MERRY CHRISTMAS, LONELY HEART


「この分なら雪になるな。」
喧噪に混じって、誰かが声高に言った。
まったくだ、この冷え込みだからな、と方々から迎合する声が漏れる。
確かに、寒かった。
こうしてじっと蹲っていると、外気にどんどん体温を奪われていくのがわかる。
空を見上げると、一面に立ちこめた厚い雲がゆっくり南へと流れていく。
晴れていれば夕陽が大地を染める時間だが、この曇天のせいで、周囲はなお一層の薄暗さを増しつつあった。

林の中に小さく開けた広場の中央ではかがり火が炎を上げており、その仄かな暖を求めて周囲に人の輪ができている。
夕食の配給が終わったところだった。
訓練生らは火を囲んで思い思いの談笑に興じ、時折野卑た冗談をとばして笑い合っている。

その輪から独り離れて、彼は樹木の陰に身を寄せていた。
木陰とはいえ四方から吹き付ける風は皮膚を刺すように冷たく、携帯食のビスケットを口に運ぶ指先にもほとんど感覚がない。
しかし彼には、中央の輪に加わる意志など元からなかった。
火のそばの輪に加わって馬鹿話につきあうくらいなら寒風に身をさらす方がよほどマシだと思っていた。
枯れた木の幹に背中をあずけ、長い脚の片膝をたてた格好で、ただ漫然と咀嚼を繰り返す。
だが、その翠色の瞳だけは、油断ない肉食獣のようにじっと火の周囲の人の群れを凝視していた。
なぜなら。

(‥‥どこへ行った?)
先ほどから、いるべき顔が見当たらないのが気になっていた。
普段なら、あの輪の中心で一際やかましい笑い声をあげているはずだ。
それがいくら探しても見当たらない。
訓練生の数はさして多い訳でもない。今回の野外演習の参加者は確か20人足らずのはずだ。
見落とすような人数ではない。
そもそも、野営を組み始めた時には居たのだ。
彼が天幕を張るためにひいたロープに、ヤツは御丁寧にもけつまずいて邪魔をしてくれたのだから。
その後配給が始まって、彼が人の群れから離れた時に見失ったらしい。
(‥‥どこをほっつき歩ってやがる。)
彼は険しい顔でビスケットの最後のかけらを口に放り込んだ。
見当たらない事自体にも苛ついたが。
見当たらない事で苛ついている自分には、もっと苛ついた。
まさに苦虫を噛み潰すような表情でビスケットを咀嚼し、半ば固形のまま嚥下して、もう一度人の輪の中にその顔がない事を確認すると。
傍らのハイペリオンを手に、彼は鬱蒼と立ち上がった。

いつも、特に意識をして見ているつもりではなかった。
しかし気がつけば常に視界の隅にいるのだから、それは自分が明らかな意志をもってその姿を探しているという事だ。
その事に気がついたのはごく最近の事だった。
よもや自分があのガキくさいチキン野郎を、と思うと最初の内は馬鹿馬鹿しく自分が信じられなかった。
だがいざそう結論づけてみると、それまで訳がわからなかった己の感情をはっきり理解する事ができたのだ。
姿が見えなければ苛つく。
見えれば見えたで、その挙動ひとつひとつがいちいち気になる。
その無防備な後ろ姿に襲い掛かかりたい衝動とも、これまで何度も戦ってきた。
最初、それはヤツを排除したいという憎しみの感情なのかと思っていたが。
それにしては、その衝動は甘美で切実で、冷たい憎悪の感情に程遠い事が不思議だった。
つまり、それは憎悪ではなく。
ヤツを征服したいという欲望の衝動なのだとわかって、ようやく納得できたのだった。

しかし納得できたからと言って、即、願望が実現するはずもなかった。
大体、ヤツ自身が彼のそうした感情を理解して受け入れるとは到底思えなかった。
おそらくヤツにとって、彼は単なる「絡みたがりのやなヤロー」であって、それ以上でもそれ以下でもないだろう。
ならばいっそ力づくで無理矢理奪ってしまえばいい、とも思ったのだが。
しかしそうする事には躊躇があった。
現状の「やなヤロー」に過ぎないからこそ、無防備に曝されるものもある。
強引にねじ伏せれば、たちまちそれらは失われてしまうに違いない。
ヤツの顔から屈託のない笑顔や、本気で食って掛かってくる怒りの表情が失われてしまうのは、本末転倒に思えた。
結局、彼は単なる「やなヤロー」の立場に甘んじるしかなかった。
襲い掛かる衝動と常に戦いながらも。

