1/放課後


「今日の講議はここまで。各自学習パネルで復習しておくように。」

勿体ぶった台詞を残して、教官はさっさと教壇を降り教室を出ていった。
この瞬間をそわそわと待ち望んでいたゼルは、弾かれたように席を立つや否や、めいめいに雑談を始める級友達の間をぬって教室を飛び出した。
行き交う学生らにぶつかりそうになりながら廊下をひた走り、一目散にガーデン売店を目指す。
そう、今日は月刊誌『格闘王』の発売日なのだ。

たかが雑誌の入手のためにと笑ってはならない。
かように急ぐにはちゃんと理由があった。
ガーデンの売店はどういうわけか、あの雑誌をごく少量しか入荷してくれない。まあ、それだけマイナーで貴重な雑誌である事は確かであるが。
とにかく、ガーデンにおいてその購読を望んでいる学生の数よりも明らかに少数の部数しか置いてくれないのだ。
食堂と同じく取り置きが禁止されている売店においても、雑誌の入手は、早い者勝ちである。
必然、発売日の放課後は一刻も早く売店に駆け付けねばならない。
しかもゼルにとって不幸な事に、今月の発売日は最も講議が遅くまで入っている水曜日だった。
前回買い逃した時も。そのまた前々回も。
やっぱり水曜日であった事を思い出し、ゼルは走りながら舌打ちをした。
ホールを駆け抜け、食堂に併設された売店へと疾走する背後で、誰かが何かを叫んでいる。
だがそんな事に構ってはいられない。

ようやく息せき切って売店に駆け込んだゼルは、慌ただしく狭い雑誌売り場を一巡した。
-----ない。
どこにもない。
平積みになった雑誌の合間にぽっかりと空いているスペースに嫌な予感を感じつつ、ゼルはレジを振り返った。
新米らしい若い女性店員が、呆気に取られてゼルを見ている。
「すんません、あの、か、『格闘王』は!?」
「カクトウオウ‥‥ですか?」
剣幕に気押されたように反芻してからようやく店員は我に返ったらしい。
「ああ‥ついさっき売り切れま‥‥。」
「ああ〜〜!!またかよ〜!!!!」
いきなり絶叫して地団駄を踏んだゼルに、店員はぎょっとして後じさった。
「あ、す、すんません、なんでも、なんでもないっす!」
慌ててぶんぶんと手を振り、ゼルは改めてがっくりと肩を落とした。
こんな事なら、誰か講議が早く終わる友人に買っておいてくれるよう頼んでおくんだった。
前回も前々回も同じ後悔をした事を思い出す。
後悔しながらも今月もまたうっかり忘れていたのだ。
(オレのバカ‥‥。)
大きく溜息をついてとぼとぼと売店を後にし、ホールに出た。

放課後のガーデンは、そこかしこに開放的な賑やかさが満ちていた。
朝から時間に追われ続けた学生達が、ようやく自由を満喫できる時間帯だ。
早めに夕食を取ろうと食堂に向かう者。
図書室で自分の時間を過ごそうとする者。
訓練施設で一汗流そうとする者。
そんな中、ゼルだけが意気消沈の呈で案内版脇のベンチにへなへなと腰をおろす。
たかが雑誌一冊。されど雑誌一冊。
まるでこの世の終わりのような顔で頭を抱えていると、突然頭上から声が降ってきた。

