29/眠り
夕刻の風景を切り取った窓は、まるで壁にかけられた絵画のようだった。
オレンジ色の空を背景に、海は黄金色をたたえて、その上を点々と白く海鳥が横切っていく。
左手の遠景に並んだバラムの街並の白亜の壁も、石造りの屋根屋根も、まばゆいばかりの茜色に染まってる。
家路をたどる子供らの甲高い声が、潮風に乗って遠くから運ばれてきた。
見下ろせば、眼下に広がる港には数隻の漁船が停まっていて、男達が甲板を磨きながら陽気な笑い声を上げている。
幼い頃から見慣れた、黄昏時の港町の風景。
けれど、この場所からこうして眺めるのは初めての事だ。
潮風を頬に受けながら、ゼルは切り取られた絵画の中に-----テラスにいて、手すりにもたれて空を見上げていた。
シーズンになれば逗留客で賑わうバラムホテルも、夏の盛りにまだ間があるこの時期は、閑散として静かだった。
任務先がバラム郊外の山岳地帯である事を知らされて、任務が終わったら休暇がもらえる事になっていたゼルは、ならばバラムに泊まっていこうと最初から決めていた。
同行したアーヴァインにその事を話し、先にガーデンに戻っていいと告げると、いいけど帰りはどうするのさ、とアーヴァインは訝った。
あてがわれたガーデン車両は一台だけだから、アーヴァインが先に帰ってしまったらゼルは取り残されてしまう。
だが、心配には及ばない。
ガーデンとバラムの間には、バラム港に停泊している高速上陸艇の点検のために二、三日に一度整備班の車が往復している。
戻る時は、それを捕まえて乗せて貰えばいい。
そう説明するとようやく納得はしたものの、それでもなお、本当に大丈夫かと何度も念を押しながら、アーヴァインはガーデンに帰っていった。
本当は。
整備班の車などではなく、あてにしている手段があるのだ、とは恥ずかしくて言えなかった。
そもそも、期待はしても無駄だと自分でも解ってる。
期待したところで結局、明日か明後日かには、整備班車両の窮屈な荷台の世話になるしかないに決まってるのだ。
だがアーヴァインを見送ったあと、一旦は実家の方角に向かって歩き出しておきながら、思い直して踵を返しバラムホテルに足を向けたのは。
やはり、心のどこかでそれを待ち望んでいるからなのだろう。
本来なら、実家のあるバラムに泊まるのにホテルの部屋なんて必要ない。
ただ、ホテルからなら、バラム港が一望できる。
たとえば。
きまぐれな釣り人がやってきて釣り糸を垂れる事があったとしたら、ホテルの窓からならすぐにそれを見つけられる、そう気付いたのだ。
漁船のドックから少し離れたコンクリートの桟橋。
かつてあの無愛想な白い背中が釣り糸を垂れていた辺りを見下ろしながら、ゼルは溜め息をついた。
こんなに気を揉むくらいなら、ちゃんとはっきり書けばよかった。
ささやかな後悔で、胸が締め付けられる。
冷静に考えてみれば、あんな遠回しな走り書きがサイファーに何らかの行動を起こさせるとは考えがたい。
出発の時間が迫っていて焦っていたとはいえ、同じ一行ならもっと素直に、任務が終わったらバラムにいるから会いにきてくれ、迎えに来てくれと書けば良かったのだ。
けれど自分が取ってきた不実な言動を思うと、どうしても躊躇が先に立った。
そもそも会いにきてくれなんて縋る前に、もっとたくさん詫びるべき事があるはずだ。
それを端折って来てくれなんて言ったところで、もうその手には乗らねえ、と苦々しく無視されるだろうし、そうされても仕方ない。
だが詫びるにしても、何をどう詫びたらいい?
