SUCK OF LIFE(エピローグ)


エピローグ

早々に沈みかけた冬の太陽のせいで、部屋の中はもう薄闇に包まれつつある。
黒のレザーグローブに指を通し、コートを纏い、壁際に立て掛けてあるハイペリオンのケースに近付こうとして、サイファーはふと眉をひそめた。
身支度は整ったはずなのに。
どうにも何かが物足りないような気がした。
なんだったろうと首筋に手をやり、ああ、と気付く。
チョーカーがないからだ。
常にそこにぶら下がっていた、あの硬質の重みが感じられないのが、違和感なのだ。

どうやら、慣れるまでには、しばらくかかりそうだ。
苦笑まじりに首筋を掻いて、サイファーはハイペリオンのケースを床に下ろした。
蓋を跳ね上げ、ビロードの内張りに静かに収まっている相棒の姿を確認する。
ふと、グリップ部分にきらきらと光っている、銀色の小さなクロスソードに目が行った。
半月前に、誕生日祝いにとゼルがくっつけたものだ。
今朝方別れる時までずっと思案顔だった、恋人の横顔が脳裏をよぎる。

──俺は、俺の中の猛獣は。
もはやあてもなく彷徨ったり、誰彼構わず吠え掛かって噛みつく事もない。
なぜなら、銀の鎖よりも確かな絆で結ばれた、守るべき存在を見つけたから──いや、思い出したからだ。
焦燥と激昂と絶望の日々はもはや過去となった。
今の自分は、もう狂犬などではない。
無垢な魂を、純粋な笑顔を守る事を誓った、崇高な騎士だ。
その身を守るために全身全霊をかけることができる、絶対的な主が傍らにいる限り。
戒める首輪も、その手綱を引く誰かも、もう自分には必要ない。

そして、今なら解る。
拭っても拭っても消し去れなかった、あの焦燥と苛立ちは。
「魔女の騎士」よりもさらに昔に胸に刻みつけられていたかけがえのない想いが、忘却に抗う声だったのだ。
無情にも折り重なり続ける時間のフィルターと先入観の檻から逃れ出ようとして、本当の心が必死に悶え叫んでいたのだろう。
自分が目指していたもの、なりたかったもの。
忘れてはいけないはずなのに、底へ底へと沈んで埋もれる一方だったその記憶。
──思えばあの一ヶ月間こそが、最悪の事態を防いでくれたのかもしれない。
あの一ヶ月が無ければ、この想いも記憶も心の奥底で朽ち果てていたかもしれないからだ。
そう思うと、ぎこちないながらもどこか感謝めいた気持ちになる。
失いかけた「騎士」の夢を呼び覚ましてくれたのはリノアだったし。
自暴自棄だった己自身を見つめ直す指針を拓いてくれたのは──紛れもなく、あの男だったのだから。

サイファーは首筋を抑えたまま軽く瞼を伏せて息を吐き、ケースを手に立ち上がった。
時間にはまだ間があるが、早く出かけるに越した事はなかった。
さっさと出掛けてさっさと帰れるものなら帰りたい。
一分でも一秒でも早く、帰りたいと思うだけの理由がある。
だが、歩みだそうとしたその時、突然ドアが開いた。

「あれ?なんだ、もう行くのかよ?」

金髪のトサカ頭が、びっくりしたような顔でそこに立っていた。
だが面喰らったのはこちらも同じだ。
つい今し方まで脳裏に描いていた姿が、現実となって現れたのもさることながら。
任務に出かける直前に、わざわざ見送りに来る事など珍しかったから。
だが驚きはすぐいつもの皮肉にすり変わって、歪んだ口端から滑り出る。

「なんだ。別れがんなに名残り惜しかったか?」
立ち尽くしたままのゼルに近付き、素早く腰を撫で上げる。
「今朝まで、充分惜しんでやったろ?」
「ばっ、そんなんじゃねえっ!」
かっと頬を染めて、ゼルはサイファーの手を叩き落とした。
が、すぐに気を取り直したように、あのさ、と口籠る。
「どうした。」
「ん‥‥。これ。」
ゼルはごそごそとズボンのポケットを探ると、そっと掌を差し出した。
その手には、チョーカーが握られている。
それも二本、揃ってだ。

