Left-L-overs
車から数歩遠ざかったところで立ち止まり、そっと背後を伺った。
夕闇の中、テールランプがホテルのエントランスをゆっくりと遠ざかっていく。
忘れねえから、と呟いた余韻がまだ舌の上をさまよっていた。
そっと触れた頬の感触も、唇にまだ残っている。
ゼルはほう、とあるかなしかの溜息をついて、ホテルのロビーに足を踏み入れた。
確信があるわけではなかったけれど、もしかしたら、という推測があった。
そんなことは現実にありえないと否定するのは簡単だが、理屈で説明できない事はこの世にいくらでもある。
単なる自分の思い過ごしならそれでいいいのだし、とにかく確かめてみようと思ったのだ。
今朝方慌ただしくチェックアウトをしたフロントにそそくさと歩み寄って、歳若いボーイに声をかける。
ゼルといくらも歳の違わない彼は、驚いたように穴の開く程ゼルの顔を見つめた。
「あ、お客様‥‥。」
「すんません、ちょっと聞きてえんだけど‥‥。」
「良かった、戻ってらしたのですね。」
「え?」
「申し訳ありません、伝言をお渡しするはずだったのですが、お客様がチェックアウトされる際うっかり私が席をはずしていて渡さずじまいに‥‥。」
「伝言?」
きょとんとしてボーイの顔を見直すと、彼は心底ほっとしたように頷いた。
「はい。今朝お客様がチェックアウトされる1時間程前にこれをお預かりしたんです。」
と、二つ折りにした紙片を差出し、深々と頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでした。お連れの方とはお会いになれましたか?」
ゼルは慌てて紙片を開き、目を走らせた途端ぎょっとして硬直した。
見知った筆跡だった。
そう、嫌と言う程に。
端からみても尋常でない驚き方だったのだろう。
ボーイは酷く困惑した顔で恐る恐る言った。
「あの、お客様‥‥?」
「あ、いや。すんません、大丈夫っす。」
ゼルは慌てて掌を振り、しどろもどろに身を乗り出した。
「あの、この伝言を置いてった奴は。」
「長身の白いコートをお召しの方です。朝早くからロビーでお客様をお待ちのご様子でしたが、その伝言を残して出て行かれました。お声はかけなくてもよろしいとの事でしたが‥‥」
まずかったでしょうか、と言葉を濁す彼に、ゼルはもう一度首を振った。
そして、礼を述べるのもそこそこにホテルを出た。
いつしか日はすっかり暮れて、街路のあちこちにはネオンが灯っている。
ざわめく人通りを縫って、ゼルはせかせかと駅に向かって歩き出した。
胸中では推測が確信となっていた。
いかに非現実的であろうと、これは認めざるを得ない。
そうだ、この世には。
理屈で説明できない事が、いくらでもあるのだ。
ようやくガーデンに帰り付いたのは、はや夕食時だった。
恐らく食堂の方からだろう、食欲をそそる匂いが風に乗って漂ってくる。
空腹感に誘われて、ふと、日中に口にしたあの甘くて夢見心地な味を思いだした。
──あんなに甘いアイスクリームは、今まで味わった事がない。
それを苦笑混じりに手渡してくれた、あの長い指先。
髪を撫でた大きな掌。
力強い両腕、抱き寄せられた胸元、低い声。
それらはいつもとなんら変わらぬ温度で包み込んでくれたけれど、でも。
(‥‥何かが、違う。)
そう思った。
何かと言っても、それは大海にたったひとしずくだけ垂らされた真水のようなもので、実際は違いと呼べるほどの違いではない。
ほんの些細な違和感に過ぎないし、最初はほんの思い過ごしだろうと思った。
誕生日だから、というサイファーの気まぐれで、ささやかな「非日常」を演じてくれているだけなのだろうと考えた。
しかしそれにしては話が噛みあわないし、サイファーの態度はどう転んでも演技には見えない。
──サイファーだけど、サイファーじゃない。
それは理屈ではない、本能にも似た直感だった。
とはいえ「非日常」的に我侭を聞き入れて貰えるのが不快であろうはずがない。
むしろとてつもなく心地よかったし、素直に嬉しかった。
