VAMPIRE
噛みつきたい。
灼けるような衝動にかられ、サイファーは湿った吐息を漏らした。
掌にじっとりと汗が滲んでいる。
目を眇め、対象との距離をはかる。
2メートルもない。
2、3歩踏み込んで手を伸ばせば、すぐにでも触れられる位置だ。
ゼルは一心に、靴紐を結び直す動作に没頭している。
訓練施設の照明は光度が低い。
まして、屈んだ姿勢が作り出す己の影がより一層手元の視界を暗いものにしているに違いない。
ただ結び直すというそれだけの作業に手間取っているのは、微かに漏れた舌打ちからも明らかだ。
ごくり、と唾液を飲み込む。
苦い。
息苦しいまでの焦燥感が胃の奥からせりあがる。
サイファーは見えない何かに突き動かされるように、じり、と踏み出した。
距離が狭まり、俯いたゼルの首筋が眼下に迫る。
それでもまだ、ゼルは気付かない。
淡く光を放つ金色の髪が彩る、その頸。
張り詰めて、誘うようにひっそりと息づくそこを見下ろす内に、ますます口内に苦いものが広がり、唇が乾いてくる。
噛みつきたい。
何かの折に、この白い項を目にするたびに思ってきた。
歯を立て、皮膚を食い破って。
溢れる血潮を啜り、嚥下してみたい。
身の底から沸き起こって、体中の血液を沸騰させるその衝動の理由はわからない。
ただ、そうしてみたいというだけだ。
あるいは歪んだ形での破壊衝動に過ぎないのかもしれない。
例えば、汚れを知らずに咲き誇る花を引きちぎりたくなるように。
一面純白に降り積もった雪を泥足で踏みにじりたくなるように。
なんの屈託もない笑みを浮かべる蒼い瞳を、恐怖に染めて壊したいだけ、なのかもしれない。
(俺は‥‥妬んでいるのか?)
常に明るい日向を歩み、誰からも愛されてきた、この無邪気な魂を。
自分には永遠に手に入らないものをすべてを持ちながら、その事を自覚しようともしないあどけない笑顔を。
自分には必要のないものだと背を向けてきたはずのものを。
‥‥本当は、妬み、羨んでいるというのか。
(‥‥んなこたあ、どうでもいい。)
もう一歩。
ゆっくり踏み出して、サイファーは思考を頭から追い出した。
意味も、理由も、どうだっていいのだ。
常々身を焦がしてきた欲望を満たす、またとない機会が、今目の前に転がっている。
理性で己の衝動を堪えて、機会を逃すなど------馬鹿のする事だ。
さらに一歩近付くと、とうとうゼルの屈んだ背中に膝頭が触れた。
びくり、とゼルの頭が持ち上がり、弾かれたようにサイファーを振仰ぐ。
だが、そんな反応はとっくにお見通しだ。
サイファーは素早く背中からおおいかぶさると、片腕でゼルの肩を羽交い締めにした。
「な‥‥!!」
腕の中で、大きく身が踊り蒼い瞳が驚愕に見開かれる。
「なにすん‥‥!!」
叫びだそうとした唇を、顎ごと掌で強く塞ぐ。
ゼルはますます目を見張って、立ち上がろうともがく。
だが、かなうわけがない。体格の差は歴然としている。
サイファーはゼルを見下ろしたまま、徐々に腕に体重をかけた。
重みに耐えきれなくなったゼルの身体が大きく前にのめり、うずくまるように地べたに倒れ込む。
「‥‥!んん‥‥! ん!!」
押さえ付けられる苦しさからか、掌の下でゼルがくぐもった声を漏らす。
サイファーは指先に力を込めて無理矢理ゼルの顎をひきおろし、俯かせる。
目前に。
緊張と苦痛に痙攣する、白い項が曝される。
低く、喉がなった。
唇ばかりか、もう、舌の付け根まで乾き切っている。