暗さを増していく林の中を、ゆっくり進んでいく。
陣営の喧噪が徐々に背中に遠ざかり、やがて風の音に混じった雑音になる。
かわりに、自分が枯葉を踏みしめる音がやたら耳につく。
さらに少し進むと、木々の間に訓練を行なった沼地が見えた。
訓練生たちによって踏み荒らされた雑木の跡がまだ生々しい。
あのぬかるみと泥の感触を思い出し、彼は眉をしかめた。
と、そのほとりに誰か佇む者がいた。
彼は足を止めた。

(やっぱりな。)
おそらく小用を足しにきたのだ。
適当な場所を探しあぐねてここまで来たのだろう。
見なれた小柄な後ろ姿に、彼は自分の苛立ちがようやくおさまるのを感じた。
すでに用は足したのか、ヤツはただ漫然と空を見上げている。
(‥‥? 何やってんだ。)
今度は不審を感じ、再び歩を進めて近付いていく。
だがヤツは気づかないのか、動かないままだ。
5メートル程背後に近付いて、彼は立ち止まった。

-----まただ。
この無防備な後ろ姿。

「‥‥。」
背筋が慄然して、思わず呼吸をのみこむ。
あらゆる妄想と想像が、一瞬のうちに脳裏を駆け抜ける。

だが、彼がその衝動に飲み込まれる寸前で。
ヤツは、必ず振り返るのだった。

「あ?‥‥なんだよ。またアンタかよ。」

ぎょっとした顔で、しかしすぐに憎まれ口を叩く。
鼻先に寄る不快げな皺が子供っぽい。
「俺でワリいな。」
大股に間合いを詰めながら、彼は努めて皮肉を込めた口調で言った。
「何をぼけっと突っ立ってやがる。冷凍チキンにでもなるつもりか?」
「誰がチキンだ!」
即座に言い返して睨みつけた頬が、寒さのために微かに赤らんでいる。
それがますます、ヤツの顔をあどけなく見せていた。
いつも念入りに逆立てている前髪がはらはらと額に落ちているのは、先ほどまでのハードな訓練の名残りだ。
頬を彩る漆黒のタトゥーの上には、ところどころ薄く乾いた泥がこびりついている。
「その呼び方、やめろっつってるだろ!‥‥つうか、なんでアンタがここに来んだよ?」
まっすぐに見上げる蒼い瞳が、怒りと不審の色に充ちている。
当然と言えば当然な問いかけだった。
だが彼はそれには答えず、かわりに右手に下げていたハイペリオンを地面につきたて、再び最初の問いを繰り返した。
「んなとこに突っ立ってやがっとマジで凍るぞ。何やってやがる。」
「何って‥‥。」
今度はヤツが言葉に詰まる番だった。
自分が先に問うた事も忘れ、ばつが悪そうに視線をそらして泳がせる。
「ちょっと‥‥気になったからよ。」
「何が。」
「いや、たいした事じゃねえよ。」
何やら口籠るヤツに、彼はにやりと口端を吊り上げてからかうように言った。
「空から食い物でも降ってくるかと思ったか?」
「んなんじゃねえっ! 雪ってどんなにして降ってくんのかと思ったんだよ!」
むっとしたように再び彼の方を睨み付ける。

「‥‥雪?」
意外な答えにまじまじと見おろすと、ヤツは小さく肯いて空を指差した。
「雪だよ、雪。降りそうなんだろ?」
「ああ‥‥。」
つられて空を見上げる。
相変わらずの曇天はますます暗さを増している。
「オレ、あんま見た事ねえからさ。」
同じように空を見上げながらヤツは呟いた。
「バラムじゃ雪なんかふらねえし、大体こんな寒いなんて事ねえもん。早く降らねえかなあ。」
「ガキか、テメエは。」
見上げたまま思わず苦笑する。
「うるせ!‥‥あ! ほら、見ろ見ろ! 降ってきたぜ!」