具体的な言葉で述べようにも、いざ文字に表そうとすると混乱するだけだった。
これが手紙でなくて目の前にいて交わされる言葉なら、いかようにも言い様があったろうが、ペンを握りしめた腕は一向に動いてくれなかった。
考えあぐね迷いに迷って結局、やっとの思いで一行だけを書き付けた。
もう一度、バラムの海をアンタと見たい。
その言葉に偽りはなかった。
むしろゼルなりに、精一杯の思いをこめた言葉だった。
また一緒にバラムの海を眺める事ができたなら。
きっと今度こそ、素直に自分の気持ちをぶつけられるような気がしたからだ。
(‥‥つっても、あんな一行じゃ無理だよ、なあ‥‥。)
思わず鼻先に皺が寄るが、今さら己の文才の無さを悔やんでも仕方ない。
ゼルは手すりから身を乗り出すと、目をこらして港を見回した。
空のオレンジ色は徐々に明度を落とし、辺りは淡い夜の帳に沈み始めている。
待っていたってどうせ無駄だ。
でも、諦めるつもりがなかなか踏ん切りがつかない。
気がつけば漁船の周りにたむろしていた漁師たちもひとりふたりと家路を辿り、港は一日の役目を終えてはや眠りにつこうとしている。
「‥‥ちぇ。」
肩透かしをくらった子供のような舌打ちを洩らして、部屋に戻ろうとしたその時だった。
唸るような微かな音が、鼓膜に届いた。
宵闇の空気を震わせて近付いてくるそれが、聞き慣れたエンジン音である事に気付き、はっとしてテラスに駆け戻る。
見れば、ちょうどホテルの右手から黄色いボディの車が現れて港に入ってきたところだった。
車はまっすぐにドックに進んで、ちょうどホテルの窓の下、まさに眼下で停止した。
エンジンが切られて、辺りの静けさが一層際立つ中、運転席からすっくと長身が降り立つ。
ゼルは息を呑んで、人影を凝視した。
暮れなずんで翳りを増した視界に、その白い背中だけはまるで道標のようにくっきりと浮かび上がっている。
かろうじて見分けられる車の輪郭の向こうで、どうやら海の方を眺めているらしい。
「サイファー!」
迸り出た声に、男は弾かれたように振り返ってこちらを見上げた。
その顔に、僅かな驚愕と安堵の表情が浮かぶ。
遠目な上に、覚束ないはずの視界にも関わらず、なぜだかゼルにはその表情が手に取るように解った。
「実家じゃなかったのか。」
部屋に入ってくるなり、憮然としてサイファーは呟いた。
三日ぶりに聞くその声は、愛しくて懐かしくて、そして相変わらず不機嫌そうだった。
「ん。その‥‥なんとなくな。」
アンタが来るのを期待してたのだ、とはさすがに言えないから、曖昧に笑って適当に言葉を濁した。
とはいえ期待がかなった喜びで、自然と頬が火照ってくる。
サイファーはそんなゼルをじろりと睨み、続いて部屋の中を見回したが、まあいい、と低く呟くと、つかつかとゼルに歩み寄った。
そしてやおらポケットを探り、くしゃくしゃになった紙片をつまんでゼル目がけて突き出す。
「これはどういう謎掛けだ?」
「‥‥え。」
ゼルは上目遣いにサイファーを見た。
「謎掛け‥‥っつうか、まんまの意味、だけど‥‥?」
ぎこちなく鼻先の紙片を受け取ると、サイファーはは、と顎をしゃくった。
「だったらテメエの名前ぐれえ書いとけ、チキン野郎。悪戯だと思って鼻かんで捨てちまうとこだったろうが。」
「なっ‥‥!」
いきなり、チキン呼ばわりかよ。
不名誉なあだ名とあまりの言い様に、一瞬怒りがこみあげかけた。
だがふとサイファーの表情に気付き、怒りは引き潮のように失せていく。
憎まれ口とは裏腹に、サイファーの顔には露骨な安堵が浮かんでいた。
