにゼルとしても内心、眉を顰めはしたがこれと言って文句を並べ立てたりはしなかった。
日増しに濃くなる酒の匂いにいい加減、辟易していたが今日のこれは極め付けにも程がある。
元来、アルコールに飲まれる性質ではないサイファーがこうまでなるには何かしらの事情があるにせよ。サイファー本人がゼルに対してそれを口にしない以上、許容出来る範囲を超えている。
何はともあれそれは朝を迎えてからのこと。
ソファーの上にサイファーを残したまま。こんなんなら気にせず先に寝てりゃよかったぜ、と憤りながらゼルは柔らかな寝具へと飛び込んだ。
微かに聞こえてくる水音にゼルは目を覚ました。
酔い覚ましにサイファーがシャワーでも使っているのだろうと思い、起こしかけた半身を再び横にする。
今日は揃ってオフの筈だったから、寝坊したと慌てて飛び起きる必要もない。
柔らかくて暖かな布団の中で再びうとうととしかけたゼルは寝室のドアが開き、部屋へと入って来た人の気配にもう一度目を開ける。
「んだ……サイ、ファー」
ゼルのその呼び方に他意があったわけではない。
だが返って来たサイファーの声は酷く剣呑なものだった。
「んだ、たあ。随分な挨拶じゃねえか、チキン」
ぎしり、とスプリングが軋んだ音を立てたと思った瞬間。ゼルの視界にサイファーの顔が飛び込んで来た。
水に濡れた前髪が幾本、白く形のいい額に落ちて整った容貌を更に際立たせている。
翠玉の瞳に浮かぶ強い光は、怒りだろうか。
肘と膝を支点にまるで組み敷かれているようなこの体制はまずい。咄嗟にそう思ったが、既にゼルの退路はどこにもなかった。
「久々にマトモにてめぇのツラ拝めたかと思いきや、大した口の利き方しやがる」
「別に意味なんてねーよ。ただ、あんたが来たんだって思ったから」
「……俺じゃねえ方が良かったみてぇな言い方だったぜ。違う誰かを待ってたんじゃねえのかよ」
「ばっ、朝っぱらからバカなこと言ってんなよっ!毎晩飲んだくれて、とうとう頭に酒が回っちまったんじゃねえのか!?」
ゼルを煽って自分のペースに持ち込むのは、サイファーの好くする手段の一つだからこそ。努めて冷静さを装って対峙するつもりだったが、物の数分も保たなかった。
ふざけんなよ、言いがかりも大概にしろ。
憤りのまま手足をしゃにむにバタつかせたが、布団ごと押さえ込まれた体は全くゼルの自由にならない。
「ああ。回ってんのかも知んねぇな、てめぇの言うように」
細く眇められたサイファーの瞳がゼルの背中に冷たいものを走らせた。
僅かに持ち上げられた口角は傍目には微笑んでいるかのように映るだろうが、これはそんなものではない。
「ちょっ……何す…やめろよ、サイファー!!」
「ガタガタ抜かすんじゃねえ、今までだって散々俺にされて来たことじゃねえか」
「だから、って…俺は、今のあんた、とっ……」
「したくねえ、ってか?」
「当たり前だっ!!」
「残念だったな、チキン。てめぇの言葉を借りりゃあ、今の俺は正気じゃねえ。つうことは……何やったって許されんだろ」
寄せられる唇から逃れようと左右に振られるゼルの顔をサイファーの両の掌がやんわりと包み込み。だがその優しく見える仕草を裏切るように、掌に包まれたゼルの頬には骨を軋ませるような痛みが走った。
「っ、やめろ……って…」
「いいや、やめねえ。黙って大人しくしてりゃ、酷い目には合わねぇって…よ。知ってんだろ……ゼル」
わざとそう耳元で囁かれ、ゼルはぞくりと泡立つ肌に首を竦めた。
どんなに嫌だと言って暴れた所で、全てを知り尽くしているサイファーには抗い様のないことなどはゼルの体中の細胞と言う細胞が知っている。
何もかも、ゼルの全てを奪い去るようなキスをされれば、それだけで。細く甘い吐息でそのキスに応え。
荒々しく体中を弄るようなサイファーの手には、もっと触れてくれと知らず腰が揺れる。
それが心など置き去りにした、ただ暴力的ともいえる身勝手なセックスであっても馴れた身体はこんなにも容易く反応してしまうのか。
流されるままに快楽を享受する自分自身に嫌悪感を抱いたゼルは涙を湛えた瞼をそっと開き、滲む視界に支配者を見た。