弾けるような声が空にこだまする。
同時に、大粒の結晶がふわりと彼の肩に舞い降りてきた。
それらは見る間に数を増やし、たちまち視界は白いカーテンに覆われる程になった。
「すっげ。積もるよなあ、これ。」
相変わらず空を見上げたまま、その両腕を空に伸ばし、結晶を掌に受け止めようとする。
彼は目を細めた。
無邪気な子供のような仕草に、いつもの焦げ付くような切ないような、もやもやとしたものが溢れ出してくる。
「そういや今日って、あれだよなあ。クリスマスじゃなかったっけ。」
無防備な笑顔で見上げてくる蒼い瞳が殊更に眩しい。
彼は低くああ、と肯いたまま、その瞳から目が逸らせない。
「ホワイトクリスマスとかいうんだろ、こういうの。すげえや。つっても、クリスマスったってどうせ明日も演習だけどな。」
ヤツは勝手に喋りながら、今度は掌に受け止めた結晶に念入りに見入っている。

「‥‥ゼル。」

思わず、呼び掛けていた。
「え?」
突然名を呼ばれて弾かれたように振り返る。
驚いた表情に、隙があった。
その隙が、彼の自制心にほころびを生じさせた。
力任せにヤツの二の腕を掴んで引き寄せ、かがんでその顔を覗き込む。
「‥‥な‥‥?」
突然の状況が飲み込めず、ヤツは大きく目を見張ったまま固まっている。
かまわず唇を近付けた。
ヤツの震える呼吸が唇に触れる。
と、その時。

ちり、とした冷たい感触に、彼は我に返った。
まるで狙ったかのように、唇に舞い降りたひとひらの雪が。
その冷たさで彼の理性を呼び覚ましたのだ。

(‥‥何やってんだ、俺は。)
彼は眉をしかめて体を起こした。
ほころんだ自制心を急速に修復して、乱暴にヤツの腕をふりほどく。
一瞬とはいえ衝動を抑えられなかった自分に腹が立った。
だがヤツはと言えば、肩透かしをくらったようにぽかんとした顔で見上げているだけだった。
当然だろう。
彼が何をしようとしたのか、いくら鈍感なヤツでもわかったはずだった。
そしてそれは、ヤツにとっては相当に衝撃だったに違いない。
怒りもしなければ逃げもせず、今もなお、ただ呆然と突っ立っている事からもそのショックは伺える。
そうなると、彼はどう取り繕っていいものか迷った。
これでは、冗談だと笑い飛ばす事もままならない。

「なんなんだよ‥‥?」
ようやくヤツの唇から戸惑いあぐねたような問いかけが漏れたが、彼には答えようもなかった。
「なんだよ、今の。どういう事だよ?」
「‥‥。」
「なんとか言えよっ! だんまりかよ!」
沈黙に痺れを切らしたのだろう、ヤツの声は次第に力を帯び、詰問調になる。
「そういう事しといて無視決め込むのかよ! 卑怯だぞ、てめえ!」
「‥‥なにい?」
かちん、ときた。
じろりと睨み付けると、ヤツはさらに声を荒げた。
「黙ってりゃ済むと思ってんのか!? 言いたい事あんならはっきり言えよ!」
「うるせえ! はっきり言われてテメエはそれで納得すんのか!!」
思わず怒鳴り返して、しまったと思った。
売り言葉に買い言葉だった。
しかし言葉の応酬は止まらなかった。

「納得するかどうかは言わなきゃわかんねえだろ!」
「んなこたあ言わずと知れてらあ! 貴様みてえなチキン野郎に納得されてたまるか!」
「なんだと!!勝手に結論出してやがんじゃねえ!」
「は! 貴様の頭のレベルじゃ所詮フクザツな大人の心境なんざわかりっこねえっつうの!」
「なにいっっ!?」
かっ、とヤツの頬が紅潮し、同時に右拳が疾風のごとく繰り出された。
反射的にそれをかわして上体をひねる。
ひねった脇腹に、今度は蹴りが飛んでくる。
これも寸前で躱すものの、続いて間髪を入れずに懐に飛び込んできた左拳はよけきれなかった。
ヤツの左拳の照準が、確実に彼の顎を捉える。
やられた、と覚悟して歯を食いしばった。
だが。
ヤツは、ぴたりと顎の下に拳を構えたまま、動きを止めた。
「‥‥?」
不審に思って見おろすと、蒼い瞳が、間近からまっすぐに彼を睨み上げている。
その表情は、切羽詰まったように真剣だった。