その快感を前にしては、些細な違和感もどうしてこんな事になったのかという疑問も、あっさり忘れてしまえた。
何しろ、目の前にいるのは紛れもなく「サイファー」なのだ。
仮に「あの」サイファーとは別人なのだとしても、あるいは「あの」サイファーの変化を遂げた姿なのだとしても、結局「サイファー」であるという現実は変わらない。
だったら、それはそれでいいじゃないか、と単純にそう思えたのだ。
ただ、それでもホテルのフロントに立ち戻ったのは。
真実を質したい誘惑に勝てなかったからだ。
ゼルはフロントで尋ねるつもりだった。
ロビーで人待ち顔に時間を潰していた男が、もう一人いなかったか、と。
ゼルは食堂を横目にSeeD寮へと足を向けた。
空腹感は耐えがたいが、この際後回しだ。
慣れ親しんだ階段を上り、見慣れたドアの前に立ち、空で覚えた暗証番号を入れる。
そしてドアの向こうには。
忘れようにも忘れえぬ、かけがえのない──ただし、最悪に不機嫌な恋人の姿があった。
ベッドからうっそりと身を起こしたサイファーは、じろりとゼルの顔を睨みつけると唇を歪めた。
傍らには頁半ばで放り出された本が数冊散乱している。
素肌に一枚だけ纏ったシャツは皺だらけで、長く横たわったままでいた事が知れた。
「‥‥どの面下げて戻ってきやがった。」
薄い唇が、低くかすれた声でうめく。
まるで冬眠から覚めたばかりで気が立っている熊のようだ。
そう思った途端、状況も忘れてゼルは吹き出した。
ほっとしたのだ。
目の前で獰猛な翠色の瞳をぎらつかせているのが、紛れもなくゼルの知っているサイファー・アルマシーであることに安堵して、気が緩んだのである。
一度吹き出すと、次から次へと理由もなく可笑しさがこみあげてくる。
これにはサイファーも肩透かしを食らったようだった。
眉をしかめ、くすくすと笑いつづけるゼルを不審げに眺め回す。
「何が可笑しい。」
「いや、うん。ワリい。」
ゼルは眦を拭うと、すとんとサイファーの傍らに腰を下ろした。
そして、呆気にとられるサイファーの首筋を矢庭に引き寄せ、はっしとしがみつく。
「なんだ。」
「ん。キスさせてくれよ、サイファー。」
「ああ?」
面食らった双眸から、とうに怒りは消えている。
「なんだっつうんだ。」
「いいから、いいから。」
笑みを含んだまま、薄い唇を塞いだ。
乾いて少しざらついた唇をそっと舌先で拭うと、すぐにいつもの熱い舌がそれに応える。
たちまち形勢は逆転され、顎を捉えられて、強引な舌先が口内に侵略してきた。
──ああ、この感触だ。
ゼルは蕩けるように納得した。
問答無用に翻弄され、流されてしまえる満足感。
一分の懸念も疑念もなく、身を委ねてしまえる充足感。
「ん‥‥。」
結局好き放題に蹂躙されて、火照った頬でゼルは唇を離した。
満足げな、しかしまだ一抹の訝しさを残した美しい翠眼がじっと間近で見据えている。
「‥‥どういう風の吹き回しだ。」
「ん?」
「詫びのつもりか。」
ああ、と熱い息を吐いてゼルは俯き、小さく呟いた。
「‥‥こんぐれえで詫びになるとは思ってねえよ。あんたに‥‥丸一日無駄にさせちまったんだもんな。」
元はと言えば。
朝、二時間も寝坊をして待ちぼうけを食らわせた自分が悪い。
この男が腹を立てて先にガーデンに戻ってしまったのも道理だ。
そう、最初からその事に気づくべきだった。
誕生日だろうとなんだろうと、二時間も待たされてあっさり許すほど、この男は鷹揚にはできていない。
「それほど待たなかった」なんて太平楽に許されたのは、単純に。
かのサイファーは、本当に「待たなかった」からに過ぎなかったのだ。
かたや「待たされた」方のサイファーは、とっくの昔に痺れを切らし、「ガーデンに戻る」という素っ気ない伝言を残してさっさと戻ってしまっていたという訳だ。
この世のどこかに──あるいはこの世ではないのかもしれないが──自分たちと同じ人間が存在している。
想像もしなかったけれど、現実として起こった以上信じない訳にはいかない。