ゼルがここにいた事で、こうして言葉をかわせた事で、明らかにほっとしている様子だ。
どうやらサイファーはサイファーなりに、中途半端なこの手紙のせいで、あれこれ気を揉んでくれたらしい。
なるほど、サイファーにしてみれば。
あんな別れ方をした上に、三日も顔を合わせていない恋人から、突然こんな意味ありげな手紙を受け取ったのだから。
不安を感じたとしても無理はない。
「‥‥ワリい。急いでて、忘れてた。」
ゼルは心底申し訳なく思って、小声で詫びた。
そして自らサイファーに近付くと、伸び上がって深い眼窩を覗き込む。
「でも結局来てくれたじゃん。だろ?」
「‥‥うるせえ。」
「あんがと、な。」
早口に告げると、翠色の双眸が驚いたように見開かれた。
素直に礼を言われたのが意外だったのだろう。
ゼルはますます照れくさくなって、ひょいと身体を翻した。
そわそわとテラスに歩み出て、立ち尽くしているサイファーを振り返る。
「なあ。海、見えるぜ。」
「‥‥ああ。」
サイファーは仏頂面のままだったが、それでもゆっくりと追いかけてきて、傍らに立った。
潮風が控えめに、二人の頬を撫でて通り過ぎていく。
見上げれば、鋭利な三日月が浮いていた。
同じ手すりにもたれかかった白い肩がさらりと触れて、とくとくと鼓動が早くなる。
「こうしてっと‥‥色々、思いだすよな。」
独り言めいて呟くと、サイファーは無言で頷いた。
まるで眠っているかのような深い息遣いが、触れた肩から伝わってくる。
「前にさ。このままでもいいよな、ってオレが言ったの、覚えてるか?」
「‥‥テメエの言った事なら全部覚えてる。」
鹿爪らしく空を睨んだまま、低い声がきっぱりと答えた。
ゼルは面喰らって言葉につまり、所在なくかりかりと手すりを引っ掻く。
サイファーは視線を巡らせて、ひたとゼルを見据えた。
「それが、言いたかったのか。」
「え?」
「あのままが良かった、そう言いてえのか。」
「あ。」
ゼルは慌てて顔をあげ、頭を振った。
「ちが、そうじゃねえ。あの時はオレ、なんも解ってなかったんだなあって。そう思ってよ。」
ゆるやかに、サイファーの眉尻が上がった。
訝しさを示すそんな仕種が、心憎いほどに様になる。
思わず見とれそうになって、ゼルは再び狼狽して俯いた。
「オレ‥‥ホントは、さ。あの頃からずっと‥‥アンタが好きだったんだと思う。自分じゃ解んなかったけど、でも解んねえなりに、その‥‥アンタを失っちまうのが怖くて。それで、ずっとこのままでいられたらって思ったんだ、きっと。」
サイファーの視線は、動かない。
じっとゼルを見つめたままだ。
「結局、オレ、全然成長してねえんだよな。」
わざとらしい溜め息をついて、ゼルはがっくりと肩を落としてみせた。
「今こうしてても。アンタを失うのが、怖えんだ。アンタに愛想つかされて、もういらねえって言われたらどうしよう、って。‥‥もし‥‥誰かと比べられたりしたら。きっと、そこで終わりになっちまうような気がして‥‥それが怖くて。」
手すりにもたれたり離れたりしながら、心情を吐露する恥ずかしさで知らず知らずに早口になる。
「自信がねえ、んだと思う。アンタがオレのどこが良いのかも、いまだに全然解んねえし。」
「‥‥。」
「でもさ。アンタがオレのこと本当に好きかとか、どのくらい好きかとか、そういうのには自信持てなくても。オレは‥‥オレ自身は、やっぱアンタのこと‥‥。」
一旦間を置き唇を噛んで、ゼルは震える心臓を叱咤した。
「好き、なんだよ。アンタがどこ向いてても、たとえオレの事を見てくれなくなったとしても。それでもオレは」
「見くびるんじゃねえ。」
