夕暮れ(2)


2

サイファーとは、物心つく前からの幼馴染みだった。
トワイライトタウンには、セントラルステーションとサンセットステーション、二つの駅がある。
サンセットステーションは小さな無人駅で、サンセット住宅街に面している。
その住宅街のはずれ、駅に程近い路地にゼルの家はあり、サイファーは通りを挟んだ向かい側の家に住んでいた。
幼い頃から、喧嘩っぱやさと大人をなめた態度で、巷では有名な悪ガキだった。
だがゼルの両親は、なぜかそんなサイファーを信頼していて、事あるごとにゼルの「世話」を頼む。
歳はひとつしか違わないのに。
ゼルをよろしくね、なんてお願いされるのは自分だけが子供扱いされてるみたいで非常に面白くなかったけれど、しかしそういう不満は別にして、ゼル自身はサイファーが大好きだった。
身体が大きくて喧嘩も強く、頭も切れて、不遜だけれどもむしろそれが似合う大人びたこの少年を兄のように思っていたし、男として憧れてもいた。
一方のサイファーも、ゼルを弟のように思っていたのだと思う。
威勢はいいが小柄で泣き虫な「お向かいのチビ助」を始終からかい小突き回しながらも、邪険に遠ざけることはせず、むしろいつもちょっかいをかけてくるのはサイファーの方だったくらいだ。

だが、成長するにつれ、二人の間には少しずつ距離が保たれるようになっていった。
生来の人なつこさでゼルは誰とでも分け隔てなくつきあったが、サイファーはますますリーダー的頭角を顕わすようになり、いつしか周囲に崇拝者とも呼べる取り巻きを従えるようになっていた。
決してサイファーと険悪になったわけではないし、疎遠になったわけでもない。
ただ最近のサイファーは、とりまき連中と過ごしてばかりで、以前ほどゼルにかまってこない。
ゼルの方も、大勢の友人との時間や約束に忙しく、サイファーとは一言も言葉を交わさない日もある。
漠然とだけれど、やはり寂しかった。
しかも、寂しいと思っているのはゼルだけで、サイファーの方は特には何も感じていないのかもしれない。
そう思うと、寂しさがまたつのった。
だからこの頃のゼルは、サイファーの事を思うたびになんだか切なくなってしまう。

その、サイファーに。
キス、された。

一晩明けてもゼルの頭は混乱したままだった。
もしかしたらからかわれただけかとも思ったが、明らかに冗談とは違う気がする。
ずっと昔、まだ小さい頃、街はずれのトンネルの中で迷子になったことがあった。
大人に知られて大騒ぎになる前にサイファーが見つけてくれたのだが、昨日のサイファーの表情はあの時と同じくらいに真剣そのものだった。

朝日が照らすベッドの上で、ゼルはぼんやりと窓の外を見た。
夕焼けももちろんだけれど、トワイライトタウンの朝の風景も負けず劣らず美しい。
二階の窓から見える空は晴れやかに澄み渡り、家々の屋根の輪郭をくっきりと浮き立たせている。
通りを挟んだ正面には、サイファーの部屋の窓があった。
カーテンはぴったりと閉められていて、部屋の中は伺い知れない。
明るい外の陽射しに反してもやもやの晴れない心の内に、つい溜息が漏れる。
階下から、朝食を告げる母の声が聞こえてきた。


「よう、ゼル。昨日は幽霊列車、どうだった?」
教室のドアをくぐるなり声をかけてきたハイネとピンツに、ゼルはおう、と胸を張ってみせた。
「見たぜ。確かにこの目で見た!」
「ええ、ホントかよ!」
俄然ハイネは身を乗り出し、ピンツは小さな目を真ん丸にした。
「まさか夢でも見たんじゃないだろうな?」
「んな訳あるかよ。」
ゼルは鼻先に皺寄せてぶんぶんと首を振った。
「見たのオレだけじゃねえもん。サイファーも一緒に見たんだぜ。」
「サイファー?」
途端にハイネの眉が呆れたようなハの字になった。
「なんだ、またサイファーかよ。やっぱお前ひとりじゃ怖くて確かめられなかったんだ?」
「なっ、そんなんじゃねえ! サイファーに会ったのは偶然だよ!」
「ふうん、偶然ねえ。」
ハイネはさもつまらなさそうに唇をとがらせる。
「お前さ、なんであいつの後ばっかくっついてんだよ? どうせ小突かれるだけなのにさ。」
「そんなの‥‥オレの勝手だろ。」
「まあ、あいつがホントは悪いヤツじゃないっていうのは認めるけどさ。」
でもやっぱり面白くない、と言いたげにハイネはそっぽを向いた。
サイファーの名前が出ると、ハイネはいつもこんな調子だ。
露骨に憎み合うとか毛嫌いするというほどではないにせよ、顔を合わせれば何かと衝突するし、お世辞にも仲がいいとは言えない。
たぶん、サイファーとハイネはどこか似ているところがあるんだろう、とゼルは思う。
その似ている部分が磁石の同極のように反発しあうから、お互いを受け入れ難いのだ。
「で、どんなだったの、幽霊列車。」
顔をしかめているハイネの隣で、ピンツだけはにこにこといつもの笑顔でゼルに促した。
「本当に幽霊列車だったの?」
「あ、うん。いや、幽霊なんかじゃなかった。」
「ええ?」
「すげえ不思議な列車だったけど。見た事ねえし、運転席もどこだか解んねえし。でも、だから幽霊列車とか言われたんじゃねえかな。」
すると、ようやくハイネは頬を緩めた。
「そうかあ。幽霊列車もやっぱりデマだったんだな。」
「そういえば、噂できいたことがあるよ。月に一度だけこの町を通る特別な列車があるんだって。」
のんびりとした口調でピンツが言った。
「特別な列車?」
「うん、シティよりももっとずっと遠くまで行く列車なんだって。もしかしたらそれのことかもしれないね、幽霊列車って。」

