3. Tボード(with Quistis Trepe)
「‥‥つまり。この騒ぎの原因は、Tボードの故障だと言いたいのかね、君は。」
「や、故障ってほどじゃねえすけど。ちっとブレーキが甘くなってんのを忘れてて、カーブを曲がり切れなかったっつうか‥‥。」
苦虫を噛み潰したような顔の教官を前に、ゼルはなぜか照れくさそうに頭をかいて曖昧に笑った。
教官は、脇に控えているキスティスに詰るような視線を寄越す。
キスティスは閉口した。
そんな目で見られても困る。
自分はたまたま現場に居合わせた成り行きでこの指導室に同行しただけで、何かを非難される謂われはまったくない。
そもそもゼルは、キスティスの担当生徒ではないのだ。
「いいかね、この際君が女子トイレに突っ込む羽目になった理由などはどうでも良い。」
教官はやれやれという具合に首を振り、ゼルに向き直った。
「問題は、ガーデン内での使用は禁止されているTボードを乗り回していたという事実だ。君は風紀委員からも再三注意を受けているはずではないのか。」
「え。」
ゼルは弾かれたように顔を上げた。
「じゃあ、本当に禁止なんすか?」
「なんだって?」
「いや、オレ、てっきり禁止っつうのはサ‥‥風紀委員のハッタリだとばっか思ってて。」
「ハッタリ?」
「はあ。オレ、何かっつうと目のカタキにされるんで‥‥マジで禁止だって知らなかったんす。えと、すんません。」
バツが悪そうにひょこりと頭を下げるゼルに、キスティスはつい吹き出してしまった。
教官は今度こそ真顔でキスティスを睨んで、もったいぶった咳払いをしてみせた。
「とにかく。今度騒ぎを起こしたら君の評価にもそれなりのペナルティを課すからそのつもりでいたまえ。‥‥トゥリープ君。」
「はい。」
「君も教師なら、このような時は速やかに生徒を指導して事を収拾したまえ。自分は無関係だなどという意識でいては困る。いつまでも学生気分でいてどうするんだね。」
ずきりと胸を突かれ、キスティスは顔を強ばらせた。
唇を噛んで軽く頭を下げる。
「はい‥‥申し訳ありません。」
「よろしい。仕事に戻りたまえ。」
教官はいかにも鷹揚に頷いて、ドアを顎で示した。
「あの。すんません、オレのせいで先生まで。」
「いいのよ、慣れてるから。新米教師にはよくある事よ。」
「でも。‥‥ホントすんませんでした。」
何度も頭を下げるゼルに、キスティスは微笑んでみせた。
落ち着きのない問題児ではあるが、こういうところは至って素直で可愛らしい。
ふと、自らが担当しているある生徒の事を思い出した。
せめてゼルの半分でもいい、彼にもこうした素直さがあったならどんなに良いだろう。
数ヶ月前、教職についたキスティスが真っ先に担当を任されたのが彼だった。
成績はずば抜けて優秀だか万事気難しく、なかなか心を開こうとしない彼に、彼女は早くも手を焼いていた。
気の毒に、わざと一番難しい生徒を割り当てられたんたよ、君の才能をやっかむ古参の教官は少なくなないから。
親切な知人がそう耳打ちしてくれたが、実際その通りなのかもしれなかった。
史上最年少でSeeDとなり、教職にまで抜擢された時は心から嬉しかった。
周囲を取り巻く様々な賞賛が心地よく、これまでの人生で始めて自分の価値が認められたと思えて、誇らしかった。
両親の反対を押し切り、喧嘩同然に家を飛び出してまでガーデンに入学した甲斐があったと思った。
彼女の両親は、常に彼女の言動を否定して戒めることのみに終始する人達だった。
そうすることが親として正しい愛情であり教育であると信じて疑わなかった。
両親の厳格さと息苦しさに耐え兼ねた彼女は、一刻も早く自立したいと願い、その最短にして最善の手段であるSeeDという職業を選んだのだ。
だがいざSeeDになり教師となってみると、最初の誇らしさも虚しく、彼女は早くも挫折を覚え初めていた。
よもやこんな試練が待ちかまえているなんて、思いもよらなかった。
