30/卒業


空は、どんよりと曇っている。
灰色の雲が一面に厚く垂れ込めて、昼時だというのにあたりは薄暗いほどだ。
だがそんな空の色とは裏腹に、ガーデンの校庭は明るいざわめきと笑い声に満ちていた。
校庭の中央には、空の殺風景な灰色とはまったく対照的な、色とりどりのガラス球や電飾で飾り付けられた大きな常緑樹がそびえている。
ゆうに五メートルはあろうかというその幹の周囲には数脚の脚立が据えられていて、それらにのぼった数人の男女が華やかなプレートやリボンを梢に渡している。
その周りに群がる年少クラスのSeeD候補生らは、みな一様に幼い瞳を輝かせて、鮮やかに彩られてられていく枝々を見上げていた。

「ったく、次から次へとよく考えつくもんだ。」

校庭の隅でその光景を眺めていたサイファーは、苦笑混じりに独りごちた。
ごてごてに飾り付けられていくその大きな常緑樹は、クリスマスツリーと言うらしい。
クリスマスという行事はむろん知っているが、そんなものを飾る習慣があるなどとはこの歳になるまで知らなかった。
いや、サイファーだけではない、おそらくガーデンの誰ひとりとして知らなかったろう。
この未知のモノをガーデンに持ち込んできたのは、他ならぬセルフィである。
トラビア出身の彼女は、色々とこの辺とは違った習慣を知っている。
加えて生来のイベント好きとその積極的な行動力が手伝って、時折こうした催し事を率先して企画するのだ。
彼女が来てから、バラムガーデンの雰囲気はだいぶ変わった。
学園祭も体育祭も、彼女の行動力のおかげで、今ではバラムガーデン恒例行事だ。
かつてサイファーがガーデンに戻ってきた時に、それに合わせるようにして開かれていた学園祭の事を思いだし、何やらくすぐったいような気分になる。
だが、馬鹿馬鹿しいと唾棄したあの頃の捻くれ荒んだ気分は、今はもうない。

穏やかで、安堵に満ちた日々が続いている。
SeeDとしての任務は、うんざりするほど退屈なものもあればひやりと命を脅かされるほど危険なものもあったが、不満はなかった。
ガーデンは相変わらず賑やかで、顔触れが変わる事もなく、皆が健在で平和だ。
時折小さな波風が立つ事があったりささやかな袋小路に迷い込む事はあっても、過ぎていく日常はおしなべて平和であり、幸福だった。

幸福。
かつてなら、そんなものはこの世にあるわけがない、あったとしてもそれは幻想でありただの自己欺瞞にすぎないと、鼻で笑って蔑んでいた言葉だ。
だが、本当に鼻で笑うべきはその頃の自分だと今は思っている。
この世に、幸福は確かにある。
ただしそれは、物や言葉で定義できるものではなく、これがそうだと明確に指し示せるものでもない。
他人には推し量れない、己だけが知り得るものだ。
そして、知り得るまでの間に、時にはひどく遠回りをしなければならぬものでもある。

漫然とそんな事を思い再び歩き出そうとして、ふと、飾りを指差し歓談している年少クラスの輪の中に、ひとり子供でない人間が混じっていることに気付いた。
せわしなく左右に振られる逆立てた金色の前髪。
漆黒のトライバルが目立つ白い頬。
子供達に袖を引かれて、いちいち頷いたり笑ったりとめまぐるしく変わるその表情。

(‥‥またガキどもにつかまってやがる。)
サイファーは心中で呆れながらも、そのかけがえのない恋人の姿に目を細めた。
あのバラムホテルでの夜から半年。
ゼルはかつての紆余曲折など忘れてしまったかのように、無邪気で屈託のない笑顔でサイファーの側にいる。
交す口づけも、重ねる体も、まるでずっと昔からそうしていたかのように自然なものになっていた。
ただしそういう関係になった今でも、ゼルは相変わらず小生意気でガキくさく掴みどころのないチキン野郎だったし、ゼルにとってもサイファーは横暴で石頭で絡みたがりのヤなヤローだ。
小競り合いは絶えないし、諍いも珍しくない。
だが、それでも。いや、それだからこそ。
幸福なのだ。
表向きは何ひとつ変わらない。
けれど心では、互いに奥の奥まで入り込んでいる。
あれこれ諍いながらも、常に安堵感に支えられていて、むしろ諍いを楽しんでいるようなところさえある。
それは恐らく、ゼルも同じなのだろう。
サイファーも落ち着いたけどゼルも雰囲気変わったよねえ、と人々が口々に囁き交しているのをサイファーも知っている。
ゼルの変化は、決してサイファーひとりの思い込みというわけではないのだ。