「おい。」
ぎょっとして顔を上げたゼルは、声の主を認めるや否や、ますますやり切れない気持ちになった。
(‥‥こいつか、よ‥‥。)
こんな時に。
恐らくこの世で最も見たくない、顔。
「随分とシケたツラしてんなあ、ああ?」
端正な顔に皮肉の笑みを浮かべて仁王立ちに見下ろすサイファーを、ゼルはじろりと睨み上げた。
「っせえな。アンタにゃ関係ねえだろ。」
「ああん? 人を突き飛ばす勢いで廊下を突っ走っときながらその台詞か?」
「あ? オレがいつ‥‥。」
反論しかかってはたと口を噤む。
そういえば、売店に駆け込む前に背後で誰かが怒鳴っていた。
あれは‥‥こいつだったのか!
しまった、と思った瞬間それは表情に表れ、それを見て取ったサイファーがまたもやにやりと口端を歪ませた。
「テメエ、何度目の校則違反だ?」
「う‥‥。」
「それとも何度言われても忘れちまう鳥頭か?」
腕組みをしていた右腕がするりと伸びて、革手袋の指先がゼルの額を小突く。
咄嗟にそれを払い除けてゼルは犬歯を剥いた。
「誰が鳥頭だっ! 急いでたんだからしょうがねえだろ!」
「何を急いでたってえんだ。」
「それは‥『格闘王』が‥っ!」
理由を説明しようとして、突如またどうしようもない失望と懈怠に襲われた。
この男に説明したところで、どうなるものでもないではないのだ。
がっくりと肩を落とし、深々と溜息をつく。
「‥‥なんでもねえ‥‥アンタにゃ関係ねえよ。」
その落胆ぶりに肩透かしをくらったらしく、サイファーは薄笑いを引っ込めて片眉を吊り上げた。
そしてしばしじろじろとゼルを見下ろしていたが、やがて何を思ったのか無言のままくるりと踵を返すと、すたすたとその場を後にしてしまった。
(‥‥?)
なんなんだ、あいつは。
ゼルはしばし憮然としたものの、元より身勝手が服を着て歩いているような男の事だ、何か別の用事でも思い出したのだろう。
気に止める程の事はないし、そんな事より。
今は、買い逃した雑誌の事の方が、よっぽど大事だ。
ゼルはまた大きな溜息をついた。


だが、期せずして再びゼルは呼び止められた。
いつもより大分早めの夕食を終えて、部屋に戻ろうとしていた廊下を歩いていた矢先だった。
雑誌を逃した失望と落胆は、食欲を満たす事で忘れられるはずもなかったが、それでも幾分気を取り直し、もし誰か買ったやつがいたらあとで貸して貰おうと幾分前向きな気持ちにはなれていた。
「おい。」
角を曲がったところで、後ろから声がかかった。
廊下は数人の学生が行き交っているから、それが自分に向けられた声だという保証はどこにもない。けれど声の主はすぐにわかった。わかってしまえば、それは間違いなく自分を呼び止めたのものだと認めざるを得ない。ゼルはしぶしぶ立ち止まって振り返った。
「‥‥今度は、なんだよ?」
サイファーは、先程ホールで会った時と同じ仏頂面で、廊下のまん中に突っ立っていた。
周囲の学生がこそこそと距離をおいてすれ違っていくのもまったく意に介さぬ様子で、仁王立ちにゼルを見据えて小さく顎をしゃくる。
「ちょっと来い。」
「‥‥は?」
「話がある。」
「‥‥なんだよ。やろうってのか?」
ゼルは俄に体を強ばらせ、鼻先に皺を寄せて睨み付けた。
だがサイファーは肯定も否定もせず、もう一度顎をしゃくっただけでくるりと背を向け、廊下の向こうに歩いていく。
ゼルは眉をしかめながらも、後をついていくしかない。
まだ学生らで混雑しているホールを横切り、サイファーは大股に廊下を進んでいく。
ゼルが時折小走りになりながらつかずはなれつ2、3歩後ろをついていく間も、振り返りもせず無言のままだ。
次第にホールのざわめきが遠のき、やがて校庭に続く階段に差し掛かる頃には、辺りから人の気配はまったく消え失せた。
リノリウム貼りの階段を降りて、巨大なテラスの形になっている校庭に出ると、そこは建物の中の喧噪からはぽっかりと切り離された別世界のようだった。
遠く山並に間もなく沈もうとする太陽が、空も校庭も、そして前を進んでいくサイファーの背中も、鮮やかな橙色に染めあげている。
ただでさえ長身の、そのさらに長い影がゼルの足下に伸びて纏わリつく。
そして校庭の隅に植えられた常緑樹の茂みの傍まで来ると、ようやくサイファーは立ち止まり、ゆっくり振り返った。

