SUCK OF LIFE(17)
17
腕に馴染んだジェラルミンケースの重み。
日用品を詰めたケースは先に執事が送ってくれたので、後にも先にも荷物はそれひとつだった。
ゆっくり部屋を見回し、溜息をつく。
最後にシーツの乱れたベッドに一瞥をくれて、サイファーはハイペリオンのケースを手に階下におりた。
カーウェイ中佐は、朝食の後のまま暖炉の前にいて、紫煙をくゆらせていた。
居間の入り口に立ちはだかったサイファーに気付くと、煙草を挟んだ指先で招く。
素直に近付くと、斜向かいのソファを顎で示された。
サイファーは浅く腰を下ろし、つくづくと中佐の顔を眺めた。
見つめ返してくる眼差しは、落ち着き払っている。
綺麗に撫で付けた黒髪も、襟元まできっちりと着込んだ軍服もいつもと同じだし、ひと月前ともいささかも変わったところはない。
変わったとすればそれは多分。
その中佐をこうして直視できている、自分の方が変わったという事なのだろう。
「昨夜はよく眠れたか?」
煙草の灰を灰皿に落とし、中佐は言った。
「‥‥まあな。」
「そうか。リノアは、今日は来られないそうだ。残念だが。」
昨夜のベッドの中では露程もそんな素振りは見せなかったのに、中佐は初めて名残惜しげに声を曇らせた。
ゆらぐ紫煙の向こうで、薄い唇が細く煙を吐く。
サイファーは微かに苛立ちを覚えた。
「残念なのは、リノアだけか。」
「うん?」
「貴様は、どうなんだ。」
言ってしまってから後悔したが、遅かった。
案の定、中佐は一瞬驚いたようにサイファーを見つめ、それから目許に仄かな喜色を滲ませた。
「ほう。可愛らしい事を言う。」
「黙れ。言葉のあやだ。」
眉をしかめて顔を背ける。
中佐は笑みを浮かべたまま、丁寧に煙草を揉み消した。
「私の気持ちは言うまでもないことだ。その気がなければここに残ることを提案したりはしない。」
最も至極な答えだ。
そして、その提案を退けたのはサイファー自身なのだ。
今さらながら、自分の決断は本当に正しかったのだろうかと疑念がよぎる。
しかしそんなサイファーの戸惑いをよそに、中佐は生真面目な口調に戻った。
「リノアの事を言ったのは、ひとつ気がかりがあるからだ。」
「気がかり?」
「ガーデンの人間である君に、彼女が何を話したか。」
サイファーははっと瞠目した。
そうだった。
中佐ならば、そこまで察していて当然なのだ。
娘は無邪気にも隠しおおせていると信じきっているが、伶俐な父親は何もかも見抜いている。
見抜きながらも、知らぬ顔で放免している。
どういうつもりでそうしているかは知らないが、中佐の事だからそれが最善の対処法なのだろう。
そして、その娘が何を考え、名目上はSeeDであるサイファーに何を語るかぐらい、彼ならばおおよそ察しはついているに違いない。
無論、リノアが耳打ちした事を中佐に告げるつもりはない。
だが、しかし──。
唇を引き結んで渋面を作ったサイファーに、中佐はゆっくり首を振った。
「いや。何を言ったにせよ、君の口から語る必要はない。どの道、私は何も聞かなかった事にしかできないからな。」
姿勢の良い背中が深く背もたれに沈み、けだるげな膝が組み合わさる。
「ガルバディアの現状がいかに狂ったものであるかは私も自覚している。いつか、間違いが正される日もくるだろう。‥‥その時、彼女が無事で幸福ならば‥‥私はそれでいい。」
サイファーは何も言えなかった。
しょせん自分は、この父娘の葛藤と確執には立ち入れない。
足元のハイペリオンのケースを見つめながら黙って頷くと、中佐は浅く溜息をつき、それから気を取り直すように再び煙草に火を点した。
「ガーデンには夕刻につくよう手配してある。」
「ああ。」
「この一ヶ月間の事は。忘れてくれてもかまわない。」
「言われねえでも三日で忘れてやる。」
わざと憎々しげに吐き捨てると、中佐は笑った。
「だが私は楽しかった。おそらくもう会う事もないだろうな。‥‥今さらだが、一応言っておく。」
「何を。」
「君を愛してた。」
「‥‥ああ。」
さらりと流れ込んできた言葉に、サイファーは何故だかほっとして肩の力を抜いた。
「あるいは私は‥‥自分の人生で果たせなかったものを君に託したかったのかもしれない。」
サイファーは一瞬中佐を見直し、ふといたたまれない気持ちになって顔を背けた。
