コネコノホウソク(12)


12

ドアを開けると待ちかねたように、転がらんばかりの勢いで毛玉が駆けてくる。
例によって、ひとりで暇を持て余していたのだろう。
本棚と壁の隙間にしまっておいたはずの段ボール紙が廊下に転がり、周囲には粉々になった紙屑が散乱している。

「やりやがったな。」
舌打ちと共に呟いたが、足元の丸い大きな瞳はきょとんとして見上げるばかりだ。
しゃあねえな、とぶつぶつ独りごちながら部屋に上がり、クローゼットから掃除機を引っ張りだした。
途端にゼルはぴんと耳を立て、電光石火で洗面所にかけこむ。
ゼルは、この掃除機が大の苦手なのだ。
どれほど遊びに夢中になっていても、あるいは煮干しを噛んでいても、掃除機の音が鳴りだすとまるでこの世の終わりみたいに慌てふためいて部屋の中をあっちこっちと逃げ回る。
その混乱ぶりといったら、腹を抱えて笑ってしまうほどに可笑しくてたまらないのだが。
──さすがに、今はそんな心境にはなれなかった。

ここ数日のサイファーは、極めて不機嫌だった。
予備校は春休みに入っているので、幸い仕事の上での支障はなかったけれど、何をするにも気がそぞろで落ち着かず、ただでさえ無愛想な顔を終始強張らせたままでいた。
原因は、言うまでもない。
例の期限が容赦なく迫って来ているからだ。
一週間以内には身の振り方を決めねばならない。
あれから後、アーヴァインはもちろん、スコールとセルフィも再三催促されている。
だがそのたびに、歯切れの悪い返事で結論を先延ばしにしていたのだった。

俺らしくもねえ、と思った。
今までの人生の中で、即断即決をためらう事柄などほとんどまったくなかったというのに。
一体何を躊躇しているのか自分でもよく解らず、解らないのがこれまた苛立つ。
どう考えたって、ここを出て行くのは得策ではないと思う。
職場の近くでここほど利便のいいところはない。
一応別の部屋を探してもみたのだが、猫を置いていいと明記してある部屋はほぼ皆無だった。
かろうじてひと部屋だけ見つかったものの、そこは職場からけっこう遠くて今より二十分も余計な通勤時間を余儀なくされる上、家賃も二倍近くまで跳ね上がってしまう。
出して出せない額ではないけれど、正直難しいところだった。

──たかだか猫一匹のために、なんで俺がそこまで犠牲を払わなきゃならねえんだ。
一度ならず、サイファーは毒づいた。
大体、俺が望んだわけじゃねえ、こいつが勝手に居ついただけだ。
こいつのために、俺が窮屈な思いを強いられるなんてどう考えても馬鹿げている。
しかしそんな自棄気味の考えが頭をよぎる一方で、ゼルを誰かに託すことにも何か釈然としない苛立ちが募るのだった。
確かにこういう場合、アーヴァインやセルフィに託すのが無難なのかもしれない。
ゼルにしたって、すすんで可愛がってくれる誰かに世話になった方がずっと居心地がいいだろう。
だがしかし。
ちやほやされて餌にも不自由しないとなれば、気まぐれな猫風情の事だ、俺の恩などきれいさっぱり忘れちまうだろうと思うと──非常に、面白くない。
理屈や道理でなく、とにかく本能的に気に食わないし、癪に触る。
だったら、ここはやはり引っ越すしかないだろう。
──と、一度は決断しかかるのだが。
そこでまた、いや、たかだか猫一匹のために、なんで俺が、と振り出しに戻ってしまう。
つまりは、いくら考えても堂々回りなのだった。

しかめっ面で掃除機をかけているサイファーを、ゼルは洗面所のドアの陰からじっと伺っていた。
やがて紙屑を吸い終えた掃除機のスイッチを切ると、待ち兼ねたようににゃあとひと声上げてから、ひたひたと近付いてくる。
サイファーはその小さな顔を凝視した。
行儀良く座って見上げる鼻筋が、少し困っている。
ここ数日のサイファーの不機嫌の理由が解らずに、戸惑っているのだろう。

「‥‥めでてえヤツだな、ったく。テメエの事で悩んでる、っつうのによ。」
蒼い瞳はぱちぱちと瞬いた。
陰にこもったサイファーの言葉に、擦り寄る雰囲気ではないと察したのかもしれなかった。
ころりと下半身を崩すと、所在なさげに己の前脚を噛んで毛繕いを始める。
サイファーはクローゼットに掃除機を押し込み、ゼルを跨いで、テレビの前に居座った。
茶卓の上のテレビのリモコンを手繰り寄せるが、何となく電源を入れる気にならず、再び投げ出す。
「‥‥ゼル。」
視界の隅で、金色の毛玉の動きがぴたりと止んだ。
「ゼル。」
あらぬ方を見据えたままもう一度呼ぶと、ゼルは弾かれたように身を起こし、こちらへやってきた。
太腿にいつものくすぐったい重みがかかり、心もとないかすれ声がにいと啼く。
乗っていいのか?と恐る恐る問いかけるような声色だ。
拒否はしないが頷きもせず、知らぬ振りを決め込んで黙っていると、痺れを切らしたのか強引に膝の上に乗ってきた。

