コネコノホウソク(13)
13
「センセー、車きたよお。」
玄関口で、明るい声が弾けた。
ああ、と生返事をして、段ボール箱が積み上げられた部屋を大股に横切る。
男所帯の独り暮らしは、たいした量の荷物はない。
だから独りでも大丈夫だと言ったのに、スコール、セルフィ、それにアーヴァインまでもが半ば押し掛け状態で手伝いに来ていた。
荷物が少ないところに四人の人手だから、荷造りはものの二時間ほどで終わってしまった。
とは言え、四人のうち誰か独りは常にゼルの「お守」をしていたから、実際に動けたのは三人だけだったのだけれども。
朝っぱらから突然やってきた大勢の客と妙に慌ただしい雰囲気に、最初ゼルは目を丸くし、いかにも落ち着かない様子で右往左往していた。
さらに、次々に広げられる引き出しの中身や戸棚の荷物、そして積み重ねられる段ボール箱によって部屋を占領されてしまうと、行き場を失って途方にくれたのだろう。
一体なにごとだよ、と言いたげににゃあにゃあ喚き、必死でサイファーの足元にまつわりつこうとした。
だが、CDとDVDを段ボール箱に放り込むのに没頭していたサイファーに、構ってやる余裕などなかった。
すっかり臍を曲げたゼルは、当て擦りのつもりか、段ボール箱のあちこちで節操なく爪を研ぎ始めた。
気がついたアーヴァインが慌てて捕まえて宥めるも、しばらくするとまた目を盗んでがりがりと始まる。
あげくにはせっかく詰めた荷物までも引っ張りだそうとするものだから、結局三人が交替でゼルの相手をしてやらねばならなかったのだ。
それもこれもサイファーが構ってやらないからだ。
彼らは口々に非難したけれど、しかしその実、満更でもなさそうだった。
あれこれ理由をつけながらも、ゼルに構っている間の顔は皆一様に笑顔だ。
また振り回されてやがる、と憮然としていたのはサイファーばかりで、ゼルについつい甘くなってしまうのはやはり自然の性らしい。
サイファーは表に出ると、手すりごしに階下を見下ろした。
アパートの前に、レンタカーのバンが乗りつけてある。
手回しのいいセルフィの采配で、車の運転はニーダが買って出てくれた。
あのバンの大きさなら、二往復すれば荷物は全部運べそうだ。
車を眺めながら算段をしていると、突然背後でああ、とアーヴァインの声がした。
同時に、柔らかいものがするりとくるぶしに触れる。
「ゼルってば。ダメだよ、キャリーケースに入らなきゃ。」
慌てて追ってきたアーヴァインが、まさに猫撫で声でサイファーの足元にうずくまった。
しかしゼルは、にゃあ、と尖った声で甲高く哭いて、ますますサイファーの足首に体を押し付ける。
アーヴァインはしゃがんだまま肩をすくめた。
「やれやれ。どうあっても君じゃなきゃ嫌だってさ。」
残念そうなアーヴァインの顔と、小さく鼻先に皺寄せているゼルの顔を思わず見比べる。
どう反応していいものか。
中途半端に眉を寄せると、アーヴァインは首を振りつつ立ち上がった。
「抱いててあげなよ、荷物は僕らで運ぶからさ。」
笑ってそう言い残し、さっさと部屋に入っていく。
サイファーは、仕方なくゼルを抱き上げた。
いつものように懐に入れてやると、長い髯が満足げにぴくぴくと動く。
どうやらそこに居座るつもりらしい。
これでは、素直にキャリーケースになど入ってくれそうもなかった。
「‥‥しょうがねえやつだ。」
小さく溜息をついたサイファーの腹に、ゼルは軽く鼻先を擦り付ける。
いいだろ別にとでも言いたげな、いかにも甘えた仕種だった。
元の部屋に比べると、新しい部屋は幾分広い。
荷物をすっかり運び入れても、だいぶ空間に余裕があった。
家具の位置を決めた後、リビングの真ん中にぺたりと座り込んだセルフィは、自分もこんな部屋に住みたいとしきりに羨ましがった。
サイファーは渋面を作ったまま、子供には贅沢だ、と切り返した。
セルフィは不満そうに鼻を鳴らす。
「ひっどーい、子供やあらへんよ。それにセンセー、この部屋はゼルのための部屋やん! ゼルのためかて、充分贅沢やあらへんの?」
ぐ、と言葉に詰まった。
隣でアーヴァインが噴き出し、スコールとニーダまで小刻みに肩を震わせ笑いを堪えている。
まったく、面白くない。
そもそも、部屋の主として力仕事には先陣を切るはずだったのに結局段ボール箱ひとつ動かせず、阿呆みたいに突っ立っているだけだったのもおおいに不満だった。
その元凶であるゼルはといえば、サイファーの懐におさまったまま、不思議そうに辺りを見回している。
「いいかげん出ろ、テメエは。」
乱暴に首根っこをつまんで吊り上げ、床に下ろした。
ゼルは振り仰ぎ、何するんだ、と非難の声を上げた。
だが、見慣れない部屋の様子と匂いにすぐに好奇心を持って行かれたのだろう。
慎重に床の匂いを嗅いでから、無秩序に置かれた段ボール箱の間をうろうろと徘徊し始めた。
「ねえ、ところでそろそろお腹すかないかい?」
腕時計に目をやりながらアーヴァインが言った。
「あ、そうやね。もうこんな時間や。」
「サイファー、外に行くか?」
もこもこ動き続ける毛玉を横目に、サイファーはそうだなと上の空に応えた。
「手伝わせたしな。俺が奢る。」
やったあ、とセルフィは無邪気に手を叩いたが、すぐに顔を曇らせる。
