夕暮れ(1)
1
橙色に染まった雲が、視界の右から左にふうわりと流れていく。
見慣れ過ぎたその夕焼け空は、退屈だけれどやっぱり綺麗だ。
見下ろす街並も、足元の草むらも、あらゆるものが同じ橙色のフィルターに包まれて、まるでセピア色に変色した古い風景写真みたいに見える。
この風景を一枚の写真として残すとしたら。
きっと自分は、この風景の中にちっぽけな一部分として映り込むに過ぎないだろう。
それとも風景に溶け込んでしまって、観る人には気付いてさえ貰えないかもしれない。
むずがゆいような不安に駆られて、ゼルはそうっと頭を巡らせ、傍らの少年を見た。
横柄な態度で腕組みをして立ち尽す彼は、先程から微動だにせず一言も発しない。
毅然と前を見据える整った横顔は、茜色に一段と照り映えている。
ゼルよりも、頭ひとつは大きい。
躯つきも物腰も、ずっと大人びている。
歳の割に小柄でまだ筋肉も薄いゼルと並ぶと、とても歳ひとつしか違わないとは思えない。
じっと見つめていても何の反応もないので、ゼルはますます不安になった。
寄り掛かっている柵のささくれた表面をぎゅっと掴んで、躊躇いながら唇を開く。
「なあ、サイ‥‥」
「黙ってろ。」
ぴしゃりとゼルの声を遮って、サイファーはようやく斜めにゼルを見下ろした。
薄い唇の端が微かに吊り上がっている。
「それとも見る前からビビってんのか? チキン野郎。」
「なっ、ビビってなんかねえよ!」
「じゃあ黙ってろ。」
再びそう言って、サイファーは前を向いた。
ゼルは唇を噛んでそっぽを向くと、黙って眼下の線路を見下ろした。
いつもいつも、二言目にはこうやってからかわれる。
けれど声が聞けた事で、少しだけさっきの不安は和らいだ。
積み木のようにちまちまと並んだ街並の彼方に、熟れ切ったオレンジそっくりの太陽が落ちていく。
昔、偉い人がここからこの風景を見て、なんて夕焼けの美しい街だろう、と褒めたたえたのだそうだ。
やがてそれが、本当に街の名前になった。
確かに、この街はずれの丘の上から見る夕焼けは溜息が出るほどの絶景で、それ目当ての観光客さえいるぐらいだ。
その前にはもっと厳めしくて難しい名前があったのだけれど、今となってはそれを口にする者はほとんどいないし、ゼルたち子供にいたっては、その名はせいぜい学校の歴史の授業の中で耳にする程度だ。
今となっては、誰もがトワイライトタウンの名に馴染んでいる。
そのトワイライトタウンにまつわる七不思議を調査しよう、というのが、ハイネ達が思いついた夏休みの自由研究だったらしい。
新学期が始まって間もないその日、研究発表の授業で彼らが得意げに説明するのを、ゼルは興味深く聞いた。
いわく、七不思議と呼ばれているものはすべて噂に過ぎなかったそうだが、しかし最後の不思議、幽霊列車の件だけはまだ結論が出ていないというのだ。
幽霊列車の噂は、ゼルも以前から耳にしていた。
夕暮れ時、サンセットヒルに登ると、誰も運転していない巨大な列車が眼下の線路を走り抜ける、という話が子供達の間ではまことしやかに伝わっている。
その幽霊列車の件だけ結論が出ていないとは、どういう意味なのか。
なぜ他の七不思議のようにただの噂だったと断定できないのだろう。
授業の終わりを告げるベルを聞くが早いか、ゼルはハイネとピンツを捕まえると、勢い込んでそのことを問い質した。
ハイネは難しい顔をして、実は、と顔を曇らせた。
「ロクサスはさ、確かに見たっていうんだよ。」
「見たって、幽霊列車を?」
ああ、と溜息まじりに頷いたハイネの横で、ピンツがうんうんと同意する。
「ロクサスが嘘をつくはずないけど、皆で見たわけじゃないし‥‥それが本当に幽霊列車だっていう証拠もないからね。」
「だから妥協してああ書くしかなかったんだ。」
そういう事か、とゼルは納得した。
クラスは違うが、ロクサスのことはゼルも良く知っている。
物静かで何を考えているのか解らないところもあるけれど、筋は通った奴だ。
わざわざ皆を翻弄するための嘘をつくような奴ではない。