──なあ、サイファーってばよ。
──ちゃんとオレのこと見てくれよ。
詰るように、額を、頬を、しきりに腹にこすりつけてくる。
その仕種はあまりにもあからさまで、結局根負けするしかない。
軽く頭を叩いて、背中を撫でてやった。
ゼルはたちまちほっとしたように丸くなり、ごろごろと喉を鳴らす。
そういやあ、もうすぐ一年になるな、と漠然と思った。
体は一回りも大きくなり両手にも余るほどになったのに、サイファーの腕の中では相変わらず甘えたな仔猫のままだ。
警戒心のかけらもなく、満ち足りた様子で瞼を閉じている顔を見つめていると、愛おしいような小憎らしいような不思議な気分になる。

「‥‥考えてみりゃ、幸せなヤツだな、テメエは。」
溜息混じりに呟くと、掌の下でぴくぴくと耳が動いた。
「皆がテメエを引き取りてえとよ。モテてんじゃねえか、なあ。」
誰にでも愛され、可愛がられて。
こいつなら、どこへ行ったとしてもきっと幸せになれるだろう。
ことによるとココにいるよりも、ずっと幸福になれるかもしれない。
ならば何も悩むことはない。
最善策は、最初から決まっているのだ。
けれども。
──こいつ自身は、一体どう思っているんだ?
ふと、先日のスコールの台詞が頭をよぎる。
ゼル自身は。
どうしたい、と思っているのか。

「‥‥テメエはどうしてえ。誰んとこに行きてえんだ?」
びっくりしたように、ゼルは瞼を開いた。
ガラス玉のような美しい蒼い瞳が、まじまじとサイファーを見上げる。
「大家んとこか。セルフィんとこか‥‥いや。」
と、サイファーは我に返り、口角を歪めた。
「‥‥解るわけ、ねえよな。」
まったく、我ながら間抜けな事を。
自嘲して、おもむろに膝からゼルを下ろし、立ち上がった。
喉を潤したくて、キッチンに向かい冷蔵庫に歩み寄る。
ゼルは不満そうに鼻を鳴らしながらとことこと後をついてきた。
足元に気配を感じながら冷蔵庫を開け、缶ビールを掴みだす。

──そういや、スコールの奴、下らねえ冗談を言ってやがったな。
プルタブに指をかけた拍子に、ふとスコールの言葉が蘇った。
猫が喋る、だと?
ふざけやがって──大体。
万が一にも喋ったところで、所詮猫は猫、じゃねえか。
鼻で笑って冷蔵庫のドアを押しつけ、缶に口をつけながら踵を返す。
そして部屋に戻りかけた、その時だった。

「あんたがいい。」

脚が強張った。
ぎょっとして振り返ったが、誰もいない。
当然だ。
ここは部屋の中だし自分以外誰もいる訳がない。
耳を済ましてみても、あたりはしんと静まり返ったまま物音一つしなかった。
ごくり、と口の中のビールを飲み下してもう一度周囲を見回し、じりじりと視線を下げる。
冷蔵庫の前で行儀良く脚を揃え、ひたとこちらを見つめている毛玉と目が合った。
──まさか。

「‥‥テメエ、か?」
ゼルは軽く首を傾げるとひょいと尻尾を持ち上げ、悠然と近寄ってきた。
──そんな、馬鹿な。
呆気にとられたまま茫然と立ち尽くすサイファーの脛に脇腹をこすりつけ、誇らしげににゃあ、と啼く。

馬鹿な、有り得ない。
ただの空耳、何かの聞き違い。そうだ、そうに違いない。
それはきっと、聞こえたというよりも聞こえてしまったという方が正しい部類のモノだ。
たとえばここに他の誰かがいたとして、今のを聞いたかと尋ねたとしても、そんなものは聞こえなかったと首を振られるのがオチだろう。
──だが。

サイファーは、なおもじっとゼルを見下ろした。
金色に似た薄茶色の背中が、静電気のせいかトサカのように逆立っている。
そのきらきらとした毛先を眺める内に、身の内に絡まっていた何かが、緩み解けていくような気がした。
サイファーはゆっくりと屈みこみ、指先で逆立った背中を撫でてから、柔らかな腹をすくいあげた。
ふわふわの体は慌てたように小さくもがいたが、すぐに大人しくなって、胸元にぴったりと密着する。
首筋に軽く食い込む爪と、ひやりとした肉球が、やたらにくすぐったい。

「‥‥俺がいいのか。」
耳元で囁くと、ゼルは短くにい、と哭いた。
決まってるじゃんとでも言うつもりか、ほんのりと湿った鼻先を頬に押し付けて、ごろごろと心地よい声で額を擦り寄せる。
サイファーは眉間に皺寄せて、ゼルの顔を覗き込んだ。
「‥‥たかが猫のくせに。ったく。」
ぼそりと悪態をついてみるものの。
少しも悪態になっていない自分の口調に気付いて、苦笑する。
そして小さな鼻筋を小突き、掠めるように唇を押し当ててから、一息に缶ビールを煽った。
「さて。メシにするか。」
「にゃあ。」
ゼルが、待ってましたとばかりに声を上げる。
まったく、現金な奴だ。
サイファーは笑いながらもう一度その鼻筋をつつき、ゆっくりキッチンに取って返した。

To be continued.
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