「‥‥なんなんだよ?」
ゼルは、夕陽の眩しさに眉根を寄せた。
人気のないところで、日頃からの応酬の決着をつけようとでもいうのか。
逆光で見えないサイファーの顔を睨み付けつつ密かに拳を固めた。
だが、サイファーから戦意らしきものはなかなか伝わってこない。
ただ無言のまま、どうやら自らのコートの裏を探っているらしい。
「‥‥?」
見守っていると、突然、探っていた腕がぬっと突き出された。
その手に何か丸められた雑誌のようなものが握られている。
思わず条件反射で手を伸ばしてそれを受け取ってしまい、視線を落としてゼルはぽかんと口を開いた。
「‥‥ええ!?」
素頓狂な声と共に一度まじまじと凝視する。
だが間違いない。

それは、今日、買いそびれたはずの『格闘王』の最新号。

「え、な、なに、これ!?」
「やる。」
「ええ??」
訳がわからない。
「やる、って、え、なんで?つかアンタこれどうしたんだよ?」
「‥‥。」
「ていうか!何でオレがこれ買い逃したって知ってるわけ?」
「自分で言ったろうが。」
‥‥そうだったか?
そうだったかもしれない。いや、そうだとしても。
「いや、でも‥‥いきなりアンタに貰う筋合いねえじゃん。」
「いらねえのか。」
ずい、と再び腕が伸びて、ゼルの手から雑誌を取り上げようとした。
ゼルは慌てて後じさり、ぶんぶんと首を振る。
「や、いる、いります!」
するとサイファーは満足したように口端を歪ませた‥‥のだと思う。
逆光で見えはしなかったが。
「な、なに?用って‥‥コレ?」
「ああ。じゃあな。」
言って早くも踵を返そうとする。
「あ、ちょっ‥‥。」
「次からはんな理由で廊下走んじゃねえぞ、校則違反野郎。」
「待てよ、サイファー。」
思わず、駆け寄って、袖を掴んだ。
ぎょっとしたようにサイファーがゼルを見下ろす。
それは、狼狽の表情‥‥のような気がした。
いや、恐らく気のせいだろう。この男が滅多な事で動揺などするはずがない。
するはずが‥‥。
(‥‥あ)

ふっと、脳裏に。
ある場面が、フラッシュバックした。
鉛色に立ち篭めた空。そこからひらひらと舞い降りる純白の雪片。
冷たかった指先、目の前に迫った高い鼻梁。
(‥‥あの時と、同じだ。)
普段、人を見下した嘲笑ばかり浮かべているこの男が。
何かというと難癖をつけて神経を逆撫でするこの男が、まるで別人のように真面目くさった顔でゼルを見つめていた。そして。
(そうだ、あの時も。)
なぜだかわからない、わからないのだが、こんな気持ちになった。
ざわつくような、切ないような、焦れったいような、もどかしいような。
けれど我に返って追求しても、サイファーは言葉を濁すばかりだった。
だから。
----気がつけば、そうしていた。

ゼルはじっとサイファーの瞳を覗き込んだ。
サイファーは動かない。
腕を掴んだ手を離してそっとサイファーの首筋に回し、重みをかけると、ゆっくり頭が下がってきた。
ゼルが精一杯咽をそらし背伸びをすると、ひき結ばれた形のよい唇がすぐ眼前に迫る。
その唇が何かを呟きかかるが、ゼルはあえてそれを見ぬまま瞼を伏せて。
黙って自分の唇を重ねた。

