夕暮れ(5)
5
地下通路にいるのかもしれない、と言い出したのはサイファーだったらしい。
陽が暮れてもゼルが戻らないのを心配した母親は、真っ先に向かいの家に行き、ゼルの行き先を知らないか、とサイファーに尋ねた。
サイファーはすぐさま家を飛び出し、蒼い顔をしたハイネとピンツを引っ張ってきた。
二人は、以前からの計画で幽霊列車に乗るつもりだったこと、駅でゼルとはぐれてしまった事をつっかえつっかえ打ち明けた。
二人で方々を探したがゼルの姿は見つからず、いつもの場所で蒼い顔を突き合わせて大人に相談するべきかどうか揉めているところに、サイファーが飛び込んできたのだ、と。
たちまち、学校やら近所やらを巻き込んでの大騒ぎになった。
駅を中心に手分けしての捜索が始まったが、陽が暮れ、夜の帳が降りてもゼルの姿はどこにも見当たらなかった。
やがて夜が更け、ハイネやピンツら子供達は家に帰され、大人たちだけで捜索は続いた。
だがサイファーだけは、頑として帰ろうとしなかった。
それどころか、ゼルは地下通路に迷い込んだのかもしれないと言い出したのだ。
確かに他に探していないところといったらそこぐらいしかなかった。
けれども、地下通路内の構造は極めて複雑である。
無闇に踏み込むのは大人でも危ない。
こうなったら救命隊を呼ぼう、と皆は話し合った。
ところが、そんな大人達を尻目に、サイファーはさっさと独りで地下通路に飛び込んでいってしまったのだという。
「気付いた時には、もういなかったのよ。」
そう言って、母親はなぜか申し訳なさそうな顔をした。
どうしてサイファーが助けに来たのか、なぜ地下通路に居ると解ったのか。
朝日が差し込む窓際のベッドで、朝食を運んできた母に問いかけると、母は事の次第を丁寧に教えてくれた。
サイファーにはお世話になりっぱなしね、と母は小さく笑い、毛布の上からゼルの肩をとんとんと叩いた。
「今日は大人しく寝ているのよ。母さん、学校にお礼に行ってくるから。」
頷くと、母は手を振って部屋を出ていった。
昨夜、家に戻った時には日付が変わっていた。
倒れ込むようにベッドで眠りについたが、夜中に息苦しさで何度も目が覚めた。
どうやら熱が出たらしく、何度目かにぼんやりと覚醒した時には、傍らに心配そうな母親の顔があった。
今朝はだいぶ楽になったけれど、まだ頭がぼんやりしていて、体もだるい。
ゼルはそろそろと毛布の中を探った。
眠りにつく時、頑なに握りしめていたものは、脇腹のすぐ横にあった。
引っ張りだして、つくづく眺め、黒いニット地の編み目を指先で撫でる。
ふと時計を見遣ると、いつもならそろそろ家を出る時間だった。
ゼルは注意深く起き上がり、窓枠に寄り掛かった。
柔らかい朝の陽射しの中、向かいの家に人の気配はない。
何となくがっかりして俯いた、ちょうどその時、階下のドアが開いて長身の少年が外へと出てきた。
はっと身を乗り出し、はずみでガラスに額をぶつけた。
鈍痛に眉をしかめている間に、サイファーはさっさとポーチを降りて、角の方へと歩いていく。
なんだか微かな違和感があった。
ああ、そうか。
いつもの、ニット帽がないからだ。
思わず、掌の中のそれを固く握る。
短く刈り込んだ黄金色の髪は、朝日を跳ね返して、それ自体が太陽のように眩しく美しい。
まっすぐ背筋を伸ばし、前を見据えて歩いていく大人びた後ろ姿は、帽子が無い事を除けばまったくいつもと変わらなかった。
ゼルは何故だか、ほっとした。
そして、柔らかな生地をしっかりと胸に押し付けると、窓を離れて再び毛布にもぐりこんだ。
空腹で目が覚めたのは、午後も遅い時間だった。
昼食もベッドでとったはずなのに、ただ寝ているだけでなんで腹が減るんだろう。
つまらない事を考えていると、階下から誰かが上がってくる足音がする。
ゼルは起き上がり、母さん何か食うもんねえ?と催促するつもりで、ドアが開くのを待った。
だが、無造作にドアが開くと同時に、ゼルは声を飲み込んだ。
そこに立っていたのは、母親ではなく。
不機嫌そうに唇を引き結んだ、サイファーだった。
兄弟同然の扱いを受けているサイファーが、いきなり無断で部屋に上がりこんでくるのは、別段珍しい事ではない──いや、なかった。
数年前までは、ごく普通の、頻繁に見られる光景だった。
それが、いつの間にか時々、になり、たまに、になり。
ここ数カ月は、こうして部屋でサイファーの顔を見ることなど、ついぞなくなってしまっていた。
どぎまぎと戸惑っていると、サイファーはドアを後ろ手に閉め、仏頂面のままつかつか近付いてきた。
長身が、何の断りもなく傍らの椅子にどっかと腰を下ろす。
「熱あんのか。」
「う、うん‥‥ちっとだけ。」
