コネコノホウソク(1)
1
猫を拾った。
正確に言えば拾ったという言い方はおかしいかもしれない。
拾おうと思って拾ったわけではないから、居つかれたと言った方が正しい。
だが、こういう場合は恐らく拾ったという部類に入るんだろう。
サイファーは漠然とそう思っている。
郊外に間借りしているアパートは小綺麗な白亜のモルタル造りで、小高い丘陵の上に建っている。
十五分歩いた先に駅があり、そこから二十分電車に乗って市街地にある進学塾に通う。
食い扶持を繋ぐための急場凌ぎのつもりだった講師の仕事が、いつのまにか本職になって一年になる。
情熱を注げるほどの仕事でもないが、ストレスをためこむほど嫌悪すべき仕事でもない。
で、猫である。
ある日の夕刻、仕事帰りの道すがらだった。
駅からアパートへの道のりは途中小さな川を渡る。
その川にかかるコンクリート作りの橋に差し掛かった時だった。
突然、何かの声がした。
うっかりすると聞き逃してしまいそうな、か細い、動物の鳴声のような声だ。
思わず足を止めて見回してみたが、それらしき動物の姿などどこにも見当たらない。
何かの聞き違いか気のせいだろう、と橋を渡り初めると、ふと欄干の影に何やら金色の毛玉のようなものがうずくまっているのに気付いた。
「?」
再び足を止め、よく見ようと身を屈めると、突然毛玉がこそりと動いた。
小さな頭らしき部分が上下して、にい、と声を洩らす。
なるほど、声の主はコイツか。
改めて覗きこむと、同時に毛玉も顔を上げた。
真ん丸の真っ青の瞳が、サイファーの顔を捉えてびっくりしたように固まった。
金色に見えた背中は、良くみると薄淡い茶色だった。
オレンジ色の夕陽の加減で、逆立った背中の毛が黄金色に輝いて見えたのだ。
小さな体はおそらく片手におさまってしまうほど。
ふわふわの毛が、車が行き交うたびに巻き起こる風にあおられて、きらきらと金色をまき散らす。
丸めた体はまるで綿ぼこりのようで、そのまま吹けば飛んでいってしまいそうだ。
「なんだテメエ。んなとこいたら轢かれちまうぞ。」
呟いてみたが、蒼い瞳は微動だにしない。
それどころか鼻に縦皺を刻んでまた一声、ただし今度ははっきりと、猫らしい声でにゃあと鳴いた。
まるで、うるさい余計なお世話だとでも言いたげだ。
チビのくせに生意気なやつだな。
サイファーは呆れて体を起こし、辺りを見回した。
親猫らしい姿もなければ、人影もなかった。
さして幅もなく歩道もない橋の上には、夕刻のラッシュ時の車ばかりがせわしなくすれ違って、佇んでいるサイファーの背中ぎりぎりを通り過ぎて行く。
捨て猫か迷い猫か。
いずれにせよ、昨日までは見掛けなかった奴だ。
一体何処からきたものか。
サイファーはもう一度蒼い瞳を見下ろすと溜め息をついた。
「日が暮れねえうちに帰れよ。」
そう言い捨てて、さっさと欄干に沿って歩き出した。
動物は嫌いではないが、あれこれ構うほど好きでもない。
橋を渡りきる頃には、そんな猫の事など綺麗さっぱり忘れた。
土手を辿り、道を折れて、アパートへと続くゆるゆるとした坂道を上りながら、今日はあのDVDを観てやろうとか明日教える事になっている数式の事とか、そんな取り留めのない事ばかりを考えた。
また、猫の声がする。
気付いたのは風呂から上がって、冷蔵庫のドアに手をかけた時だった。
空耳だろうと気を取り直し、狭いキッチンで缶ビールをあおったところで、またにゃあ、と聞こえた。
缶の縁を噛んだまま、サイファーは固まった。
まさかと思いながらも、そっとシンク上のサッシを開いて首を出してみる。
頭を捻り、玄関ドアの前を伺って、思わず缶ビールを取り落としそうになった。
「‥‥マジかよ。」
薄茶色の毛玉が、ちょこんと座っていた。
相変わらず中央の毛が逆立ったままの背中をぴんと伸ばし、行儀良く前脚を揃えている。
首を出したサイファーに向かって小首を傾げ、あの蒼い瞳がぱちりと瞬く。
「にゃあ。」
「にゃあ、ってお前‥‥。」
ついてきて、しまったのか。
一瞬躊躇ったものの、サイファーは溜め息とともに首をひっこめるとぴしりとサッシを閉めた。
途端に廊下では、にゃあにゃあと連呼が始まった。
冗談じゃねえ。
迷い猫に構ってるほどこっちは暇じゃねえんだ。
放っておけばどうせそのうち、諦めてどこかに行くだろう。
缶ビールを握りしめたまま部屋に戻り、殺風景な部屋の唯一家具らしい家具である茶卓の前に滑り込んで、テレビのリモコンに手を延ばす。
にゃあ、にゃあ、にゃあ。
しつこく訴えかけてくるその声をわざと意識しないようにして、テレビをつけて、ビールを喉に流し込む。
テレビからは派手な音楽と共に、高揚したナレーターの声が早口に流れてきた。
どうやら何かの報道番組らしい。
「では次の検証VTRを見てみましょう、先日我々が入手した貴重な映像です。」
にゃあにゃあ。
「先日公開された記者会見の‥‥」
にゃあにゃあにゃあ。
「‥‥は本当‥‥事実は‥‥であると‥‥」
にゃあにゃあ、にゃあ。
「‥‥に抗議したい‥‥ます。」
にゃあ。にゃあにゃあにゃあ。
確かに、抗議そのものだった。
諦めるどころか声は次第に甲高くなり、しまいには明らかに怒りをはらんだ抗議の声に変わってきている。
サイファーは眉をしかめた。
なんで、俺が。
不条理さに腹が立つが、これではテレビの音も聞こえない。
乱暴にリモコンをテーブルに投げ出して、空き缶を握りつぶすと、サイファーはすっくと立ち上がった。
今度はキッチンの窓ではなく、まっすぐ玄関に向かい、ドアノブを捻って押し開ける。
途端に、鳴声はぴたりと止んだ。
すっかり暗くなった視界にぼんやりと浮かび上がる白っぽい毛玉が、蒼い瞳でサイファーを見上げる。
サイファーはますます顔をしかめると、身を屈め、玄関横のコンテナを引き寄せた。
握りつぶした空き缶をそこに放り込み、かわりに、突っ込んである缶詰の空き缶のひとつをつまみあげて、毛玉の前にこんと置いた。
猫はきょとんとして空き缶を覗き込み、鼻先をくっつけて匂いを嗅いでいる。
その隙に体を引っ込めて、冷蔵庫から牛乳のパックを掴んで取って返した。
「飲んだら行けよ。面倒みきれねえからな。」
空き缶に牛乳を注いでやりながら、サイファーはなんで自分がこんな仏心を働かせているのかと、忌々しくて仕方なかった。
猫は嬉々として缶に鼻先を突っ込み、夢中になって白い液体を舐め始めた。
そっとドアを閉め、部屋に戻る。
それですっかり静かになったので、ようやくサイファーは安堵した。
そしてまたものの四、五分で、猫の事は忘れた。
To be continued.
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