突如、サイファーが遮った。
「俺はな。ずっとテメエを、テメエだけを見てたんだ。それこそガキの頃からな。」
顔を上げると、怒ったような顔があった。
なんと言われても己の意志を曲げるつもりはない、とでも言いたげな、どこか子供じみた頑なな顔。
「いつだってテメエの方しか向いてねえし、テメエしか見てねえんだよ。」
そう言って、無遠慮に伸びてきた腕が、肩を抱き寄せ乱暴に髪を掻き回す。
逃げる暇もなくその手に顎をつかんで持ち上げられ、唇が触れた。
それは薄く冷たく。
仄かな甘さを残すような、優しいキスだった。
「今日という今日は、絶対逃がさねえ。」
「‥‥サイファー‥‥。」
「テメエのすべてを、俺によこせ。」
凝視する翠色の瞳が、獲物を狙う肉食獣のように細められた。
その強烈な視線に射すくめられて、まるで催眠術にかかったように、全身から力が抜けていく。
「‥‥全部、かよ。」
「全部だ。」
迷いのない両腕が、荒々しく腰を抱き寄せた。
息苦しいまでの抱擁に、心臓が今にも飛び出しそうに昂り出す。
ゼルは微かに鼻先に皺寄せると、崩れ折れかかった身体を力強い腕に預け、そっと首筋に腕を回した。
「条件‥‥つきならやってもいいぜ。」
「条件?」
「ああ。タダではやんねえ。」
「なんだ。」
憮然とした声が、顎をしゃくって促す。
ゼルは背伸びをすると、耳元に唇を寄せた。
身長差を補うために精一杯にそらした喉から、擦れた声を紡ぎ出す。
「‥‥アンタも、くれよ。」
「あ?」
「アンタの全部。オレにくれよ。‥‥ココロも。カラダも。ひとつ残らず、だぜ。」
端正な横顔が強張り、翠色の瞳が見張られた。
だがそれは一瞬のことで、薄い唇の端に、たちまち美しくて皮肉な笑みが浮かび上がる。
「‥‥欲張りめ。」
「そっちこそ。」
切り返し、吊り上がった口端にキスをすると、サイファーはそれが合図であったかのように、軽々とゼルを抱き上げた。
「言われねえでも、くれてやる。」
タトゥーの上に音を立てて口づけて、サイファーはゼルを抱えたままテラスを後にする。
潮の音が微かに遠のき、始終頬を撫でていた潮風がはたりと途絶えた。
「ずっと昔から。俺はテメエのもんだ。」
低く、諭すようなその声に、心臓がわなないた。
抱えられて運ばれた先は、部屋にあつらえられた大きなベッドの上だった。
それに気付いて一瞬身体が竦んだが、サイファーは宥めるような口づけで縋り付く腕をそっと解くと、強張ったゼルの身体を純白のシーツに横たえた。
明かりをつけぬままの部屋の中には、ゆらゆらと宵闇が揺れていた。
その闇の中、深い翠色の瞳が、灯火のようにゼルを見つめ照らしている。
ゼルは細く息を吐き、瞼を伏せた。
気配が迫って、唇が触れ、深く長いキスが呼吸を封じ込める。
世界が、次第にその輪郭を溶かしていく。
遠く押し寄せる波の音は、もはや遠い異世界のものになった。
ここがどこか、今がいつなのか、もうそんな事はどうでもいい。
注ぎ込まれる甘い息遣い、抱き締めあう体温、叫びだしたい程の高揚感。
それだけがすべてだったし、それだけで、充分だった。
サイファーが後ろ手にコートを脱いだらしく、重い布地が床に滑り落ちる音がした。
加えて柔らかな衣ずれの音が、それに続く。
薄く目を開けると、露になった逞しい首筋と、そこに揺れる銀色のチョーカーが視界に入った。
手袋を脱ぎすてた直の掌が、上着をたくしあげシャツの下に滑り込む。
這いのぼってくる指先はしっとりと冷たくて、同時に痛い程に熱っぽい。
「‥‥んぅ‥‥」
胸板の敏感な突起に触れられ、思わず唇の隙間で小さく呻いた。
