4. 刺青タトゥ(with Nida)
一瞬、それがあのゼル・ディンだという事がまったく認識できなかった。
こんな奴ガーデンに居たっけ、咄嗟に首を傾げてそう思ってしまった。
もちろんそんな錯誤はほんの一、二秒で、すぐにゼルだと解ったのだが、しかし今度はさらなる困惑がニーダを襲った。
なぜなら、ゼルの顔に。
少なくとも一ヶ月前は、こんな刺青など、絶対になかったはずだったから。
「ど、どうしたんだ、それ。」
鮮やかな漆黒の幾何学模様に目を奪われたまま、ニーダは茫然と尋ねた。
学習パネルの横を覗き込んでいたゼルは、不思議そうに顔を上げた。
「うあ? なに?」
「なに、じゃないよ。その顔‥‥。」
「あ。これか?」
ようやく気付いたのか、掌で左頬を押さえ、ゼルはにっと犬歯を見せる。
「カッコイイだろ。」
「カッコ‥‥あ、ああ、まあそうだけど、でも‥‥」
なんで、いきなりタトゥーなんか。
続けようとしたニーダの言葉は、講義開始のベルに掻き消された。
教壇についた教師が、おもむろに学習パネルの電源を入れるよう促す。
静まり返った教室に、学生らの単調な動作の音が続き、誰かが小さな咳払いをした。
ニーダは素直に指示に従いながらも、傍らのゼルの横顔が気になってしまって、ちらちらと視線を送り続けた。
夏休みが明けて二日目、歴史の講義だった。
まだ休み気分の抜けない学生らは、一様に芒洋とした表情である。
ニーダもまたその一人だった。
つい三日前まで過ごしていた彼の実家に思いを馳せつつぼんやりと教室に入って席につき、ついてからも今度はいつ帰省できるだろうなどととりとめもない事を考え続けていた。
講義開始ぎりぎりになって、隣の席に男が滑り込んできた時も、上の空だった。
ようニーダ、と声をかけられたものの、生返事をしただけで、あえて誰なのかまでは確認しなかった。
それが、今我に返ってみれば、この横顔である。
逆立てた前髪も、少し上向き気味の鼻筋も、確かにゼルだ。
見慣れたあのゼル・ディンであることに間違いはないのだけれども。
昨年、新入生の中にずば抜けて格闘に長けたヤツがいる、と噂では聞いていた。
しかもこれが新入生のくせに生意気なヤツで、あの風紀委員長にさえ食ってかかるともっぱらの評判だった。
一体どんな強面の新入生かと思っていたのだが、今年に入ってその当人と幾度も講義で顔を合わせるようになった。
最初は、まさかこの小柄で童顔で人懐っこい笑顔のゼル・ディンが、例の新入生だとは信じられなかった。
あまりに想像とかけ離れていて、さすがに冗談だろうと思ったのだ。
だが何度か言葉を交わす内に、どうやら間違いないと解ってきた。
明るく素直で憎めない男だが、目立ちたがりで負けん気が強く、激しやすい。
風紀委員長に食ってかかるという話も、どうやらあの口の悪い風紀委員長の冗談やからかい文句に、いちいち反応してのことらしい。
それを知った時には、律儀というか馬鹿だよなあと内心呆れたものだったが、ともあれゼルとはすぐに打ち解け、親しいという程ではないにせよ、気軽に声を掛け合う間柄になったのだ。
その、ゼルが。
夏休みを挟んで久々に顔を合わせてみれば、いきなりなんの前触れもなく、横顔に大胆なタトゥーを張り付けている。
蒼い虹彩の大きな瞳を囲むように、幾何学模様は刻まれている。
いわゆるトライバルだ。
額のほぼ中央から、斜めに細長い三日月が傾き、その中心からこめかみにかけて反り返った曲線が続いている。
曲線の上部には、ちょうど眉の上に伸びる短い枝がひとつあって、曲線の終点近く、すなわち眦にあたる部分には優雅で有機的なラインが二本並んで伸びていた。
漆黒の先端はいずれも鋭利な刃の切っ先のように尖っている。
細切れに観察する内に、最初の驚愕は徐々におさまり、やがてそこはかとない感動がニーダを包み始めた。
なるほど、「カッコイイ」のは確かだ。
凛としたその漆黒の輪郭は、ゼルの滑らかな頬にくっきりと映える。
幼さを残すゼルの容貌にそれは一見不釣り合いとも思えたが、仔細に眺めていると決してそんな事はない。