違う。
慣れているとか、そんな単純な理由なんかじゃない。
俺はこの男が好きなんだ。
この支配者然としたどこまでも傲慢な男を、好きで好きでたまらない。
時折聞こえてくる、サイファーの、熱に擦れた声。
背中に回した腕が感じ取る、しなやかな筋肉。
そして。
狂おしいまでに真摯な光を浮かべて自分を見下ろす翠色の、瞳。
態度がどうであれ、その口調がどうであれ。ただの欲望の捌け口に、こんな瞳を向ける人間などいるはずがない。
そう信じたい。だから、サイファー。
一言でいいから、あんたのその唇で、その低くて甘い声で。俺を満たす言葉をくれ。
けれどもゼルのその望みが叶うことはなかった。
「よう、アーヴァイン。しばらくさ、ここに置いてくれよ」
そんな言葉と共にゼルがガーデンのアーヴァインの私室に姿を現したのはその日の午後だった。
休日以外は毎日ガーデンに通っては来ていても、さすがに今となってはゼルの使っていた部屋は他人のものだ。
「……ゼ、ル?」
「悪いな、俺の部屋もうねえし」
開いたドアの隙間からするりと体を滑り込ませたゼルは勝手知ったる顔で部屋の中を歩き、手に持っていた荷物を床へと降ろした。
「や、その。悪いとか、そういうのはないけどっ」
「ほんのちょっとの間だから。すぐ、新しい部屋、見つけっからさ」
「あ……新しい部屋って、それどういうこ」
「まあ、そういうこと」
驚き慌てふためくアーヴァインを尻目に、当のゼルはけろっとした顔で部屋の中のあちこちを弄り倒している。
「俺がここにいた頃と、あんま変わってねえのな」
「そりゃあ、まあ。変わりようがないと言えばそれまでだけど」
「……あの頃もこうやって何度もお前のとこに逃げ込んだよな、俺」
「ゼル。出て行けって言うつもりなんて僕にはないけど。だけど」
「ごめん、お前の言いたいことは分ってる。でも……あいつと一緒に、今はいれねえんだ」
再びバスルームに姿を消したサイファーの後姿を黙って見送ったゼルは直後。小さなバッグに適当に荷物を詰め込んで、逃げ出すように家を出た。
どこか適当な宿を取っても良かったのだが、どうしてか足は勝手にガーデンへと向かった。
一人ではいたくなかった。
誰でもいいから、見知った顔を前にしていなければロクでもない思考に溺れることが分かり切っていたからだ。
スコールの元へと行くことも考えはしたがそう思った瞬間、あの夜の光景が脳裡に蘇った。
サイファーに肩を貸し支えていたスコールはゼルを見て、何とも言えない気まずそうな表情をほんの一瞬だけ浮かべた。
あれは、何だったのだろう。
普通に友人として肩を貸しただけで、あんな表情を浮かべるものだろうか。
どこか後ろめたさや、それに類する感情を隠していたからこそスコールはあんな顔をしたんじゃないのか。
それはゼルのただの思いつきでしかなかったが、何となくスコールの元を訪ねるのは憚られたのだ。
「まあ、ね。キミがスコールじゃなくて僕のところを選んでくれたのは光栄だし?」
重くなった空気を感じ取ったかのようにアーヴァインは努めて明るく言い、ゼルに向かってウインクをする。
その軽い調子につられるようにゼルは声を立てて笑った。
その日の夕方、指揮官室の前を通り過ぎようとしたゼルはそこに立ち尽くすスコールの姿を見つけた。
「ゼル」
「よう、スコール。面倒かけちまうけど俺しばらくここで暮らすから」
「らしいな、アーヴァインに聞いた」
「何だかんだ言ってもさ、ここが一番…安心すんだ」
「……ゼル、俺は」
「別にお前のせいとかじゃ、ねえから」
そう、何もスコールのせいじゃない。
ここ最近のサイファーの行動は、確かに理不尽なことばかりだったがそれがスコールに関係しているとは思えない。
よしんばそうであるならば、スコールはどんな手段を講じてもそれを隠し通すだろう。
冷徹な指揮官としての顔と、こうして垣間見せる私的な顔。言葉の端端にゼルを案じる響きと、それに伴う不安とを。
それらを隠そうとしないのであれば、スコールの抱えている何かはゼルに対する裏切りや背信ではないはずだ。
