Love In the First Degree(31)
31
いつだって、その笑顔は天使のそれだと思っていた。
どんなに気が滅入った時でも、屈託のないその笑顔にまみえさえすれば、それだけでアーヴァインは救われた。
しかしあまりにも純粋なその笑顔は、いわば聖域でもあった。
己の身勝手な欲望でその清らかな笑顔を無闇に穢してはならない、と思わずにいられなかった。
この天使を独占したい、力ずくで奪ってしまいたいと邪な欲望を抱きながらも、それをゼル自身が望んでいない以上は意味がない、と己を制してきたのはそのためだ。
つまりは、臆病だったのだろう。
臆病な上に、思慮深過ぎたとも言えるかもしれない。
どんなに深く愛していても、越えなければならないハードルは山ほどある。
もし強引にゼルを手に入れたとしても、その先はどうなるのか。
背負わなければならない幾多の障害を、自分は果たして乗り越えていけるのだろうか。
そうを思うと、必要以上に慎重にならざるを得なかった。
けれども、思慮深く慎重であることが、必ずしも正解とは限らないのだ。
情熱と勢いにまかせて、まっすぐに奪いにいくことも、時には正しい。
たとえそれが、幼稚で不器用な方法だったとしても、その結果が──この目映いばかりの笑顔なのだから。
目の前で、ゼルが笑っている。
満ち足りた幸福そのものの笑顔には、一点の翳りもない。
振りまかれる正のオーラで、ガーデン中が春になるんじゃないかと思われるほどだ。
SeeD寮の入り口で呼び止められて、振り返ってみればこの笑顔だった。
一瞬面食らったものの、しかし理由はすぐに解った。
ゼルがこんなにも晴れ晴れとした顔をしているなら、他に理由があろうはずがない。
あまりにも明らかなその理由を、今さら尋ねるのは野暮というものだろう。
でも。
──ここはやっぱり、尋いてあげるべきなんだろうな。
自分から声をかけたにも関わらず、ゼルはアーヴァインが何か言いだすのを待っているかのように無言で瞳を輝かせている。
アーヴァインは内心苦笑しつつも、口を開いた。
「やあ。すごく嬉しそうだねえ、ゼル。」
「え。そうか?」
少し慌てたようにゼルは自らの頬をさすった。
「うん。幸せいっぱいって顔だよ。いいことあった?」
「ええと。‥‥うん。」
落ち着かない様子で俯いた目許が、ほんのりと桜色に染まる。
「実はさ。オレ、サイファーに‥‥。」
「好きだって告白された?」
たちまち、桜色は鮮やかな薔薇色に変わった。
「お、おう。それで‥‥その。そういう事になったから。」
「うん。」
「今まで、色々とあんがとな。それだけ、言いたくて。」
蒼い瞳が、上目遣いにアーヴァインを窺う。
思わず我を忘れて抱きつきたくなるほどに、可愛らしい表情だった。
アーヴァインは軽く咳払いをし、参ったな、とテンガロンハットの縁を引き下ろした。
本当に、この天使ときたらどこまで罪作りなんだろう。
そんな顔をされたら、せっかくの決心も揺らいで、また流されてしまいそうになるじゃないか──。
「僕は何もしていないよ。君には結局フられちゃったんだしね。」
わざと鼻白んだ口調で、アーヴァインは肩をすくめてみせた。
仕返しという程ではないけれど、心乱された応酬として、この無邪気な天使にちょっとだけ意地悪をしてやりたかった。
「ねえゼル。君ってば、本当に律儀すぎだよね。」
「え?」
「フられた僕にわざわざそれを言いにくるなんてさ。ある意味すごく残酷な事だよ。そう思わない?」
「‥‥あ。」
ゼルは目を見張り、俄に表情を曇らせた。
取り返しのつかない失敗をやらかした時の幼い子供みたいな──ちょうど、夢中で菓子を頬張った後で食べてはいけないと諭されていたのを思い出した時のような顔で、しどろもどろに項垂れる。
「ワ、ワリい。オレ‥‥お前にはちゃんと全部話すって約束してたから、つい‥‥悪気はねえんだ、ごめん‥‥。」
アーヴァインは、吹き出しそうになった。
これだから。
僕は、この天使を愛さずにはいられないのだ。
心底申し訳なさそうに肩をすぼめている姿が、泣きたくなるほどに愛おしい。
やっぱり、僕は。
この天使を愛している。
たとえ僕のものではならないのだとしても、見守ることしかできないのだとしても、それでも。
「嘘だよ、ウソ。冗談だってば。」
困ったように眉を寄せているゼルの前で、アーヴァインは笑って両手を打ち振った。
「残酷だなんて嘘。こうやって、変わらずに話してくれるのが一番嬉しいよ。」
「‥‥ホントか?」
「本当だよ。それと、僕は何もしてないっていうのもね。君の想いがかなったのは、君が一所懸命だったから。挫けずに諦めなかったからだ。サイファーを変えたのは君なんだから。僕がいなくても、きっといつかはこうなってたよ。」
ゼルはそうっと顔を上げた。
「そう‥‥かな。」
「うん。だから、自信持って。」
ぽんぽんと肩を叩くと、それが合図であるかのように、安堵の笑みが頬に広がった。
明るさを取り戻す蒼い瞳に、アーヴァインはようやく穏やかな気持ちになった。
──そう、これでいいんだ。
たとえ、僕だけのものにならなくたっていい。
ゼルはちゃんとここにいる、大事なのはその事実だ。
独占や支配だけが、恋愛のすべてじゃない。
この笑顔がある限り、ゼルが僕にとっての天使であることに変わりはないのだ。
と、笑顔だったゼルが口許が不意に引き締められた。