なんとなく、三人は黙り込んだ。
朝の教室は慌ただしい上に騒がしくて、教室の隅の三人に注意をはらう生徒はひとりもいない。
そろそろ先生が来る頃だから席につかなければならないのだけれど、と気が気でないゼルの前で、ふとハイネが声をひそめた。
「なあ、ちょこっとだけ乗ってみたくないか?」
「え。」
「その幽霊列車にだよ。」
びっくりして目を丸くしたゼルに、ハイネはしいっと指を唇に当ててみせた。
「行き先は解んないけど、列車なんだから駅には絶対止まるだろ。そんなに遠くまで行かないで二つくらい先の駅とかで引き返してくればいい。」
「でも‥‥切符とかどうするのさ。」
ピンツがおどおどしながら尋ねると、ハイネは真面目な顔をする。
「普通の列車の切符で大丈夫だよ。見つかったら、間違って乗ったんだって言えばいいし。」
ゼルとピンツは、どちらからともなく顔を見合わせた。
ピンツの顔は、困惑に歪んでいた。
「だけど‥‥でも見つかったら‥‥。」
「お前らが行かないっていうなら別にいいよ。ロクサスにきいてみる。」
と、ハイネは少し怒ったような調子で言った。
「ロクサスとふたりで行く。そのかわり誰にも言うなよ。俺は見てみたいんだ。シティよりももっと先にある、別の世界をさ。」
はっとしてハイネの顔を見直した瞬間、教室のあちこちでいけねえ、とかやばい、とか頓狂な声が上がった。
先生が入ってきたのだ。
三人も、慌てて自分の席に飛んで走った。
バッグをかきまわして教科書を引っ張りだし、どうにか体裁を整えながら、ゼルは頭の中で何度もハイネの言葉を反芻した。
──そうだ。シティよりももっと先にある、別の世界。
鼓動が高鳴り、頬が火照った。
見てみたい。
ここじゃない、もっと遠い、別の世界を。
この目で見て、確かめたい。
こみあげる高揚で、教科書をめくる指先までもが興奮で震える。
おかげで、昨日の復習からと説明を始めた先生の言葉など、ろくに耳に入らなかった。


放課後、もう一度ハイネとその話をするつもりだったが、運悪くその日は掃除当番だった。
ハイネとピンツは先に帰ってしまい、結局幽霊列車に乗る話はできぬまま、ゼルはひとりとぼとぼと家路を辿った。
日中の陽射しも少しずつその威力が弱まってきているとはいえ、まだまだ暑い時期だ。
太陽に炙られて熱せられた路地は、靴底を通しても足の裏が灼けるほどだった。
線路を横切り街路を抜け、空き地に差し掛かった時、ゼルはふと、ハイネたちはいつもの場所にいるかもしれないと思い当った。
路地裏の、今は使われてない古い材木置き場が、ハイネたちの溜まり場になっているのだ。
学校帰りの寄り道は禁じられているので少し躊躇ったが、ほんのちょっとだけなら、とその場所に足を向けてみた。
だが、そこには誰もいなかった。
うずたかく積まれた、くすんだ色の廃材が、焼けるような午後の日差しを照り返しているばかりだ。
がっかりして溜息をつき、踵を返した時、古いスケートボードが目に留まった。
錆びついて蝶番の甘くなっているフェンスのそばに無造作に置かれたそれは、ピンツがどこからか拾ってきたものだった。
スケボーを見下ろしたまま、ゼルは軽く唇を噛んだ。
球技やスポーツならなんでも得意だが、実はスケボーだけは今だに苦手だ。
どう頑張っても、ロクサスやハイネのように華麗には乗りこなせない。
まっすぐ進むことはどうにかできても、ある程度スピードが乗って、何かしらの技を決めようとすると必ず盛大に転倒してしまう。