獲物はもう、腕の中だ。
サイファーは深く息を吐き出しながら、そこに鼻先を寄せると。
すべてを払拭する力強さで、荒々しく歯を立てた。
「ん、ぐっ!!!!」
指の合間から押し殺された悲鳴が漏れ、同時に口内に生暖かい液体がじわりと流れ込む。
軽く啜ると。
促されたように、それはどくりと脈打って一気に口内に溢れ返った。
無心に啜り、舌先で味わい、飲み下す。
二口、三口、歯列から、上顎から、下の裏側、喉の奥まで。
錆びた甘さが広がり、くすぐったいような膜を作る。
頭の芯が痺れて、目眩がする。
急速に癒されていく、乾き。
だがその一方で。
サイファーは奇妙な感覚を覚えていた。
満たされるそばから、底を火であぶられる瓶のように。
じわじわとつま先から這いのぼってくる、さらに熱い、焦れるような渇望。
サイファーはふと唇を離し、俯いたゼルの顔を覗き込んだ。
「‥‥ん‥‥う‥‥」
苦痛に歯を食いしばり、眉を潜め、固く瞼を伏せている。
額には冷たい汗が玉となって浮かんでいた。
その玉がつう、とこめかみを滑り降りるのを見た瞬間。
サイファーの身体を戦慄が駆け抜けた。
俯いた表情を凝視したまま、ゆっくり口を開く。
舌先をのばして、血を滲ませ続ける傷口を熱く舐め取ってみる。
「‥‥っ!!」
弾かれたように腕の中で身体が踊る。
押さえ付け、再度、舌を這わせる。
獲物は苦し気に身悶えて、肩を捩る。
ぞくぞくとした身震いが止まらない。
うねりとなった欲望が渦を巻きながら一点に集中していく。
(‥‥俺は‥‥)
高鳴る鼓動と昂りゆく呼吸のうちに、サイファーは悟った。
噛み付きたいのは、首筋だけではない。
啜りたいのは血潮ばかりではない。
欲望の理由なんて、小賢しく考えるまでもなかったのだ。
欲しいのは、コイツのすべて。
肉体も、心も。
すべてを捕らえ、支配し、吸い付くし、食い尽くしたい。
指先から力を抜き、ゆっくりとゼルの顎を解放する。
途端に低い苦悶の呻きと乱れた呼吸が、空気を震わせる。
痛みと酸欠とで朦朧としているのだろう、ゼルは焦点の定まらない瞳でサイファーを見た。
そこには恐怖というよりむしろ、なぜ、という疑念が如実に浮かんでいる。
瞳を見つめ返しながら、サイファーはゼルの身体を抱え込むようにして反転させ、仰向けに地面に押し倒した。
傷つけた首筋から流れ続ける血が。
喉元から鎖骨、胸の方までも赤く汚していた。
それを丁寧に、舌で舐めとる。
舌の動きに呼応するかのように、ゼルは喉を仰け反らせて引きつった声を漏らした。
鎖骨の窪みに小さな淀みを作っていた血がとろりと流れ出す。
「‥‥ゼル。」
声はくぐもり、ざらついて。
鳥肌の立った肌を滑りおりていく。
「ゼル。」
新たなる乾きと飢えに追い立てられるままに、喉元に唇を押し当てる。
唇で愛撫を加えながら、核心へと手を滑らせる。
畏縮したそこは、掌の中で抵抗を示すように微かに震えている。
‥‥おびえる生贄のように。
「‥‥‥‥ゼル。」
暗い衝動に背を押され、奈落の底まで堕ちゆく墜落感に陶然としながら。
サイファーは再び歯を剥くと、新たな傷口を喉元に刻んだ。
静まり返った薄やみの中に、ゼルの細く、掠れた悲鳴が尾を引いていく
血も肉も、そして心も。
--------欲しいのは、コイツのすべて。
Fin.
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