「あいつここんとこ、ずっとあんなんでさ」
「………ああ」
「本当は俺が、支えてやりてえんだけど。あいつに取ったら俺じゃダメなんだろうなって」
「そんなことは」
「ないって?…実際、そうなんだよ。だからあいつは、お前やアーヴァインに救いを求めてる。違うか?スコール」
人気のない廊下で、ゼルは真っ直ぐにスコールを見詰めた。
サイファーと暮らす家を飛び出したのは、それに気が付いたからだ。
一緒に過ごして、一緒の時間を重ねて行くはずの家でゼルは孤独だった。泣いて笑って、時には喧嘩をして。それでも笑いあって過ごして行くはずの家をサイファーはそうと位置付けてはいなかった。
苦しいなら苦しいと、辛いなら辛いと。
他の誰でもなく自分にこそ言って欲しかった。
スコールが見せたあの表情は、ゼルが気が付くよりも先にそれに気付いてしまっていたからこそのもので。
「ま、そゆこと。俺はあいつにしてやりてえこと山ほどあっけど、あいつがそれを望んでねえっつうなら……一緒にいても仕方ねえじゃん」
「ゼル、そうじゃな……」
否定の言葉を口にしかけたスコールに片手を上げてゼルはそれを制し。
「あいつが……サイファーが変わらない限り、どうにもなんねんだって。お前らだって、分ってんだろ。っと、ごめん俺キスティに呼ばれてたんだ。また後でな!」
やべえ忘れてた。そう言ってバタバタと走り去るゼルにスコールは溜息をついた。
違う、そうじゃないんだ。サイファーが、分ってないんじゃないんだ。
ゼルの肩を掴んで大声でそう言ってやりたくても、サイファー本人の言葉でなくてはそこにある真実は伝わらないのだろう。
「全く、お前は厄介な性格だな。サイファー」
唯一絶対と思った相手に弱さも脆さも全てを曝け出せる人間と、そうでない人間と。
きっとそのどちらもが悩んで苦しんで、そしてどちらも正しいはずだ。
サイファーがゼルではなくその対象に自分やアーヴァインを選んだのは、自分たちに同じ人種の匂いを感じ取ったに過ぎない。
同病相哀れむとは良く言ったもので、だからこそこうして突き放せずに互いの傷を舐め合って。
その思いこそがゼルにあの選択をさせてしまったならば、ここらが潮時なのかも知れない。
ゼルの消えた夕闇に紛れる廊下の奥をスコールは目を凝らして見据えた。
「ねえゼル、今夜ちょっと僕に付き合わない?」
「どこにだよ」
「んー、いいとこ……とは言い難いんだけど。このままじゃ良くないでしょ」
すっかり自分の定位置に定めてしまったアーヴァインのベッドの上に寝そべったままのゼルは空返事をしてぼんやりと天井を見上げた。
「良くねえ、のかな……」
「ないんじゃない?明日は君の誕生日だしさ」
「俺の誕生日なんて関係ねえじゃん」
「そう?じゃあ、彼じゃなく僕が君の誕生日を一番に祝う権利を貰ってもいいのかな」
いつの間にか傍らに立っていたアーヴァインが長身を窮屈そうに屈めて、間近からゼルを覗き込んでいる。
「君は気が付かないかもだけど、僕が損得勘定抜きで動く人間だなんて思わないで?ゼル」
「アーヴァイ、ン」
「彼が君を必要ないって言って、君がそれでいいって言うなら。僕はいつだって君の一番の相手になりたいよ」
「それは、えっと、その」
「うん、そういうこと。君にこのベッドを提供して僕がソファーで我慢している間、どんなことを考えていたか分かる?分るよね、君だって男だから」
「………でも俺は」
失念していたと言うべきか。
アーヴァインの笑顔の奥にある暗い炎は、時折こうしてゼルの前に姿を見せる。
サイファーと喧嘩するたび、気持ちがすれ違うたび。いつだってここに逃げ込んで、アーヴァインの笑顔に助けて貰っていた。
言葉にしないだけで、アーヴァインが友情以上の感情を自分に抱いていることは薄々感じ取っていた。
「僕は君が好きだよ。そして同じように彼のことも、ね」
静かな声と、柔らかく頬に触れる唇が頑ななまでに閉ざされていたゼルの感情を溶かして行く。
「どんな結果であっても、ちゃんと向き合うことは必要だよ」
「……うん」
「彼は、不器用なだけでしょ」
「う、ん」