その場を去る事も忘れ、飽く事なく見つめ続けるサイファーの視線に、どうやらゼルも気付いたらしかった。
顔を上げ、不思議そうに辺りを見回し、そしてサイファーを見つけると途端に太陽のような笑みを頬に浮かべる。
ゼルは周囲の子供らに早口に何かを告げると、小走りに輪を離れ、まっすぐこっちに近付いてきた。

「サボってっとセルフィに怒られるぜ。」
肩も触れ合わんばかりの間近に迫って、ゼルはサイファーの顔を下から覗きこんだ。
サイファーが小脇に抱えている何本もの紙筒を顎で示して、にっと白い犬歯を剥く。
「それ、講堂に運んで飾り付け手伝えって言われたんだろ。オレもなんだよな、実は。」
確かに、その腕には段ボールの箱を抱えている。
パッケージからして、どうやら色とりどりの電球が入っているらしい。
サイファーはじろりとゼルを見下ろしてから、ちらりとツリーに視線を投げた。
「それがなんだってあそこにいたんだ。」
「え。や、だってキレイだったからよ。近くで見てえじゃん?」
「道草食うのもサボりじゃねえのか?」
「うるせえなあ。ちょこっと見てただけだって。」

拗ねたように唇を尖らせたその子供っぽい横顔に思わず破顔して、サイファーは先に立って歩き出した。
ゼルは当たり前のようにその後に続きながら、少し名残り惜しそうに何度もツリーの方を振り返る。
「なあなあ、後でゆっくり見ていいか?」
「俺じゃなくて伝令女に聞けよ。」
「や、そうじゃなくて、その。‥‥アンタと一緒にってこと。」
躊躇いがちにぽそぽそと背後で呟いた声に、一瞬脚が止まりかかった。
だが、何となく振り返らぬまま、わざとぶっきらぼうにああ、と答える。
ゼルはほっとしたように小走りに前へ出ると、サイファーに並んだ。
頭ひとつも違う位置から、蒼い瞳がまっすぐに見上げてくる。

「パーティってさ、美味いもんいっぱい出るよなきっと。」
「ああ。」
「んじゃ我慢しとこ。ホントはそろそろ腹へってきたんだけどよ。」
「は。まあた食い気か、チキン野郎。」
「うるせえ。」
「テメエの頭には食う事しかねえのか。だからチキンなんだよテメエは。」
鼻で笑ってからかうと、ゼルはむきになって鼻先に皺寄せた。
「黙れ! 食うのは人間の基本だぞ! 食い物に執着して何がワリい!」
「その執着、少しは他にも振り向けろよ。」
あまりにも真剣なゼルの剣幕にこみあげる笑いを堪えつつ、角を折れて、講堂に続く校舎裏の道に差し掛かった。
ただでさえ陽当りのよくないその道は、今日も一段と冷たい風を巻き込んで寒々としていた。
人影は見当たらないが、講堂の方からは雑多な人声と物音が響いてくる。
パーティ会場のセッティングと飾り付けで、てんやわんやなのだろう。
それらの声を遠くに聞きながらしばし無言で歩いていると、ふとゼルが呟いた。

「降んのかなあ、雪。」
見ると、傍らを歩きながらしきりに空を見ている。
「なんか、今にも降りそうって感じだよな。」
つられて灰色の空を見上げたサイファーは、はっとした。
脳裏に、過去の情景がオーバーラップしたのだ。
灰色の空、寒々とした木立、そしてこの声。

ゼルはのんびりとした口調で続ける。
「クリスマスに雪が降んのって、ホワイトクリスマスっつうんだよな‥‥って。あれ。」
はた、とゼルは足を止めた。
そして、同時に立ち止まったサイファーを、困ったような顔で見上げた。
「ん。あれ? 前にもこの話、したっけ?」

思わず、唇がほころんだ。
どうやらお互い同じ場面を思い出したらしいと悟って、心が緩んだのだ。
だが、ゼルの記憶は甚だあいまいなものだったようだ。
口にしたような気はしても、それがいつの台詞だったか、どんな状況での場面だったかまでは辿り着けないらしく、サイファーの意味ありげな笑いをいかにも不審げな眼差しで睨む。
「なんだよ。」
「いや。」
「なんだ、よ! ニヤニヤしやがって気持ちワリいだろ。」
「思い出し笑いってやつだ。」
「思い出し‥‥?」
「覚えてねえなら、いい。」
「なにを?」
ゼルはますます渋面を作って追求しようとするが、その時ようやく記憶の箍がぱちんとはずれたらしかった。

「あ。」
中途半端に唇を開いたまま、みるみるうちにその頬が赤らんで、所在無く視線が泳ぐ。
「‥‥えと‥その‥‥あん時、か‥‥。」
サイファーは低く笑うと、そわそわと肩を揺らしているゼルの額を小突いてやった。
「あん時は。マジで面喰らった。」
「う‥‥うるせえ、な。」
「勘違いすんな、たあよく言ったもんだぜ。なあ?」
「だ、だからあん時は‥っ、まさか将来こういう事になるなんて、夢にも思うかよ‥‥っ!」
それは、そうだ。
自分とて、よもやあの時の思いが現実となって叶うなどと、想像さえしていなかったのだから。