最初は、この男に観察されていることに激しい嫌悪を覚えた。
しかし、それは観察ではなくむしろ傍観なのだと今では気付いていた。
この男はサイファーを観察して悦に入っているのではない。
サイファーの人生に介入したくとも介入できず、傍観することしか出来ない葛藤を、彼なりの分別で抑え込んでいるだけなのだ。
もしも違う立場、違う場所で出会っていたなら、そんな分別も必要なかったであろうに。
そして、違う状況であったならあるいは自分も。
この男に、もっと素直で──もう少し親密な感情を覚えていたのかもしれない。
色素の薄い唇が吐く濃い煙が、ゆらゆらと立ちのぼる。
中佐は傍らのテーブルに半身をよじると、掌ほどの大きさの包みを取り上げサイファーに差出した。
「なんだ。」
「私からの贈り物だ。誕生日にはだいぶ遅れてしまったが。」
訝りながらも受け取り、品の良い濃紺色の包装紙を解いた。
中からは緋色のスウェード調のケースが現れた。
不審の視線で伺うと、中佐はさらに顎で促す。
仕方なく、ケースを開いてみた。
ケースに収まっていたのは、銀色のチョーカーだった。
摘み上げてみると、さらさらと心地よい金属音と共に、程よい重みが指先にかかる。
重みからすると銀製らしかった。
両端を鎖に支えられたタグの部分には特に装飾もないが、プラチナかロジウムのメッキが施されているのだろう。
真新しく艶やかな表面は鏡面のように輝いて、憮然としたサイファーの顔を映している。
サイファーは一瞬言葉に詰まり、タグの向こうにある中佐の顔を軽く睨みつけた。
「‥‥狂犬を繋ぐ首輪、のつもりか?」
「好きなように受け取ってくれて構わない。」
中佐は口許を綻ばせ、軽く身を乗り出した。
「確かに、できることならこの手で、君の中の猛獣を飼い馴らしたかった‥‥その首輪の鎖を手繰れるものなら手繰りたかったが。残念ながらかなわぬようだ。」
「俺は誰にも尻尾は振らねえ。」
低く反駁したが、中佐は何も言わずに微笑したままだった。
サイファーの言葉に同意しているようにも見えたし、それはどうかなと反論しているようにも見えた。
掴みどころのないその笑みに反応しあぐねていると、中佐はついと腰を浮かせた。
直立し、一歩進んで、サイファーの手からチョーカーを引き抜く。
秀でた額と形の良い眉が間近に迫って、煙草の匂いが鼻先を掠めた。
首筋に、ひやりとした金属の感触が触れる。
思わず身を竦めると、耳元で柔らかな声が囁いた。
「私の美しい野獣。君の幸運を──君が向かうべき道が見つかる事を願ってる。」
キスされる、とばかり思ったが。
チョーカーを繋いだ指先は、頬に触れただけでするりと遠ざかっていった。
気がつけば、慣れない重みが首筋に乗っていた。
中佐の顔を見上げると、深い暗褐色の瞳が静かに頷く。
サイファーは唇を開きかけたものの、何を言うべきかが解らない。
結局、細く長く息を吐き出しただけで、ソファから立ち上がった。
ハイペリオンのケースの把手をきつく握りしめて、踵を返す。
再びソファに身を沈めた中佐は、そのままそこでサイファーを見送った。
背中を追いかける、穏やかな視線と煙草の匂い。
サイファーは振り返ることなく、黙って部屋を出た。
カーウェイが大佐に昇進したのは、それから一年近く後のことだった。
数カ月に一度届くリノアからの手紙で、サイファーはその事を知った。
さらに、恐らく父の元にはもう戻らないと彼女は告げ、いよいよ例の話を通して欲しいと書き添えてきた。
それが、リノアからの最後の手紙となった。
サイファーは約束を守った。
サイファーのかつてない生真面目さに気圧されたものか、あるいは他の思惑があってのことか、シド・クレイマーは、レジスタンス「森のフクロウ」へのSeeD派遣を、異例とも言うべき寛大な条件で受理した。
世界はまさに、大いなる運命の渦に呑み込まれようとしていた。
予兆のように、いたるところで不穏な空気とそぞろな不安が満ち溢れ、一触即発となっていた。
そしてサイファー自身も、やがてその運命に大きく関わり、翻弄されることとなるのだが。
──そんな未来を、その時のサイファーはまだ知る由もなかった。
To be continued.
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