サイファーは胸元に顔を埋めると、そこを口に含んで柔らかく舐り舌で擦り上げる。
「あ‥っ、う‥‥」
ぞくぞくと背筋を震わせる刺激に、上擦った声が溢れ出す。
ゼルは真っ赤になって、慌てて手の甲で唇を塞いだ。
と、すかさず伸びてきた腕が、その手を掴んで有無を言わせず引き剥がす。
「やっ‥‥」
「声、殺すな。もったいねえ。」
「な‥‥こと言ったって‥‥」
ゼルの反論など聞こえぬのか、サイファーは再び胸元に舌を這わせながら、布地越しに股間に触れた。
大きな掌にそこをくるみこまれて、指先で緩く形をなぞられる。
「‥‥ぁ、あ‥‥ん‥!」
堪えようと歯を食いしばるが、どうしても嬌声が漏れてしまう。
ゼルは泣きたくなった。
こんな声が出るなんて自分でも信じられなかったし、何より死ぬ程恥ずかしい。
しかしサイファーは、なおもその声を促すかのように、規則的に竿部を握ってくる。
そこは、かつて感じた事のないほどの熱を孕んでいた。
握られるたびにどくどくと脈打って、硬度を増していくのが自分でもわかる。
布地が無理矢理角度を封じ込めているから、次第に痛みさえ伴い出してきた。
窮屈さに眉をしかめると、サイファーはすぐに気付いたらしい。
手早くベルトをはずし、たちまち下着ごと衣服を剥ぎ下ろす。
「は‥‥あ‥‥」
解放された安堵感に、ゼルは無邪気にもほっとした。
サイファーは薄く笑って、たくしあがっていたゼルの上衣を掴み、上体を抱えるようにして引き抜いた。
全裸に剥かれた恥ずかしさに顔を背けると、サイファーは再び股間を探った。
邪魔な障害物が取り払われて、すっかり無防備になったそこが、掌にしっとりと握られる。
サイファーはゼルの表情を伺うかのように目を細め、おもむろに掌を動かし始めた。
「ん‥‥あ、あぅ‥く‥!」
きつくシーツを握りしめて、ゼルは嗚咽のように喘いだ。
喉の奥で、熱い呼吸が狂ったように踊っている。
濡れそぼった声が止めどなく溢れて、もう堪えがきかなかった。
さらに、肌を這い回る指先と、頬や首筋に降ってくる唇とが、容赦なく熱を煽っていく。
まるで体中が炎に包まれてしまったかのようで、熱くて熱くてたまらない。
ゼルとて、まっとうな成長を遂げた男だ。
己自身を慰める術くらいはもちろん知っていた。
だからぼんやりとながらも、セックスというのは恐らくその延長みたいなものなんだろうという認識は持っていた。
要は自分で慰めるか他人に慰められるかであって、そこにたいした差はないのだろうと思っていたのだ。
だが、違う。
これは、全然違う。
触れられることで、こんなに身体が熱くなるなんて知らなかった。
こんなにも激しく、抑制のきかない感情がこみ上げて身体を支配してしまうなんて、考えた事もなかった。
「力、抜いてろよ。」
朦朧とした聴覚に、サイファーの囁き声が響いた。
何の事か解らず戸惑っていると、中心を扱き続けていた手がするりと後ろに滑り込んで、谷間にあてがわれた。
「な‥‥」
「動くな。」
低く毅然と、しかし柔らかく言い放って、サイファーはそこに指先を捩じ込んだ。
異様な感覚に竦み上がって、ゼルは悲鳴を上げる。
「ひ、あっ、あぁ!!」
「力、抜け。大丈夫だから。」
「う‥‥」
半ば涙目になりながらゼルは唇を噛んだが、言われた通りにするしかない。
おずおずと下半身の力を抜くと、少しだけ楽になった。
すると、埋めた指が待っていたかのように少しずつ動きだす。
まるで何かを探りあてようとするかのように、あちこちを押し上げ、内壁をこねる。
他人に触れられた事など、当然ない箇所だ。