でも、それだから尚更のこと、ゼルはこの話にますます興味を引かれた。
ハイネ達の聞き込み調査によると、幽霊列車が目撃される日付はバラバラだが、ほとんどは夕刻の日没直前、しかも月曜日の目撃談が一番多かったらしい。
ロクサスが見たのも月曜日だったという。
そこで毎週月曜日は、学校が終わるのを待ちかねて、帰宅すると同時に家を飛び出し、町外れの丘にのぼってみることにした。
だが、二週間は見事に棒に振ってしまった。
三週間目の今日は、最初の勢いはどこへやら、半ば諦めかけてもいた。
幽霊列車なんてやはりただの噂にすぎないのじゃないか。
ロクサスだって、何かを見間違っただけじゃないのか。
徐々に暮れ行く空も手伝って、不安と疑いがどんどん募る。
耐え切れず、もう諦めて帰ろうかと本気で思い始めたその時に、突然背後からサイファーに声をかけられたのだった。
「やっぱここだったか。」
驚いたゼルに、サイファーはからかい混じりに言った。
「月曜のたんびにそわそわしてやがると思ったら。幽霊列車だって?」
「な、なんで‥‥知ってんだよ。」
「オレットに聞いた。テメエが幽霊列車を見たがってたってな。」
「‥‥。」
どうせからかわれるに決まっているから、内緒にしておこうと思ったのに。
ハイネの口からサイファーに漏れることはまずないだろうとたかをくくっていたが、なるほどオレット経由なら知られても不思議じゃない。
ハイネはサイファーを敬遠しているけどそれはハイネ個人に限った事で、彼と仲の良いオレットやロクサスまでがそうだという訳ではないのだ。
ゼルは唇を噛んだが、しかしふと気付いた。
「‥‥サイファー、ひとりなのか?」
「あ?」
「フウは?ライは‥‥ビビは?」
いつもなら、サイファーを護衛するかのようにつき従っているはずの彼ら。
その彼らが見当たらないなんて、どうしたことだろう。
するとサイファーは曖昧な角度に唇を歪めた。
「ついてくんな、って追い返した。」
「なんで?」
「鬱陶しいからな。」
「え。」
意外な答えに目を見張ると、サイファーは面倒くさそうに首を振った。
「そういう時も、あんだよ。」
薄情とも傲慢ともとれる台詞だったが、そう言った横顔はなぜか寂しげで、ゼルはそれ以上何も言えなくなってしまった。
やがて、オレンジから薄紫色へと溶け始めた彼方の空に、斜めにたなびくかすかな白煙が見えた。
その尾を細く空に滲ませながら、煙は次第にくっきりとした輪郭を帯び、線路の上をこちらへと近付いてくる。
ゼルははっと奮い立ち、慌てて身を乗り出した。
勢いあまって両足が浮き上がり、小柄な躯が柵の向こうに転がり落ちそうになる。
と、横から力強い腕がひょいとのびてゼルの二の腕を掴み、ぐいと引き戻した。
「焦んなバカ。落ちるぞ。」
痛えじゃんか、と抗議しようとしたゼルを目線で遮り、サイファーは線路の方に顎をしゃくった。
「来たぜ。」
小さな点に過ぎなかったそれは、みるみるうちに指先の大きさに、掌の大きさになって、線路を疾走してきた。
巻き起こる旋風と耳をつんざく程の音に圧倒され、ゼルは一瞬身がすくんだが、慌てて近付くその物体に目を凝らした。
列車なのは疑いようもない。
ただ、見た事もない色と形だった。
いささか前に付き出した格好の先頭部分は、なんだか顎を付き出して歯を剥いた人の顔みたいに見える。
顎の部分は角張った金属製のバンパーで、歯に見える部分は巨大なラジエーターらしい。
そして不思議な事に、あるべき運転席の窓が見当たらない。
ぎょっとして見直すが、すぐにタネは解った。
運転席が普通の列車よりずっと高い位置にあるのだ。
顔でいうなら額に当たる部分、ラジエーターの上部に、黒くわずかに盛り上がった部分がある。
そこが、遮光窓に覆われた運転席なのである。
列車はびりびりと足元を震わせる轟音を立てて、二人が見下ろしている足元のトンネルに吸い込まれていく。
くすみがかった青色のボディの、両脇腹上部に三本、対になって計六本の突起が斜め後方に向かってついていて、凄まじい勢いで蒸気を吹き上げている。
