コネコノホウソク(2)


2

だが翌朝、仕事に行こうと玄関を開けた途端、厭が応でも思いだした。
ドアのふちにかん、と当った空き缶の音のせいではない。
不燃物ゴミのコンテナの横で、ちんまりと丸くなった毛玉が視界に入ってしまったからだ。
毛玉がもそりと動きかかったので、咄嗟に目をそらしてサイファーは無視した。
無言でいつものように鍵をかけ、左肩のデイバッグを担ぎ直し、ドアの前を離れる。
だが。
(‥‥今朝は鳴かねえんだな。)
そう思って、立ち止まってしまったのが運のツキだった。
無意識に振り返ってしまい、目が合ってしまった。
蒼い瞳がきらりと光って、毛玉から伸びた尾がぱたぱたと二三度コンクリートの床を叩く。
サイファーはなぜだかがっくり肩を落とした。
一旦ポケットに突っ込んだ鍵を渋々取り出してドアを開く。
昨夜と同じ一連の仕種で、空き缶に牛乳を注いだ。
猫は当たり前みたいな顔をして、缶に鼻先を突っ込む。
それでようやくサイファーは満足して(なぜか、満足して)仕事に向かった。

帰る頃にはもう消えているだろうとたかを括っていたのだが、甘かった。
ぶら下げたコンビニの袋を鬱陶しく揺らしながら階段をのぼると、自室の玄関前に置き物のように猫は待っていた。
思わず溜め息が漏れるが、もう無視はできない。
ここで無視したらまたあの連呼だろう。
しぶしぶコンビニの袋を探って、夕飯として自分の腹におさまるはずだった惣菜のパッケージのひとつから、鶏のささみをつまみだし、缶の中にばらばらと落としてやった。
また当然のような顔をして食らい付くんだろう。
そう思っていると、意外にも猫はすっと立ち上がり、サイファーの足元にすりよってきた。
缶の中身には目もくれず、無心に脇腹を足にこすりつけてくる。
うっかり蹴飛ばしたらひとたまりもないような、小さな小さな体。
ふわふわの毛に誤摩化されて気付かなかったが、中身は相当に細くて、骨が浮くほど痩せこけているのが解った。
そうしてひとしきりサイファーに体をこすりつけてから、やっと納得したように缶に向かって食事を始める。
サイファーはなんとなく棒立ちになったまま、その様子を見守った。
だがやがて我に返ると、変に肩透かしを食らったような心持ちで、のろのろと部屋に入った。

翌朝も、夜も、そしてまた次の日も次の日も。
金色の毛玉は玄関前に居座り続けた。
こうなるとサイファーも慣れてくる。
どうせその内、盛りの季節でもきたらふらっといなくなるだろう。
それまでの辛抱だ、と自分自身を納得させた。
とはいえ、朝玄関を出る前に無意識に牛乳パックを手にしていたり、夕食用の惣菜をひとつ余計に買ってしまったりするにつけ、辛抱しているなどという表現は全然当たっていないし、自分を誤摩化す言い訳に過ぎないのは言う迄もない。
一週間が過ぎた頃には、とうとう帰り道のコンビニで、猫用のツナ缶を籠に放り込んでしまった。
もう弁解のしようもない。

その日の空は朝からぐずつき模様だったが、コンビニを出る頃から本格的に降りだした。
濡れながら足早に家路を辿り、傘を持たずに出てきた事に心中で悪態をつきながら、アパートの階段をのぼる。
だが玄関前に辿りついた途端、そんな悪態も一瞬で消し飛んだ。