背筋を逆撫でされるような、不快とも快感ともつかない感覚が腰を震わせる。
だが、奥に近いある一点を押された瞬間、突如鮮烈な快感が全身を走り抜け、ゼルは雷に打たれたように飛び上がった。
「う、ぁあ!! ひ‥っ!」
「ここか。」
サイファーは満足げに呟いてそこを擦ると、添えるようにして指を増やした。
「あぁ、あ、く‥‥サイファー、サ‥‥!」
まるで鞭打たれるような快感に繰り返し襲われて、ゼルはパニックになった。
曖昧でざらついた不快感はいつのまにか消え失せ、甘く疼くような感覚が下半身いっぱいに広がっていく。
ただでさえ熱く滾っていた血液が、体中をものすごい早さで駆け巡り、喘ぐばかりで何もできない。
サイファーは規則的に指を動かしながら、ゼルの唇に、頬に、額に、幾度もキスを繰り返した。
やがて、刺激に慣れ始めた内壁はその入り口を少しずつ緩め、頑なだった括約筋も柔らかくほぐれて、三本目の追挿までもやすやすと許す。
サイファーが、そろりと身体を起こした。
そっと指が引き抜かれて、痺れるような異物感が残される。
遠ざかる息遣いと、ベッドのきしみ、衣服を乱暴に脱ぎ捨てる音。
ゼルは荒い呼吸のまま、ぎゅっと瞼をつむった。
すっかり思考能力を奪われてはいるものの、次に繰り広げられるであろう展開だけは容易に察しがついた。
怖くない、といえば嘘になる。
だけど身体の奥底で、怖さとはまったく別の何かが早く早くと焦れている。
これは、なんなんだろう?
こんな焦燥は、今まで感じた事がない。
ただ、ただ早く進めて欲しくて、早くこの疼きを止めて欲しくて。
「楽にしてろ。」
我に返ると、翠の双眸が再び目の前にあって、ゼルの顔を覗き込んでいた。
「いいか、動くんじゃねえぞ。」
滑稽なほど大真面目に念を押して、サイファーは両膝を抱え上げる。
異物感の残る入り口に、より滑らかで、より熱を帯びた新たな侵入者があてがわれた。
「あ、‥っ‥‥あ、あ!!」
先程とはまったく違う圧迫感が、ぎりぎりと押し入ってくる。
激痛という程ではなかったが、息苦しさでまともな呼吸ができない。
力を抜こうにも、反射的に窄まろうとする括約筋を堪えるのが精一杯で、どこをどう脱力していいのか解らない。
サイファーは、一旦動きを止めて低く呻くと、意を決したように腰を突き出した。
「っあ、あああ!!」
空気を切り裂く悲鳴を上げて、ゼルは喉を仰け反らせた。
尾てい骨の内側で何かが大きくはぜて、がくがくと腰が痙攣する。
まるで身体の中心に楔を打ち込まれたみたいな衝撃に、頭の中が真っ白になる。
「ゼル‥‥わかるか。‥‥テメエん中に、入ってる。」
すくいあげるように背中を抱き締め、サイファーが擦れた声で囁いた。
「熱い‥‥たまんねえ。」
そうだ‥‥熱い。
今にも溶けて流れ出してしまいそうだ。
衝撃と混乱の淵からようやく浮上しながら、ゼルは震える吐息をついた。
今、自分の中に、確かにこの男がいる。
この熱は紛れもない、この男の熱だ。
そう思うと、陶酔と高揚感で目眩がした。
このままもっと、もっと熱くして欲しかった。
身体中をこの熱で満たして欲しい。
浮かされ、惑わされるままに、肩口に爪を立て唇を寄せる。
「動くぜ。」
サイファーはどこか上の空めいて呟き、緩やかに腰を揺らし始めた。
一旦落ち着いていた筋肉が、驚いて小刻みに収縮する。
が、規則的で慰撫するような刺激に促され、それはすぐに艶かしい蠕動に変わった。
むず痒い悦びが全身を揺さぶり、先端が最奥のあの箇所を押し上げるたびに、戦慄のような快感が爪先まで走り抜ける。
もはや羞恥や恐怖どころではない。