そしてその異なる世界でも、自分は、あのサイファーに愛されているのだ。
無論「あちら」の世界のゼル・ディンも、心からそれに応えているのだろう。
そう思うと、ほっとすると同時に何やら切ないものが胸をよぎる。
あのサイファーが愛しているのは「自分」だけれど自分ではない。
同じ腕、同じ声のあの温もり、あの甘い囁き。
それらはすべて、見知らぬ「自分」のものなのだ。
自分が普段望んでも、到底手にすることのできない言葉や仕種やひとときを、「あちら」の自分は日常的に甘受しているのかと思うと‥‥やはり、羨ましい、ではないか。
自分に嫉妬するなんて、馬鹿げてるとは思うけど、でも。
「テメエはどうなんだ。」
「んあ?」
耳元の低い声で現実に引き戻された。
顔を上げると、真顔のサイファーが見つめている。
「テメエにとっても、今日は無駄な一日だったのか。」
「‥‥。」
ずきりと胸を抉られた。
何もかも見透かすような鋭利な眼差しに身体が硬直する。
「いや‥無駄‥じゃなかった‥と思うけど‥」
「なら、いい。」
あっさりと言ってサイファーは鼻先を小突いた。
「テメエの誕生日だ。テメエが満足ならいい。」
「え‥‥。」
ゼルはぽかんと口を開いた。
「き、聞かねえのかよ。何してた、とかどこ行ってたんだ、とかさ。」
「聞いたところで時間が戻るか。‥‥それに俺は。」
ふっと声の調子を緩めて、サイファーは言った。
「今日中にテメエのツラが拝めりゃあ、それでいい。」
ゼルは瞠目した。
胸が熱くなり、強張っていた身体がいっぺんに弛緩する。
そうだ、この温かさ。
この男には、この男なりの、温もりや慈しみがちゃんとある。
自分はそれを、誰よりも知っているはずではないか。
横柄な言葉に隠されて、どうしようもなくひねくれてはいるけれど。
それでもどこかしらから滲みだす、この照れくさいまでにひたむききな温かさを。
「‥‥サイファー。」
感極まって、思わず名を呼んだ。
しかしそのそばから、今度はしてやったりと言いたげな勝ち誇った声が降ってくる。
「ま、貸しを作るのも悪くねえ。返してもらう楽しみってえのがあるからな。」
「な、に‥‥?」
ぴくりとこめかみを引きつらせたゼルの目の前で、嫌な角度に口角がつり上がった。
「さっきのキスは利子分って事にしてやる。世辞にも巧いたあ言えなかったがなあ?」
「う‥うるせえ!」
かっと頬を熱くして、ゼルは吠え掛かり唇を噛んだ。
そうだ、こいつはこういう男だった。
人を安堵させておいて、すぐまた無情に足元を掬う。
恩着せがましくて、尊大で、身勝手で横暴で。
いつだって人を振り回してばかりいて、愛情表現さえも傲慢そのもので。
でも、それでも‥‥いや、それだからこそ。
この男は、かけがえのない、唯一の──。
声に詰まったゼルを、力強い腕が抱き寄せた。
長い指が髪をかき回し、大きな掌がゆっくりと髪をすく。
これをされると問答無用で、膝に抱かれた猫の気分になる。
そんな気分にさせてくれるのは──後にも先にも、この掌だけだ。
ゼルは目を細め、あらわな肩口に鼻先をこすりつけた。
仄かな汗と混じりあうきな臭いような甘い匂いを深く吸い込みながら、ふと思いついてポケットの中を探る。
指先にあたる小さな物体を固く掌に握り締め、意を決したゼルは、頬を剥がして端正な顔を見上げた。
「‥‥なあ、サイファー。」
「あ?」
「信じるか? その。すげえ、馬鹿げてるっつうか嘘みてえな話、なんだけどよ。」
生真面目な双眸がじっとゼルを見据え、やがて無言で促すように片眉が吊り上がった。
その表情に見蕩れたまま、ゼルはポケットから拳を引き出し、翠色の瞳の前にキーホルダーをぶら下げてみせた。
「実は、さ‥‥。」
鎖の先についたマスコットは、あどけない表情のままゆらゆらと左右に揺れる。
それはまるで、躊躇いがちに切り出すゼルの口調をからかっているかのようにも見えた。
Fin.
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