「あ。でもゼルは? 置いてったら可哀想やん。まだ部屋にも慣れておらんのに。」
「んなもん、ほっとけ。」
「またまたあ。本当はセンセーかて心配なくせにい。」
うるせえと毒づこうとしたサイファーを、ああそうだ、とニーダが遮った。
「すぐ近くにピザ屋がありましたよ、宅配の。」
「あ、それいい! うち、ピザ食べたーい!」
今度こそ満面の笑みでセルフィは何度も頷く。
じゃあ決まり、とアーヴァインは辺りを見回す。
「電話帳はどこだっけ?」
「ええと、確かこの箱のはず。」
ニーダは傍らの段ボール箱を無造作に開け、ごそごそと電話帳を探した。
携帯電話を手にしたアーヴァインとセルフィは、ピザの種類だの大きさだので真剣に悩んでいる。
その間に、ひと通り部屋を見回ったゼルはサイファーの足元へと戻ってきた。
セルフィらの賑やかなやりとりに紛れ、か細い哭き声がにぃ、と訴える。
視線を下ろすと、ゼルはさらに脛に腕をかけて伸び上がった。
軽く膝を振ってわざと振り落とし、柔らかい体を爪先で突つく。
たちまちゼルはころりと横たわり、爪先相手にじゃれ始めた。
両前脚で足の甲を抱え込んで指先に軽く噛み付きながら、後ろ足で連続蹴りを繰りだす。
ゼルのお気に入りのアソビだ。
──可哀想、なことあるか。
別に新居で緊張してる様子でもない。
大体、そろいもそろってコイツに甘すぎるんだ。
たかが猫相手に鼻の下伸ばしやがって、みっともねえったらありゃしねえ。
「まさかあんたが、猫のために引っ越すなんてな。」
「あ?」
「正直、意外だった。」
我に返ると、傍らにスコールが立っていた。
伏し目がちの視線は足元のゼルに向けられている。
サイファーは思わず足を引っ込め、眉をしかめた。
「‥‥そりゃ嫌味のつもりか。」
「まあな。」
さらりと言い放って、屈み込む。
ゼルは、なおも足首にじゃれつこうと姿勢を低くし、タイミングをはかっていた。
そこを突然スコールに抱き上げられ、きょとんとして二人の顔を見比べる。
スコールは目を細めて首筋を撫でてから、当たり前のようにサイファーの腕に毛玉を押し付けた。
遊びを中断されてしまったのが不満なのだろう。
ゼルは鼻先に皺寄せて軽くサイファーの指を噛んだ。
「‥‥こいつに聞いてみろ、つったのはてめえだろが。」
「うん?」
「俺がいい、とよ。」
「え?」
「だから。こいつに聞いたら、俺がいいって喋りやがった。」
スコールは瞬いた。
「喋った‥‥?」
「ああそうだ。猫が喋んのは一生に一度なんだろ。なら無視できねえだろが。」
笑いたきゃ笑え。
馬鹿げているのは百も承知だ。
冗談ととられようと頭を疑われようと構うものか。
あのゼルの言葉が錯覚だったとしても幻聴だったとしても。
サイファーには確かにそう聞こえた、それは動かせない事実なのだから。
しかしスコールは笑わなかった。
ただ呆気にとられた呈で、サイファーの顔をまじまじと無遠慮に眺めた。
「‥‥サイファー。」
「なんだ。」
「あんた本当は。ゼルが可愛くて仕方ないだろう。」
「‥‥。」
「ゼルなしじゃ一日も生きていけない、って顔してるぞ。」
「余計なお世話だ。」
苦々しく顔を背けると、スコールは笑った。
普段無表情なこの男も、笑うと花が開いたように優しい顔になる。
そして、興味深げに二人のやりとりを見守っているゼルの頭を何度も撫でた。
「頼んだぞ、ゼル。この堅物を宥められるのはお前だけなんだからな。」
「堅物で悪かったな。」
つうか猫に頼むことか、と出掛かった言葉は、誇らしげなゼルの哭き声に遮られる。
まったく、とサイファーは内心独りごちた。
どう足掻いたところで、スコールの言う通りだった。
こいつに振り回されてるのは、実は誰よりも俺自身だ。
そのことは、本当はずっと前から気付いている。
ただ、それを認めるのがどうにも気恥ずかしかっただけだ。
腕の中の小さな温もりは、今となっては何ものにも変え難い。
このふわふわの毛並みも、大きな蒼い瞳も、小生意気に皺寄せる鼻筋も。
もはや失う事など考えられない。
こいつがやってくるまでは、愛しさ、なんて感情は知る由もなかった。
ただそこにいるだけで安堵し、触れるだけで心を撫で付けてくれる存在があるなんて、夢にも思わなかった。
言うなれば、こいつのおかげで初めて自分も人間らしくなれたと言えるのかもしれない。
だから、あるいはもしかしたら、本当に。
こいつは、俺にとっての──天使なのかもしれない。
柄にもなく幼稚で青臭い考えが浮かんでしまって、思わず口角を歪めた。
するとゼルは見抜いたかのように、伸び上がって顎に鼻先をこすりつけた。
──あんたのこと、大好きだぜ。
無邪気なアピールに頭を撫でて応えてやり、小さな額に唇を押し付けて、そっと懐に放り込む。
ピザの注文で難儀していた三人も、ようやく片がついたらしい。
ピザすぐ来るって、と笑顔で告げて、セルフィは先頭切って周囲の段ボールを除け始めた。
転じて眺める広く取られた窓の外には、春の夕陽が傾いている。
それは、いつかどこかで見たような、鮮やかなオレンジ色の夕焼けだった。
Fin.
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