霰もなく身をうねらせ、むせび泣く事しかできなかった。
あらゆる五感が、感情が、快感というたったひとつの感覚だけに集約されて束ねられていく。
「辛い、か。」
嬌声を上げ続ける耳元で、息だけの声が尋ねた。
「ん‥‥あっ‥」
「辛いんなら言え。無理しなくていい。」
「‥‥だ、いじょぶ‥‥」
譫言のように答え、首を振ろうとしたが力が入らない。
「もうちっと、早く動いていいか。」
「ん‥‥」
やっとの思いで頷いて、首筋にしがみつく。
たちまち、大きなうねりが襲い掛かった。
のみこまれ、翻弄されて、浮上したかと思うと突き落とされて、方向感ばかりか重力感までもがあやふやになる。
背骨が折れんばかりの力で抱き締めてくれているこの両腕がなかったら、あっという間に身体がばらばらになってしまいそうだ。
やがて、耳元をくすぐっていた控え目な喘ぎ声が、にわかに深く、切羽詰まったものに変わった。
抱き締めていた片腕が慌ただしく下腹部に伸びて、膨張しきった肉茎を掴み、追い立てるように扱き始める。
ゼルは絶叫した。
巨大な火球がものすごいスピードで迫ってきて、皮膚を、肉をちりちりと焦がしていく。
もう逃げられない。逃げようもない。
「あ、あっ、サイファー‥‥サイファー、サ‥‥く、あぁ!!」
取り縋り、かじりつき、泣き喚きながら、ゼルは遂精していた。
身体の奥底で目に見えぬ何かが破裂して、粉々に砕かれた意識が四方に弾き飛ばされる。
ほぼ同時に、鋭いうめき声が耳朶に噛み付いた。
覆いかぶさった広い肩幅が、おこりのように震えてびくびくと痙攣する。
一瞬という名の永遠が、密着した肌の間を通り過ぎた。
あたりの静けさが、抱き合ったままの二つの意識を少しずつ現実に引き戻す。
遠い波の音。ぼんやりと浮かび上がる白い天井。
開け放したままのテラスの窓から忍び込む夜の帳、余熱を残して冷えていく部屋の空気、絡み合う不規則な呼吸。
「‥‥サ、イファ‥‥」
ゼルはかすれた声を振り絞り、名を呼んだ。
汗と涙で濡れそぼった頬に、答えがわりの優しいキスが降ってくる。
くすぐったさとともに、忘れていた羞恥心が急に蘇ってきて、ゼルは慌てて横を向いた。
だがサイファーはしっかりとゼルを抱き締めたまま、なおも頬に口づける。
「も‥‥抜けよ‥‥。」
真っ赤になって身を捩ると、サイファーは低く笑ってようやく密着した下半身を引き剥がした。
「ワリい。名残り惜しくてな。」
「バカ。」
思いっきり横目に睨みつけるものの、しかし心は穏やかで、かつて感じたことのない幸福感に満ち溢れていた。
ずっと胸の内に巣食ってきた、不安、疑念、焦燥感。
それらはあますところなく宥められ、ようやく今、安寧の眠りについたのだ。
そしてそれらは二度と、目を覚ます事はないだろう。
------この男が、こうしてそばにいる限り、もう二度と。
サイファーは傍らに横臥して、ゼルの身体を抱き寄せながら、少し寝ろ、と囁いた。
「眠るまで見ててやるから。」
「‥‥眠るまで、なのか?」
ゼルは視線を上げ、すねた猫のように目を細めてみせた。
「眠ってからは、見ててくんねえのかよ?」
サイファーは苦笑して、そっとゼルの髪を掻き回した。
その無言の答えにゼルは満足し、指先の感触に誘われるままに素直に瞼を伏せる。そして。
「‥‥好き、だ。サイファー。」
サイファーに聞こえぬように、小さく、小さく呟いてから、柔らかな微睡みの中へと顎を埋めたのだった。
To be continued.
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