ゼルの内面に秘められた頑なな意思を具現しているようで、潔く、むしろとても良く似合っている。
だがそれにしたって、随分と思い切った事をしたものだ。
一生消すことのできない刻印を、堂々と自らの顔に刻むなんて。
ニーダはついつい呆れた声で呟いた。
「カッコイイ、のは認めるけどさ。」
「んあ?」
「なんで顔なんだ? 一番目立つとこじゃないか。」
するとゼルは、つられたように呆れ顔になった。
「だからじゃん。」
「ええ?」
「一番目立つとこに、彫ったんだよ。」
なんだよそれ、と切り返そうとした時、突然鋭い声が教室に響き渡った。
「ゼル・ディン! 私語は慎みなさい!」
二人は硬直し、前に向き直った。
と、怒鳴った教師が一瞬ぎょっとした表情になるのが解った。
怒鳴った後でゼルの左頬に気付き、案の定驚いたらしい。
だが、さすがにそこはガーデン教師である。
別段狼狽することもなく、穏やかに教壇のパネルに視線を戻すと、何事もなかったかのように淡々と説明を再開した。
ゼルはちらりとニーダに視線を寄越し、どこか得意げに犬歯を見せた。
ニーダは軽く肩をすくめてみせる。
一番目立つところに彫った、なんてあまりにも馬鹿げてるけれど。
まあ、目立ちたがりなゼルらしいといえばゼルらしいのかもしれない。
自分には、逆立ちしたって真似のできない行動だ。
仮に真似をしようと試みたところで、周囲の失笑を買うのがオチだろう。
ニーダは軽い羨望を覚え、そっと溜息をついた。
ゼルは、このガーデンでは(どちらかというと悪い意味でだが)結構な有名人である。
一方自分は、目立たないSeeD候補生の一人に過ぎず、たとえば見ず知らずの学生らに名前を覚えられていることなどまず有り得ない。
その事実をまったく卑屈に思っていないといえば嘘になるし、ゼルに対してこうした羨ましさや妬ましさを感じることも少なくない。
けれども──。
「誓い、みてえなもんかな。」
ぽそりと呟いたゼルの横顔を、ニーダははっと見直した。
「ぜってえSeeDになってやる、っていう。誓いなんだ、オレなりのさ。」
──SeeDに、なる。
俄に、背筋が奮い立った。
そうだ、SeeDになる。
それこそは、最大の目標であり目的じゃないか。
ゼルも自分も、目指すところは同じだ。
有名な問題児であろうと目立たない候補生であろうと、その点だけは変わらない。
最たる目的の前にそんな妬みなど、些細でつまらないことに過ぎないじゃないか──。
学習パネルの下で固く拳を握り締め、ニーダは顔を上げた。
「‥‥僕だって誓ってるさ。タトゥーまで入れようとは思わないけど。」
するとゼルは、屈託なくあははと笑った。
「ったりまえじゃん! オレはオレ、お前はお前なんだからよ。」
前の席の生徒が、前を向いたまま肘で軽くゼルの学習パネルを小突いた。
気をつけろ、また注意されるぞ、という意味だろう。
二人は慌てて首を竦め前方の様子をうかがった。
幸い教壇の教師はスクリーンに流れる文字を説明していて、こちらには背を向けている。
ゼルは脇目にニーダを見て、セーフだな、と唇を動かし笑ってみせた。
そうなのだ。この笑顔。
この無邪気な明るさは、ニーダの卑屈な気持ちを一瞬で拭い去ってしまう。
ゼルは、まったくもって不思議な存在だった。
話していると、そのゼル当人に対して抱いていたはずの羨望すら消え失せ、ついついその明るさに感化されて、根拠もないのに前向きな気持ちになれてしまう。
「でもよ、ニーダ。」
ふと笑顔を引っ込めて、ゼルは真面目な顔で声を低めた。
「お互いSeeDにはなろうぜ。‥‥ぜってえさ。」
「ああ。」
ニーダは力強く頷いた。
「いつか、僕だって。SeeDになって、このガーデンを動かすほどの男になってやるよ。」
「おお? いいな、それ!」
「だろ?」
二人はもう一度、顔を見合わせて笑った。
明るく軽やかな気持ちが、ニーダを優しく包んでいく。
ゼルの頬を彩る漆黒のトライバルは、窓から差し込む残暑の陽射しを受けて、何よりも誇らしく輝いて見えた。
Fin.
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