「アンタ、さ。‥‥オレが好きなわけ?」

-----ぐらり、と目眩がした。
まるで何かで頭を殴られたようだった。

「いっつも、オレにちょっかい出すよな、アンタ。」
「‥‥。」
「いっつも、気がつくとそばにいるしよ。」
「‥‥。」
「それって、そういう事なわけ?」
「‥‥。」
「‥‥そういう事、なんだな?」
「‥‥‥‥ナマ言うんじゃねえ。ガキが。」
やっと答えた声が、低く掠れる。
「誰が、貴様なんぞを。‥‥ふざけんな。」
吐き捨てるようにいって、顔を背けた。
しかしその仕草は緩慢で、言葉の偽りはあからさまだった。
もっとも、その空々しい仕草こそがヤツを納得させたらしい。
「‥‥ふうん。」
変に意味ありげな相槌を打って拳をおろし、そしてじっと黙った。
何かを考えているようだった。

彼は軽い困惑を感じ、一刻も早くこの場を切り上げたくなった。
迂闊な衝動が招いたこの事態を受け止める事が、苦痛でたまらなかったのだ。
あるいは。
この先に待つ結果を見たくないという恐怖だったのかもしれない。

「‥‥忘れろ。たいした事じゃねえ。」
軽く頭をふり、一歩下がってヤツから距離をとると、傍らに突き立てたハイペリオンを手に取る。
「んな事よりとっとと陣営にもどれ。マジで凍るぞ。」
すべてを吹っ切るようにそう言い捨て、踵を返そうとする。
すると。

「待てよ。サイファー。」

言葉とともに、ヤツが、舞い降りる雪のようにふわりと近付いた。
そして唖然としている彼の襟を両手で捕らえ、力任せにひきおろす。
思わず彼がかがみこむと、自然と鼻先をつきあわせた格好になった。

「‥‥カンチガイすんなよ。別に、オレもとかそういうんじゃねえ。」
やはり大真面目な顔のまま、ヤツは言った。
「でも、アンタがそういう事してえっていうんだったら。」

温かく、湿った息が頬にかかる。
ぞくり、と背筋が総毛立った。
そして。

「‥‥クリスマスだからよ。」

囁きと共に、唇が頬に触れた。
外気に凍えたそれは、淡雪のように冷たく。
そして、柔らかかった。

「‥‥ゼ‥‥」
「これっきりだかんな。」
消え入りそうな声で呟いて、するりとヤツの体が離れる。
そして、立ち尽くす彼を後に、そそくさとその場を駆け出す。
その表情を伺う暇もなかった。

「アンタもとっとと戻れよ!アンタが凍っちまっても誰も助けになんか来ねえからな!」
離れたところで振り返りざまにそう怒鳴った声が、木々の間にこだまする。
走り去る小柄な背中は、雪にかき消されたちまち見えなくなった。

残された彼は、ハイペリオンを片手にそのまま動かなかった。
肩先に、髪に、容赦なくふりそそぐ雪も厭わずただじっとそうしていた。
無音の世界の中、視界はますます白く染まっていく。

‥‥こうして立ち尽くしていたら。
自分自身も白く染まれないだろうか。
ぼんやりと、そんな事を考えていた。
汚泥のようにうずまく己の感情すべてを。
この雪が、白く均一に覆い隠してくれたらどんなにか楽だろう。

(‥‥クリスマスか。)

そっと空を見上げて、彼は瞼を伏せた。
そろそろ陣営に戻らねば、体が冷えきってしまう。
それはわかってる。
だが、もう少しだけ、何も考えずこうしていたかった。
せめて。
‥‥たった今起こった事がすべて、聖夜の幻想であると思えるまでは。

Fin.
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