ゼルは辺りを見回した。
遅い午後の風が運んでくる、子供の声。
どこかの路地では、犬が吠えている。
遠くから、か細く響く列車の汽笛。
けれど、周囲に人の気配はまったくなかった。
ゼルはそうっと爪先でスケボーを突つくと、意を決して片足で踏み締め、残る足で地面を蹴った。
不安げな振動と共に、ボードは緩やかに滑り出した。
材木置き場から空き地へと続く路地は、最初なだらかなカーブを描いている。
進行方向を見定めて、さらに強く路面を蹴り、ボードに体重を預けた。

まつわりついていた熱気がたちまち心地よい風に変わって、頬を、首筋を撫でていく。
危ういバランスを保ちながらカーブに沿って進んでいくと、やがて大きな曲り角に差し掛かる。
思いきって、上体の重心を前のめりに傾けた、その瞬間。
世界はぐるんと反転し、呼吸が止まるほどの衝撃と共にゼルは路面に叩き付けられた。
視界の隅を、古びたボードががらがらと派手な音を立てて転がっていく。
地面に突っ伏し痛みに呻きながら、その行く先を目で追ったゼルははっとした。
転がったボードの先に、人間の足があったのだ。
不遜な態度で腕を組み、仁王立ちにゼルを見下ろしている、長身の少年の両足が。

「サイファー‥‥。」
「相変わらず、ヘッタクソだなテメエ。」

かすかに吊り上がった唇が、小馬鹿にした声を洩らす。
「まだまともに曲がれねえのかよ。」
「う、うるせえな!」
ゼルは真っ赤になって飛び起きた。
膝小僧がずきりと痛んだが、悔しさと恥ずかしさでそれどころではない。
転んだはずみで飛んでしまったデイバッグを引き寄せ、無闇に乱暴な仕種で埃を払う。
サイファーは不意に声のトーンを落とすと、ぼそりと言った。
「もうちっと重心を低くすんだよ。」
「え。」
びっくりして顔を上げると、サイファーはもう笑ってはいなかった。
整った顔がじっとゼルを見据えて、生真面目な低い声が淡々と言う。
「焦るから失敗すんだ。コツが掴めりゃ難しくねえ。テメエ、運動神経はいいんだからよ。」
「‥‥う‥うん‥‥。」
長身がひょいと折れ曲がり、地面から何かを拾い上げる。
ゼルのバッグに入っていたはずの教科書だった。
転んだはずみに、そこまで飛んでしまったらしい。
サイファーはつかつかと歩み寄り教科書を付き出すと、つっけんどんに顎をしゃくった。
「おら。道草くってねえで帰るぞ。」
「うん‥‥。」
どぎまぎと受け取り、バッグを担ぎ直して、歩き出したサイファーに慌てて続く。

今日も、サイファーは独りだった。
恐らく空き地で皆と別れて、帰路につく途中だったのだろう。
身長差のせいで間尺の合わないサイファーの歩調を小走りに追いかけながら、ゼルは急に気恥ずかしくなった。
昨日のことを、まざまざと思い出したからだ。

なぜ、サイファーはあんなことをしたのだろう。
疑問は喉元までせりあがるけれど出て来ない。
直接言葉で尋ねても、なぜか鼻で笑われそうな気がする。
というより、きいてはいけない事のような気もする。
悶々とした逡巡が、知らず知らずの内に溜息となって漏れてしまったのだろう。
突然、サイファーが足を止めて振り返った。
「なんだ。ぶつぶつ言いやがって。」
「‥‥あ‥‥いや、その。」
不審に眉をしかめているサイファーの顔をまともに見られず、ゼルは咄嗟に顔を背けた。
「き‥‥のうのコト‥。」
「昨日? ああ‥‥幽霊列車か。」
サイファーは拍子抜けしたような声を洩らした。
「ま、ウワサなんて結局あんなもんだろ。」
「‥‥。」
「ハイネらも今度は納得したんじゃねえか。目撃者が二人もいんだからよ。」
違う、そのこと、じゃなくて。
思わず口を開きかかるが、やっぱり言葉は出てこない。
だがサイファーはそんなゼルにお構いなしに再び前を向くと、どこか上の空な調子で呟いた。
「あれがどっから来てどこへ行く列車か、興味ねえこともねえけどな。」
「‥‥あ。」

──あの列車に乗ってみよう。
そう言った、ハイネの提案を思い出した。
けれども同時に、誰にも内緒だ、と念を押された事も頭をよぎる。
再びサイファーが振り返った。
「どうした。」
「い、いいや、なんでもねえ。」
ゼルは慌ただしく頭を振った。
気が付けば、家の前まで辿り着いていた。
サイファーは、じゃあな、とゼルの額を小突くと、さっさと我が家のポーチをのぼっていってしまった。
後に残されたゼルは曖昧に頷き、その大人びた背中を見送った。
夏の夕方特有の、けだるい熱気が鼻先を掠め、喉を焼く。
小突かれた額の、くすぐったいようなしびれたような感触だけが、いつまでもいつまでも消えなかった。

To be continued.
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