サイファーの唇は、思っていたよりずっと温かかった。
あの日の頬の冷たさとはまったく違う温もりが、微かな息遣いと共に伝わってくる。
軽く触れただけなのに、唇を離してなお、その温度は唇に居残ってゼルをほのかに紅潮させた。
薄く瞼を開くと、翠色の双眸がじっと自分を凝視している。
そこにもはや狼狽の色はなく、代わりに何かに憑かれ思いつめたような、真剣な色が浮かんでいる。
力なく放置されていた両腕がそっと持ち上がってゼルの両肩を掴む。
その掌に力がこめられようとするのに気づき、ゼルは慌てて腕を離してサイファーから離れた。
微妙な距離を取ったまま、どこか気まずい沈黙が続いて、やがて。

「‥‥テメエ‥‥」
呻くような低い声が、サイファーの咽から絞り出された。
「俺をからかってんのか。」
「‥‥え、と‥‥。」
ゼルは答えに窮した。なんと答えたらいいだろう?
サイファーの問いかけは当然だ。
自分に向けられたサイファーのそういう感情を知りながら、こんな行動を取ってしまったのだから無理もない。それも1度ならず2度までも。
だが、確固たる明解な理由など自分でもわかりはしない。
わからないものは、答えようがない。
「‥‥なんとなく。」
ぴくり、とサイファーの片眉が釣り上がる。
「なんとなく、だあ?」
「あ、ごめ。イヤだった?」
ぐっ、とサイファーの言葉が詰まり、ますます目が眇められた。
「‥‥そういう事を言ってるんじゃねえ!俺をからかってんのかと聞いてる!」
「ち、違うって。だから、ええと。‥‥礼だよ、礼。ほら、これの。」
ゼルは頭を振りながら、右手に握りしめていた雑誌を示してみせた。
口からでまかせではあったが、この場合嘘も方便である。
「こういう礼じゃイヤだったか?」
「‥‥。」
「だってよ。」
上目づかいにサイファーの顔を伺いつつ、ゼルは努めて落ち着いた声で言った。
「渡すだけなら廊下でもできんじゃん。わざわざこんな人気のねえとこまで呼び出したって事は、もしかしてそーいう礼を期待してんのかな、って思ってよ。」
サイファーはますます苦虫を噛み潰したような顔をした。
ゼルにとっては思いつきのでまかせだったのだが、実は遠からずサイファーの急所をついたのかもしれなかった。
無論、わざわざこんなところに呼び出したのは、単に羞恥心とか照れくささとか、風紀委員長としての面子とか、そんな単純な理由だったのだろうが。
では全く期待はしていなかったかと問われれば即座に否定はできない、そんな複雑な心境が、今サイファーの中で葛藤しているに違いなかった。
ゼルは微かに罪悪感を覚えた。
先程肩を抱かれそうになった時の、切ないぐらいに真剣なサイファーの瞳を思い出し、後ろめたくなった。
「気にさわったんなら、ワリい。」
消え入りそうに言って、そっと後じさる。
「んじゃ‥‥あんがとな。これはマジ。感謝するぜ、サイファー。」
もう一度、手にした雑誌を示してみせてから、そそくさと回れ右をして足早にその場を駆け出す。
後ろは振り返らなかった。
振り返るのは罪なような気がした。
階段を駆け上がり、校舎に飛び込んで廊下をひた走りながら、必死で自分の全関心を手の中にある雑誌に向けようとした。
心のずっと奥の方で、ちりちりと胸を焦がす何かの事など、考えてはいけない。
こんな些細な感情のほころびなど、どうせすぐに忘れてしまえる。
誰もいなくなった校庭で、沈む夕陽を睨み付けたまま立ち尽くしているであろうサイファーの事など。
想っては、いけない。

賑やかだったホールの人込みはいつの間にか閑散としていた。
やがて忍び寄る夜の気配に、学生らは銘々に部屋に戻っていく。
今日もまた、何事もなかったかのように。
ガーデンの一日は、終わろうとしていた。

To be continued.
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