「ゼル、お願いだから僕に…付け入る隙を与えないで。僕に取って大事な君達を、裏切るような真似はさせないで?」
優しく前髪をかき上げられ、もう一度。今度は額に柔らかなキスを落とされる。
それは一切の欲を含まない、見守る者だけが与えてくれるキスだった。
「あの席にしようか」
照明を絞った薄暗い店に入るとアーヴァインは奥まった席を指差した。
顔馴染みなのだろう、シルバーのトレイを持ったウエイターはアーヴァインの言うままの席に案内をする。
「ここなら、向うからは見えないんだ。もちろん僕達からは見えるけどね」
「へえ」
「もうじきスコールが彼を連れてやって来るはずだから。どうするかは君次第」
「……ここ、お前ら良く来るのか?」
「だね、最近はいつもこの店かな。大きな声じゃ言えないけどここのマスターは案外、裏道に明るくて勝手がいいんだ。その割りに客層のガラは悪くないし」
「お前が言うか?お前にあいつにスコールじゃ、説得力ねえじゃん」
「酷いなあ、ゼル。僕らはおりこうさんなお客だよ」
互いに軽口を叩きながら運ばれて来た皿に手を伸ばす。
ここへと来る途中、ハンドルを握るアーヴァインから色々なことを聞かされた。
サイファーに取って仲間と言える人間がこの世を去ったこと。スコールもアーヴァインも旧知の仲だったと言うこと。
決して表に出ない闇の領分の処理を引き受けていた人間だったと言う。
ガーデンの中でもその存在を知っている人間はほんの僅かで、その死すらもが闇の中へと消し去られる、いるのにいない人間。
指揮官補佐と言う立場上サイファーは時折、任務を共にしたらしい。
アーヴァインが知っているのは情報収集など諜報部分を主に担っているから当然のこと。
誰にも知られずその存在を記録に留めることもなく、存在を抹消される友にサイファーは何を思ったのだろう。
最重要機密と位置付けられている友の死を、ゼルにすら語ることは許されなかった苦しさはどれほどのものだったのだろう。
けれども。
言葉を変えてでも、言って欲しかったと願うのは自分の傲慢さなのだろうか。
「アーヴァイン…お前も、苦しかったか?」
フォークの先で皿に盛られた前菜を突きながらゼルは問う。
「多分、苦しかったんだと思う。でも僕は彼ほど情が深いわけじゃないしね」
「そんなこと、ねえだろ」
「あのさ、ゼル。まともな人間が諜報なんて仕事、出来ると思う?」
「……俺には分んねえ」
「僕に取って大事なのは、ガーデンの中でもほんの数人だよ。後は全部、同じ。必要があれは近付きもするけど、失ったからって困ることもない。まあ……少しは心も痛むけど」
もしかしたらそれすら、痛んでるつもりなのかもね。
その言葉を消すかのようにグラスに満ちた水を喉の奥に流し込んでアーヴァインはゼルを見る。
「お前もそうやって、あいつみたいに自分を騙すんだな」
「そう?」
「あいつも、お前もスコールも。そうやって汚ねえ部分を俺から隠すみてえにして、自分たちだけ苦しんで!」
「彼の言葉じゃないけどね、ゼル。僕らみたいな人間は、綺麗なものはいつまでも綺麗でいて欲しいんだよ」
「俺だけ何も知らねえで、バカみてえじゃねえか……」
ぽつりと。噛み締めた唇から零れ出る悔しさを滲ませたゼルの言葉。
「だからこうして、君に話したじゃないか。今の君には隠すことより知ることの方が大事だと思ったし、それが彼のためにもなるってそう信じてる。スコールも同じだよ、君に悪いことをしたって悔やんでる。ああ、来たみたいだね」
つられるようにしてアーヴァインと同じ方向に顔を向けたゼルはそこにサイファーとスコールを見た。
椅子の背中に体を投げ出すようにして座るサイファーはあの日よりも更に、全身に倦怠感を纏っているように思える。
側へとやって来たウエイターのトレイには既にグラスが二つ。
テーブルへと置かれたそれを掌に包んで何度も躊躇うように中身を揺らすスコールとは対照的に、サイファーは僅かの間に全てを飲み干し。
「いつも、あんな感じかな」
「……そっか」
「あんな飲み方していいはずないんだけどね。でも僕らには彼を止められなかった」
ねえ、ゼル。君ならどうする?