「‥‥なんだ。返す、ってか?」
「いや。うん。一本だけな。」
「ああ?」
片眉を吊り上げたサイファーに、ゼルは掌を開いて、真新しい方のチョーカーをつまみ上げて見せた。
「元の方のは、オレが貰う。んでもこっちの新しいのは、やっぱあんたつけろよ。」
「‥‥もう必要ねえ、っつったろ。」
「ああ。でもさ、やっぱあんたに似合うし。それに。」
ゼルはひょい、と手首を返し、チョーカーの裏をサイファーの鼻先につきつけた。
「オレの名前。持っててくれ、よ。」
サイファーは目を見張った。
まっさらの、無機質な銀板の片隅に小さな傷のようなものがついている。
よく見ればそれはアルファベットの羅列であり、今さら確認する迄もない名前だった。
ゼルが、己の名前を刻みつけたのだ。

「あんたにこれをくれたのがどういう奴かは知んねえ、けど。」
どこか拗ねたような、歯切れの悪い口調でゼルはぼそぼそと言った。
「でもこれなら、さ。その‥‥。」
なるほど、これなら。
持っているに値する、って訳か。
ゼルの子供じみた、しかし健気な所作に、思わず笑みがこみあげる。

「‥‥おい。」
「ん?」
「これがテメエの名前だってえんなら間違ってんぜ。」
「ええ?嘘だろ。どこがだよ?」
仰天したゼルは目を剥き、慌てて銀板をひっくり返した。
サイファーは鼻で笑い、顎をしゃくってみせる。
「テメエの名前はチキンだろが。チキンの綴りも忘れたか?」
「なっ‥‥!」
矯めつ眇めつしていた顔が、みるみる紅潮した。
ひきつった口元が犬歯を剥き、怒りにまかせた抗議の言葉を吐く。
「オレはチキンじゃねえっ!いい加減やめろその呼び方!!」
「フルネームは腰抜けチキンだろ。それとも能無しチキンか?可愛らしくチキンちゃんでもいいぜえ?」
「うるせえ!!黙れこの‥‥っ!!」
チョーカーを握りしめたまま飛んできた拳をひょいと躱し、その手首を掴み上げる。
「は、離せ!!」
「んな怒んなって、チキン野郎。冗談に決まってんだろ。」
「まだ言うか!」
ゼルは悔しがってなおも喚いた。
掴まれた手首を無闇に振り回し、蹴り脚まで繰り出そうとしてくる。
その膝を素早く脚で抑え込み、小柄な体をするりと抱きすくめた。
途端にゼルはぎょっと身を縮めて、四肢を強張らせた。
その隙に軽くタトゥーに口づけ、低く囁く。
「テメエの名前なら、何があっても外す訳にはいかねえなあ。」
「‥‥う‥‥」
「つけてくれ。ゼル。」

らしくもない殊勝な物言いに、ゼルは少し面喰らったようだった。
一瞬まじまじとサイファーの顔を見上げたが、すぐに素直に頷くと、そっと背伸びをして首に両腕を回した。
微かな金属音がして、首筋に馴染んだ重みが鎮座する。
「どうだ。」
「ん。」
蒼い瞳が眩しげに瞬いた。
「やっぱ、あんたに似合う。」
「そうか。」
「ああ。」
赤味の差した頬で、ゼルはくすぐったそうに笑った。
そして、サイファーの肩に手をかけて再び伸び上がると、そっと耳元に唇を寄せた。

「なあ、サイファー。早く‥‥帰ってこいよな。」
あるかなしかの擦れた声が躊躇いがちに囁く。
「あんたの事、一番待ってんのは‥‥オレなんだからよ。」

その甘い旋律に目を細め、サイファーは今一度しっかりとゼルの体を抱きすくめた。
流れ込む温もりは優しくて心地よくて。
身も心も、とろけるように凪いでいく。

───道は、見つかったか?

ああ。見つけたとも。
寄り道もしたし、迷いもしたけれど、今はもう何も惑う事はない。
俺が本当に守るべきものは、ここに。
この腕の中にある。

首筋を滑る息遣いとさらさらという鎖の音。
それらが混じりあい、ゆっくり皮膚の内に沁み通っていくのを味わいながら。
サイファーは、乱暴に、しかし優しくゼルの髪を掻き回した。

Fin.
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