その視線は、アーヴァインの背後に注がれている。
「あ。そ、そんじゃオレもう行くから。またな、アーヴァイン。」
「え? ああ、うん。」
アーヴァインの返事も待たず、ゼルはぎこちなく回れ右をすると、すたすたとホールの方に歩き出した。
離れていく横顔は、なぜかひどく慌てている。
一体背後に何を見たのだろう。
訝りつつ振り返ったアーヴァインは、途端に脱力した。
サイファーが、ずかずかとこちらに近付いてきていた。
眉間には、不機嫌そのものの皺が刻まれている。
──なるほどね。そういう事、か。
ゼルの狼狽の理由を想像して、アーヴァインは苦笑した。
親しげに言葉をかわしているところなんか見られたら、また余計な誤解をされかねないという訳だ。
──どの道、もう見られてると思うけれどなあ。
やれやれと肩を落としつつ、ゆっくりとサイファーに向き直る。
横柄な足取りは、目の先数十センチのところでぴたりと止まった。
「‥‥何話してた。」
明らかな敵意を滲ませた視線でアーヴァインを睨みつけながら、サイファーは唸った。
「別に、なにも。」
「すっとぼけんじゃねえ。そういう反応はスコールだけでたくさんだ。」
苛々と口端を歪めて、尖った声で吐き捨てる。
その表情は、糞真面目で真剣そのものだ。
アーヴァインはくすりと含み笑いを洩らした。
見咎めたサイファーはますます眉間の皺を深くする。
「何がおかしい。」
「いや。さすがに気になるんだ、と思って。僕がまたゼルにちょっかい出すんじゃないかって心配なんだろ。」
ぴくり、とサイファーの片眉が吊り上がった。
いつもは傲慢に周囲を威圧しているはずの翠色の瞳が、珍しく怯んだ色になっている。
へえ、とアーヴァインは内心驚いた。
あのサイファーがこんな表情をするなんて、正直意外な気がした。
だが、これはこれで──なかなか、楽しいかもしれない。
言うなれば、手のつけられなかった猛獣の唯一の弱点を看破したような気分である。
加えて自分は、その弱点を思う存分からかえる状況にいるのだ。
これは、極めて愉快な立場だと言えるだろう。
アーヴァインは取り澄ました顔で、サイファーのコートの襟を軽くつついた。
「ま、とりあえず。ゼルの気持ちに応えてくれたんだから君にはお礼を言うべきだね。」
「貴様に礼なんざ言われる筋合いはねえ。」
「大事にしなよ? ゼルを泣かせたりしたら、僕はいつだって君を撃ち殺しにいくからね。」
「は。やれるもんならやってみろ。」
指先を払い落として、サイファーは威嚇した。
「んな脅しに誰が乗るか。貴様みてえなヘタレに何ができる。」
「どうかな。今度は僕も覚えたからね。なりふり構わない馬鹿に徹することも大事なんだって。機会さえあったら、僕はもう躊躇しないよ。」
「勝手に言ってろ。」
忌々しげに吐き捨てて、サイファーはなおも語気を荒げた。
「いいか。アレの事は‥‥確かに俺が間違ってた。それは認めてやる。」
「へえ、認めるんだ? 君にしては殊勝な心掛けだね。」
「うるせえ。アレを何とも思っちゃいねえっつったのは撤回だ、全部忘れろ。」
「全部、って。」
あまりな言い草に、アーヴァインは少々呆れた。
まるで年端もいかない子供の虚勢だ。
まあ、幼稚であるがゆえに腹も立たないし、それどころか逆に笑いがこみ上げてしまうが。
「じゃあ。恋愛なんて馬鹿馬鹿しいって言ったのも撤回かな。」
「ああそうだ。」
サイファーはやけに尊大に顎をしゃくって、きっぱりと言い放った。
「アレは俺のもんだ。誰にも渡さねえ。貴様にも二度と指一本触れさせねえからな。」
「解ってるよ。」
わざと、さらりと切り返してやった。
サイファーは気勢を削がれたらしく、薄い唇を歪めて柄にもなく口籠った。
その様子を微笑んだまま見守っていると、やがて。
「‥‥解ってんなら、いい。」
サイファーはじろりとアーヴァインを一瞥し、ぎこちなく後退って、畜生と呟いた。
アーヴァインに対してではなく、安易に狼狽してしまった己自身への悪態のつもりなのだろう。
そのままコートの裾を翻し、奮然と立ち去ろうとする背中を、アーヴァインはなおも呼び止めた。
「サイファー。」
数歩離れたところで、険しい視線だけが肩ごしに振り返る。
アーヴァインは大きく息を吸い込んで声を張り上げた。
「たまには呑みにでもつきあってよ。スコールばっかりとじゃなく、僕ともさ。」
サイファーがひくりと頬を痙攣させるのが見えた。
ふざけんな、とでも呻いたのだろう。
声は聞こえずとも、すがめられた翠色の瞳でそれと解った。
そうして白い長身は、苛立ちも露な足取りでずんずんと遠ざかっていく。
その姿を見送りながら、アーヴァインはふと思った。
もしかしたら。
僕も、サイファーという男を好きになれるのかもしれない。
いや、多分、きっと──好きになれるような気がする。
アーヴァインは静かに周囲を見回した。
SeeD寮からちらほらと出てくる人影が、思い思いの歩調でホールへと流れていく。
エントランスホールから漂う朝のさざめきは、今日もまたガーデンの一日が始まる事を告げている。
アーヴァインは目を細めると、テンガロンハットの縁を軽く引き下ろした。
何の変わりばえもしないと見せかけて、その実ほんの少しだけ変わった朝の風景が、何だかやけに眩しかった。
Fin.
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