自分を見るアーヴァインの瞳がそう問いかけている。
「後は頼んだからな」
「もちろん。ちゃんと運ばせて貰うよ」
ここまでゼルを乗せて来た車のキーを軽く目の前に翳すアーヴァインにもう一度、頼んだぜと言い置いてゼルは席を立った。
「あんた、何がしてえんだよ」
サイファーの真横に立ち、ゼルは片手をテーブルに付き。
「ばっかじゃねえの?そうやって毎晩、毎晩。こいつらに面倒かけてたのかよ」
「……何にも知らねえチキンが偉そうに」
「知るはずないだろ、あんたらが揃って俺に黙ってたんだからよ」
言うが早くゼルの手は水の入ったグラスを握りサイファーの頭上で傾けた。
それを目撃した店内の数人が一瞬息を飲んだが、罵声が飛び交うでもなく掴み合いが始まるでもないことを悟ると瞬く間に関心を失う。
「来いよ、サイファー。こんなとこじゃ話も出来ねえ」
「何の話だ」
「あんたと俺と、これからのことに決まってんだろ。無理にとは言わねえけどな、あんたがこれで全部終いだってんなら、俺は別にそれでも構わねえよ」
サイファーが何も話さず、何も求めないと言うのならばそれでいい。
それでもきっと自分はこの男が好きだし、死ぬまでその思いに変わりはない。ただ互いの在り様が変わるだけでこの気持ちが変節するわけじゃない。
これからも共に在るのか、それとも違う道を歩くのか。それを選ぶのはサイファーだ。
「サイファー、もういいだろう?」
先に声を発したのはスコールだった。
「せっかくゼルがくれたチャンスだ。これを逃して後で俺たちに八つ当たりされたって知らないからな。あんたがその手を離すなら、付け入る隙を狙ってる奴がいるってことを忘れるな」
「……どいつもこいつも、下らねぇ。下らなさ過ぎて飲む気も失せちまう」
「あんたは本当に、素直じゃない」
「お前らも、だろ。行くぜ、チキン」
「え、あ…ああ」
濡れた髪や顔を拭うこともせず、立ち上がったサイファーは当然のようにゼルの前を歩く。
「ほんっと、あんたって偉そうだよな」
「ほっとけ、これが俺だ」
一歩店の外に出れば車を回して来たアーヴァインが待っていた。
「はいこれ、明日にでもスコールに返しておいてね。返却が遅れて始末書なんて、僕は書きたくないからね。そうなったらサイファーに書いて貰うといいよ、うん」
「てめぇが書け、ヘタレ」
「嫌だね。僕より君のが始末書なんて書き慣れてるでしょ」
ほら、ゼル。こいつ早く連れて帰りなよ。
そう言って差し出されたキーを受け取ったゼルはそのまま運転席に滑り込んだ。
当然のようにハンドルを握ると思っていたらしいサイファーは僅かに不満そうな顔を覗かせたが、無言のまま助手席に乗り込む。
見送るつもりなのだろうか、その場に佇んでいるアーヴァインに開けた窓から軽く手を振りゼルはアクセルを踏み込んだ。
家、へと戻る道。ゼルもサイファーもどちらも無言のままだった。
話さなければいけないことは山ほどある。けれどもそれには時間が必要だし、何よりもまず落ち着いて向かい合うことこそが大事で。
玄関の前に車を横付けにし、揃って家の中へと入る。
「なんつーか、すげえな……これ」
「いつも散らかしっぱなしのてめぇが言えることじゃねぇだろうが」
床の上に脱ぎ散らかされた服。
いつ捨てたのか分らない、灰と吸殻をテーブル上に溢れさせている灰皿。
どれだけ飲み続けたのか考えるのも恐ろしいほどの空になった酒のボトル。
荒れ果てた部屋の中はそのまま、サイファーの心の荒み具合を表しているようでゼルは切なくなる。
「で?勝手に出てって、戻って来る気はあんのか、てめぇ」
周囲に散乱する邪魔な物を足で蹴散らしたサイファーはソファーの上の物も無造作に払い落とし、どかりと腰を降ろす。
そうしなければ気が済まないのか、吸うのか吸わないのか分らないタバコに相変わらず火を灯して。
いつから締め切っているのか淀んだ部屋の空気の中に紫煙が立ちこめ、サイファーのタバコの匂いが満たして行く。
「あのさ。戻る気はあんのか、じゃねえだろ」
「なら、何だ。てめぇに頭を下げて戻って来てくれって俺が懇願すりゃあいいのか」
「サイファー。俺が言いてえのは、そんなことじゃねえ」