担当する生徒の事のみならず、彼女は先任教官らのあらゆる嫌味に耐え、また軽率でデリカシーに欠けた一部生徒らの揶揄にも耐えねばならなかった。
同年代であるにも関わらず、かたや教師かたや生徒と立場を分かたれているのは、考えてみれば不自然なことだ。
担当する彼が彼女に心を開かないのも、実はそういう理由があるのかもしれない。
しかしそれはどうしようもない事だった。
彼女に出来る事と言ったら、その不自然さを覆い隠すために人一倍毅然とした態度を装うことぐらいしかない。
そのためには常に背伸びをして神経を張り詰め続けなければならず、そしてそれは、さらなる彼女のストレスとなって肩にのしかかっていた。
思わず、溜息が漏れた。
自分は一体なんのためにSeeDになり、教官になったのだろう。
自ら好んでストレスを抱えるためにこの道を選んだわけではないはずだ。
「でも。先生とこうして話できるなんて、なんか照れくさいっす。」
「え?」
キスティスははっと我に返った。
いつのまにか思考にとらわれ、傍らに彼がいるのを忘れていたのだ。
咄嗟に、掌に冷たい汗が滲むのが解った。
生徒の前で考え事をしてぼうっとするなんて、教師らしくなかったに違いない。
しかしキスティスの狼狽には気付かないのか、ゼルは同じ調子で続けた。
「先生に憧れてるヤツら、いっぱいいるから。オレ、やっかまれちまう。」
「そんな。」
ぎこちなく笑い返すと、ゼルは不意に真面目な顔で唇を引き結んだ。
「お世辞とかじゃないです。先生はホントにすげえと思うし。」
ゼルの声があまりに真剣なので、キスティスは思わず歩みを止めた。
見直すと、彼女よりも幾分背の低い彼の鼻先には、薄い皺が寄っている。
本人は、努めて難しい表情を作っているつもりなのだろう。
だがいかんせん幼さの残る顔立ちが災いしてしまって、それは険しさというには程遠く、せいぜいが無邪気なしかめっ面といったところだった。
「あんな風に‥‥色々、意地わりいこというヤツもいるかもだけど、でも。」
「‥‥。」
「気にすることねえと思います。先生は実力があるからSeeDになって、先生になったんだし。オレはえっと、真面目に‥‥尊敬してますから。」
「え‥‥」
一瞬呆気にとられた。
ゼルは同じ表情のまま、前を向いている。
左頬のトライバルが、やけに鮮やかに浮き上がって見えた。
──この子。
私を、元気づけようとしてくれてる。
ようやくゼルの意図に気付き、キスティスは少し恥ずかしくなった。
きっと無意識のうちに、落ち込んだ顔になってしまっていたのだろう。
生徒に、そんな気まで遣わせるなんて、私ったら──。
けれども同時に、ゼルの意外とも言える気遣いに仄かな感動も覚えずにいられなかった。
周囲からは問題児呼ばわりされ、子供っぽくて手がかかると軽視されているけれど。
その実、心底からの素直さと人を気遣える優しさも持っている。
そういう意味では彼は立派な──大人ではないか。
「‥‥ありがとう。大丈夫よ。これでも打たれ強い方なの。」
なぜだかふわりと気持ちが軽くなって、キスティスは微笑んだ。
「あなたの打たれ強さほどじゃないけれどね。」
「え、オレ‥‥?」
「ええ。何度注意されてもへこたれない。」
ゼルの小脇に抱えられたままのTボードを指先で示すと、ゼルはあ、と頬を引きつらせた。
「ポジティブなのはいいけれど。あまり教師陣のひんしゅくを買わないように自重なさいね、ゼル。」
「う。いやその。」
もごもごと口籠り、肩をすくめたゼルの仕種が可笑しくて、キスティスは声を出して笑った。
と同時に、張り詰めた緊張が次第に緩んでいくのを感じた。
──そうね。きっと、悪い事ばかりじゃないわ。
挫折や苦難ばかりじゃない。
時にはこんな素直な優しさに救われ、癒されることもあるのだから。
「それ、早く寮に置いてこないと。次の講義、始まるわよ。」
「は、はい。」
慌てて一礼し、そそくさと廊下の角を曲がっていくゼルを笑顔で見送って、キスティスは歩みだした。
教室へと続く長い廊下は、穏やかで暖かな午後の光に満ち溢れていた。
Fin.