遠くから、見ているだけでよかった。
手に入れる事はかなわないと諦めていたし、土台無理な事だと思ってもいた。
だが、あの日を境に少しずつ何かが変わり始めた。
深く広大な湖に投じられた小石のように、それ自体はすぐに水底深く沈んでしまったけれど、小石が作った波紋だけはやがて大きなうねりとなって、お互いを巻き込み呑み込んでいったのだ。
だが今こうして、再び元通りに凪いだ湖面に立ってみれば、忌々しいと思えた小石は、水底でまばゆいばかりに美しい輝きを放っている。
あの雪の日の出来事を。
いや、すべての出来事を。
辛い過去としてではなく、優しく懐かしい思い出としてこうして想起できることは、きっと幸福のうちなのだろう。
いささか感傷的すぎる程に、サイファーは温かい気持ちに包まれた。
そして目の前では、小生意気で負けず嫌いで、それゆえ愛しい恋人がまだ吠え続けている。

「だ、だいたい、そういうアンタこそ!」
「あ?」
「た、たかがキ‥‥あんぐれえの事でマジでびびりやがってよ!」
「そうだったか?」
「とぼけるなっ! オレがこうして」
と、ぐい、と首をひきおろし、ゼルは鼻先をつきつけた。
「近付いただけで、アンタ思いっきりビビってたじゃねえか!」

ことり、と小さな音を立てて時間が一瞬止まった。
かたや屈み込み、かたや伸び上がって鼻先をつき合わせたまま、数秒の時が流れる。
蒼の双眸が一瞬しまったというように見開かれ、しかしすぐにゆらりと潤んで、穏やかな海のようになった。
ふたつの呼吸がゆっくりと絡み合い、シンクロして、徐々に重なっていく。
やがて。
先に口を開いたのはゼルだった。

「今度は。‥‥誤摩化したりしねえよな?」
硬直した姿勢のまま、唇だけがゆっくりと動いて、かすれた声を洩す。
「お前には関係ねえとか、たいした事じゃねえから忘れろとか。‥‥もう言わねえよな?」
サイファーは、頷く変わりにそっと口端を吊り上げた。
ゼルは深く息を吸い込み、今度ははっきりと、尋ねた。

「‥‥アンタ、オレのこと、好きか?」

「ああ。誰よりもな。」
ほとんど間髪を入れず、強すぎるくらいの口調で答えて、サイファーは小柄な背中に片腕を回した。
「誰よりも。テメエを愛してる。」

ふっくらとした唇に、軽く口づけた。
蒼い瞳の眦に、たちまち恥じらいの色が浮かぶ。
そして僅かの躊躇いの後、意を決したようにぐいと伸び上がった唇が、頬にかすめるようなキスをした。
「‥‥その台詞、忘れんなよ。」
首筋を解放し、肩口を押し返しながらゼルは鼻先に皺寄せた。
「他、向いたりしたら、許さねえから。」

早口に告げ、真っ赤になって、ぎこちなくサイファーに背を向ける。
サイファーはにやりと口元を歪め、その小柄な背中に目を細めた。
ゼルは視線を感じるのか、そわそわと小脇の箱を抱え直したりしながら空を見上げている。
が、ようやくそこに話題をそらすための格好の材料を見つけたらしく、嬉々とした声を張り上げた。

「あ。サイファー!」
「あ?」
「すっげ、ホントに降ってきた! ほらほら、見ろよ!」

興奮気味にゼルが指差した空を見上げると。
ふわりと、白い小さな結晶が鼻先に舞い降りてきた。
それはみるまに数を増やし、たちまち視界が白く染まりだす。
ゼルは動きを止めたまま、己の肘に落ちた雪の結晶に見入っている。
無邪気な子供そのままに、目を輝かせた横顔で。

サイファーは、こみあげる柔らかい感情に身を委ねた。
これが幻想ではなく現実であることに、素直に感謝せずにおれなかった。
今日のこの日、この横顔を、自分は永遠に忘れないだろう。
そしてこれからも、そういう場面のひとつひとつが。
思い出として、互いの胸に、刻まれ続けていくのだ。

ふりしきる雪は間断ない。
講堂に続く狭く殺風景な道には、あっと言う間に美しい白絨毯が敷き詰められていく。
サイファーは、片手で軽くゼルの髪を掻き回した。
そして薄い唇に、どこか勝ち誇ったような笑みを滲ませると、白い絨毯の上に躊躇のない一歩を踏み出した。

Fin.
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