「………どうしろっつんだ」
あんただって、とっくに気が付いているはずだ。
何があっても俺は、あんたから離れてなんて行かないことを。あんたしか、見ていないことを。
この気持ちをどうやって伝えればいいのだろう。どうすれば悲しみに荒れたあんたの心を満たしてやれるんだろう。
ゼルは逡巡する。
いくらでも言いたいことはある。そのための言葉は用意されている。
いい加減にしろと怒鳴ることは簡単だ。俺の気持ちを少しでも考えたことがあるのかよと、怒り詰め寄る権利だってあるはずだ。
けれどそれでは、サイファーにもゼル自身にも恐らく逆効果になる。
一度大きく息を吸い込み、ふう、と吐き出して。ゼルはそっとサイファーの頭を両腕に抱いた。
「俺は……あんたが思ってるより、もっと。あんたを愛してるぜ、サイファー」
抱き込んだ腕の中でサイファーの体が硬直し、細かく震えるのが分った。
先刻、店内で自分がかけた水で濡れたままのサイファーの髪に頬を押し当てて、小さな子供にするように何度も何度も繰り返しキスを落とす。
こんなにも俺は、あんたが愛おしい。
「ガキ…にするみてぇな……真似、しやがっ……て」
低い嗚咽混じりの声でそう嘯くサイファーは、それでもゼルの腕を解こうとはしなかった。
「だってあんた、ガキじゃん」
「それはてめぇの方だ」
「じゃあ、どっちもガキでいんじゃねえの?俺さ、アーヴァインに全部、聞いた」
「…だろうな」
「何であんたが、あんた達が俺にそういうことを教えたくねえのか、やっぱり俺には理解出来ねえ。でも、さ……あんたが嬉しいと思うこと、悔しいと思うこと。悲しいこと、苦しいこと。俺はあんたの全部を知りてえよ」
「聞いたって、てめぇにゃ分んねぇだろうが……」
「そんでも聞くぐれえは出来んじゃん、あんただってそうだろ?いつだって俺が隠し事すりゃ怒っくせに自分だけ隠し事しようなんて、ずりいじゃんか」
サイファーの肩が一瞬大きく震え、そして搾り出すようにして言葉が続く。
「……そう、だな」
強いあんたも、弱いあんたも俺は好きなんだ。
そう告げるようにゼルはサイファーを抱く腕に力を込める。
「明日」
「ああ」
「明日、俺の誕生日なんだよな。あんた忘れてねえ?」
「んな大事な日…幾ら何でも忘れるかよ」
「今までもそうだったけどさ、これからもずっと。俺の誕生日は一番に、あんたが祝えよな」
「たりま……え、だ」
止まっていたはずの嗚咽が、再びゼルの耳に聞こえた。
本当はサイファーが泣いていることなど知らない顔をしてやろうとも思ったのだが、少しぐらいの嫌がらせはこの際許されるはずだ。
「ほら、あんたのがガキじゃん。いい年こいて泣くんだもんな」
「泣いてねえよ、バカチキン」
「んじゃ、何だよ」
「………煙が目に滲みただけだ」
「ふうん?」
とっくに燃えて消えているはずのタバコのせいにするならば、それでもいい。
明日になればサイファーのことだ。当たり前のように偉そうな態度に戻るだろうが、ほんの僅かでも垣間見せたこの姿はこれから先。
二人が共に歩いて行く道にまた、違う標を刻んだのだと。ゼルはそう確信した。
毎度、素直じゃない旦那です。
それに振り回されて、それでもとことんまで付き合うゼルは本当にこの旦那が好きなんだろうなあ。
書いた本人が言う言葉じゃないですけれど。
素直に自分を曝け出せる人間とそうではない人間と。ゼルは前者でサイファーは後者。
アーとかスーさんも多分、後者。
救って欲しいと願いつつ、意地とかプライドが邪魔をして全てを拒否するサイファーってありそうだなあと。
だけどきっとゼルはそんな意地っ張りな旦那でも赦してくれるんだと思います。
サイファーがサイファーであり続けること、そして一緒にい続けること。ゼルの願いってそうなんじゃないのかな。
今のこの子達って何歳だっけ、と考えたらこういうお話もいいんじゃないのかな、って。
是とするか、否とするかは読んで下さった皆様が決めて下さると思ってます。
こんなお話でもいつもの通りラストは HAPPY ENDのはず。
そして今年もお誕生日おめでとう、ゼル!なのです。
08.03 如月アヤ