居ねえ。

ぎょっとして辺りを見回すが、金色の毛玉は見当たらない。
不燃物のコンテナの中を覗き込み、横に除けて裏を伺い、さらには隣の部屋の前に置かれているコンテナの周囲まで探したがどこにも居ない。
しばし呆然と立ち尽くした。
雨脚は次第に強くなり、ざあざあと屋根を叩く音がやかましい。
軒から滴り落ちる雨滴にも構わず地上も見下ろしてみたが、土砂降りでできた水たまりが薄暗い空を映しているばかりだ。
サイファーは眉をしかめた。
濡れた髪や雨を吸ったシャツが、急に鬱陶しく不快なものに思えた。
ぶら下げたままのコンビニの袋の重みが忌々しくも虚しくて、我知らず舌打ちが漏れる。
何も、よりによってこんな日に居なくなる事もねえだろう。
恩を知らねえヤツだ。
どうせそのうちいなくなる、などと自分に言い聞かせていた事も棚に上げて、サイファーは仏頂面のまま部屋に入った。
荷物を玄関先に投げ出し、濡れた服を着替えて、ステレオの電源を入れる。
雨音が邪魔をして、音楽は途切れ途切れにしか聞こえない。
諦めて電源を落とし、窓際に寄ってますます暗くなりつつある外を眺めた。

落ち着かない。
胸の奥がざわざわと波立って、拭っても拭っても苛立ちがこみあげてくる。
雨は止みそうにない。辺りもどんどん暗くなる。
「‥‥くそ!」
とうとう堪り兼ねて、サイファーは窓枠を力任せに叩くと踵を返した。
玄関先の傘を引っ掴み、慌ただしくドアを施錠すると、まっすぐ暗い雨の中へと歩み出た。

ひどい降りだった。
傘などあってもたいして役に立たない。
横から吹き付ける雨と足元で跳ね返る水滴とで、着替えた服はすぐにぐしょ濡れになった。
だがサイファーは普段以上にゆっくりと注意深い足取りで、アパートから坂道、坂道から土手ぞいへといつもの道を辿った。
こんな雨の中、歩いている人影などまったくない。
ラッシュ時間もとっくに過ぎて、車も通らない。
危うい視界の中、ようやくあの橋まで差し掛かった。
雨に煙って覚束ない光を放つ、橋のたもとの街灯だけを頼りに、欄干の支柱を一本一本丹念に覗き込む。
どこかにあの毛玉が丸まっている事を、滑稽なほど真剣に期待し願っていた。
だがそういう時ほど、現実とはそっけなく、無情なものだ。
猫どころか鼠一匹見つからぬまま、サイファーは暗い顔で空を睨むしかなかった。

橋下の川が、いつもよりも心なし水かさを増している。
暗くて良くは見えないが、流れも早く、濁っていそうだ。
まさか川にでも落ちたんじゃねえだろうな。
嫌な想像が頭をよぎり、苦々しいものがこみ上げる。
その時、一台の車が土手沿いの道路をゆっくりと近付いてきた。
激しく降りしきる雨粒がヘッドライトの中に踊り、ぼんやりとした光の帯が濡れそぼった土手の草を撫でていく。
その帯の中で、一瞬何かが動いた。
はっとする間に車は行き過ぎ、草むらはまた闇に沈む。

サイファーは大股に橋を渡り切ると、土手を降りた。
雨を含んだ草が容赦なく足元を濡らし、うっかりすると川に滑り落ちそうになる。
確かこの辺だ。
屈み込み、目をこらして草むらを掻き分けたその指先に、鋭利な草の縁とは違う感触が掠めた。
慌てて探り、掌ですくい取って持ち上げる、
そこには。
濡れそぼって、ふわふわだった毛がすっかり萎んでしまった、小さな毛玉が乗っていた。

ぐっしょりと濡れた腹に咄嗟に耳を押しあてようとしたが、それより早く、尖った耳がぴくりと動いた。
ほっとした次の瞬間、あの蒼い瞳が薄闇の中でまんまるく光って、ぼんやりとサイファーを見上げる。
「にゃあ。」
「にゃあ、じゃねえよ。ったく。」
溜め息と共に独りごちて、サイファーはシャツの胸元を開いた。
じっとりと水を吸った毛玉を懐にそっと放り込み、足早に土手をのぼる。
帰る道すがら、懐におさまった猫はずっと黙って大人しくしていた。
一言も発さず、ただ小刻みに震え続けるばかりのその小さな命は、何だかひどく危うく儚いものに思えた。

To be continued.
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