白煙に見えたのは正しくは煙ではなくて、このタービン蒸気だった。
湿っぽい熱風に髪と頬をなぶられ、焦げた匂いがつんと鼻をつく。
ゼルは目を瞬きながら後ろを振り返った。
トンネルを潜った奇妙な列車は、運転車両と同じカラーリングの、これもまた見慣れない流線形の二両の客席車両を引いて、近付いてきた時よりもさらに目の醒めるようなスピードで遠ざかっていく。
たちまちそれは元の小さな点になり、そして線路の彼方に消えて行った。
「見たか?」
半ば茫然として、ゼルはサイファーを見た。
サイファーも圧倒されていたのだろう、ゼルの言葉にやっと我に返ったように唇を引き結び、ぶっきらぼうにああ、と答えた。
さらに深みを増した橙色に、頬も肩も染まっていた。
目深に被った黒いニット帽だけが、何色にも染まらぬままくっきりと映える。
ゼルは、風に弄ばれてくしゃくしゃになってしまった髪を直しながら唇を尖らせた。
「やっぱ、デマだったんだ。‥‥確かに見た事もねえ列車だけど、だからって幽霊列車だなんてさ。」
「だな。」
「あの列車、どっから来たんだろ。どこに行くのかなあ。」
「さあな。」
けんもほろろなサイファーの反応は、昔からだから慣れている。
サイファーの大人びた横顔にはそういう素っ気なさが逆に似合っていて、カッコイイなあとさえ思ってしまう。
「あの列車‥‥乗ってみてえなあ。」
「‥‥。」
「あれに乗って、ずうっと遠くに行ってみてえ。」
「なんだ。家出でもするつもりかよ?」
苦笑を洩らす薄い唇に、慌てて左右に頭を振る。
「そ、そんなんじゃねえよ。ただ‥‥見てみてえなって。ここじゃない違う世界っていうのをさ。」
ニット帽の下の翠色の瞳が、少しだけ細くなった。
困っているようにも怒っているようにも見える。
何かが気に触ったのかと思わず首をすくめたが、すぐにそれはいつもの皮肉な表情に変わった。
「テメエにゃ無理だろ。たちまち迷子んなって泣き喚くのがオチだ。」
「なっ、なに!」
「オコチャマに一人旅の冒険なんか早過ぎんだよ。ましてチキンだしすぐ泣くしな、お前。」
ぐっと言葉につまって、ゼルは唇を噛んだ。
自分の涙腺が緩いのは自覚している。
そこを突かれてからかわれるのもいつもの事だ。
もちろん自分だって、そんな簡単に泣きたくはないけれど、悔しさや怒りや寂しさや不安や、ありとあらゆる感情はいつも真っ先に涙腺に直結してしまう。
そしてその切っ掛けを作るのはいつだって──目の前でからかい顔に見下ろしている、この大人びた少年だ。
ゼルは固く拳を握って、精一杯の牽制のつもりでサイファーを睨んだ。
もちろん、サイファーは動じない。
ただ、不意に何かを思い付いたように笑みを引っ込め、身を屈めるとまっすぐにゼルの顔を覗き込んだ。
どきんと心臓が鳴った。
黙ってさえいれば、オトコの自分だってみとれてしまうほど綺麗な顔だ。
それが、いつにない真剣な表情で見つめてくるものだから、眩しさと緊張でもう牽制どころではない。
どぎまぎしていると、聞き取るのが危ういぐらいの小さな低い声で、サイファーは呟いた。
「‥‥そん時が来たら。」
「え?」
「俺が、一緒に行ってやる。」
一瞬、何が起こったのか解らなかった。
気が付いたら、顎を持ち上げられて、睫毛の数も数えられるほど間近にサイファーの顔があって。
サイファー、と呼んだつもりが、声にならなかった。
唇が、柔らかい何かに塞がれていた。
程なくそれは遠ざかり、しっとりと温かく湿った吐息が頬を横切った。
「‥‥早く帰れ。おばさんが心配するからよ。」
早口でそう言って、サイファーはせっかく直したゼルの髪をまたわしゃわしゃと掻き回した。
そして、少しだけ物言いたげな顔をしてから、頭を振って背を向けた。
ゼルはぽかんと口を開いたまま、立ち尽くした。
キス。されたのだ。
ようやくその事に気付いた時には、サイファーの白い背中はすでに夕闇に紛れ、小さく遠ざかってしまっていた。
To be continued.
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