ふん、と鼻白んで、サイファーは肩に下げていたショルダーを降ろした。
「ハイネとピンツも休んでたぜ。」
「え、ハイネ達も具合悪いのか?」
「ああ。ロクサスとオレットが様子見に行くっつってた。」
「そ、そなんだ。」
ゼルは鼻先に皺を寄せた。
みんな揃って、休みだなんて。
熱が出たのは、ゆうべ、体を冷やしてしまったからだと思っていたけれど。
ハイネ達も具合が悪いということは、もしかしたらあの変な騒ぎに巻き込まれたことが関係しているのかもしれない。
そういえば、あの駅での騒ぎについては、母親は何も言っていなかった。
奇妙な恐ろしい生き物のことも、謎の男のことも。
街を上げての大事件になってもおかしくないはずの出来事だったのに。
「‥‥昨日‥‥」
「あ?」
「昨日のあの騒ぎ、あれからどうなったんだろ‥‥。」
「騒ぎ?」
サイファーは眉を顰めた。
眉間の傷跡が俄に深くなる。
幼い頃、海水浴に行った先で、どこの誰とも知らない子供と喧嘩して出来た傷だ。
「騒ぎってなんだ。」
「だから‥‥幽霊列車に乗ろうとして、駅に行ったら。‥‥変な奴らに襲われそうになって。」
不審もあらわなサイファーの表情に、灰色の不安が胸に広がるのを覚え、ゼルは唾を飲み込んだ。
「駅中、大騒ぎんなってて。逃げようとしたら‥‥知らねえ男に捕まりそうんなったんだ、そんで。」
「変な奴らってなんだ。」
「そ、それは。」
思わず、言葉につまる。
「アレは‥‥何ていうか‥‥アレは‥‥説明できねえよ‥‥。」
説明のしようが、ない。
あんな、人なのかそうでないのかも解らない代物を、一体どう話せと言うのか。
唯一説明できるとすれば、あの黒衣を纏った紅い髪の男のことぐらいだ。
人の顔をし、人の言葉を喋ったのだから、あの男だけは一応ヒトではあるに違いない。
けれども、あの男にしたって訳が解らないのは同じことだった。
「‥‥そういや‥‥なんか、ロクサスのこと、聞かれた‥‥。」
「ロクサス? なんで。」
「知らねえ。」
混乱したまま首を振ると、サイファーはますます渋面を作った。
そして、二呼吸分くらいの間を置いてから、深い溜め息をついた。
「‥‥そんな奴らがいたなんて、俺は聞いてねえ。」
「え。」
ゼルはぽかんとして、強張ったサイファーの顔を見つめた。
低い声が、囁くように、ゆっくりと諭す。
「駅で列車に乗ろうとして、気付いたらテメエがいなかった。あいつらが言ったのはそれだけだ。そんな妙な騒ぎがあったっつう話も聞いてねえ。‥‥テメエ。熱のせいで夢とごっちゃんなってんじゃねえのか。」
「なっ、夢じゃねえよ、あれは!」
咄嗟にサイファーの肘を捉え、ゼルはゆさゆさと揺さぶった。
「信じてくれよ、本当なんだ! ホントに見たんだよ!」
「‥‥。」
サイファーはゼルの顔を覗き込んだまま、しばらく黙っていた。
間近に迫った生真面目な顔につられ、つい、ゼルも口を噤む。
規則的に頬を撫でるサイファーの呼吸に、なぜか胸がどきどきした。
一旦引いた熱がぶり返したのか、額や耳朶が、にわかに熱く火照り出す。
やがてサイファーは、解った、と擦れ声で呟いた。
同時に大きな掌が両頬を包み込んだかと思うと、頭ごと引き寄せられる。
ゼルは硬直した。
唐突過ぎて、身構える暇もなかった。
重なった唇は柔らかく、そして冷たく、熱を帯びた唇にふわりと心地よかった。
かさかさに乾いた口唇をそっと潤され、二、三度口角を啄まれ、繰り返し下唇を吸われる。
頭の中が真っ白になって、くらくらと目がくらんだ。
体の芯で弾けた何かが血流に乗って、ものすごい速さで全身を駆け巡る。
さらに潤んだ舌先は、熱っぽく歯列の隙間を探り、より深く滑り込もうとしてきた。
反射的にぎょっと肩を竦めたゼルは、そこでようやく我に返り、慌ててサイファーの肩を押し返した。
サイファーは、あっさりと顎を引いた。
それ以上、別に強制する様子も無理強いする様子もなかった。
ただ、腕を延べ、いつも通りの不機嫌そうな仕種で、無造作にゼルの髪を掻き回す。
その指先に促され、ゼルはやっとの思いで言葉を振り絞った。
「サ‥‥イファー。なん‥‥で?」
「‥‥さあな。俺にも解らねえ。」
落ち着いた口調が静かに答える。
「わ‥‥からねえって。でも、こんな‥‥」
「こうしてえからこうした、ただそれだけだ。してえことをするのに、理由が必要か?」
──それは。
どう、なんだろう。
困惑に声を詰まらせていると、サイファーはゆっくり首を振った。
「‥‥はっきりさせる必要なんかねえ。解んねえままでいい事だってあんだろ。」
「え‥‥?」
「ココに、従うんだよ。」
と、掌で自分の胸元を押さえ、サイファーはきっぱりと言い放った。
「理由とか理屈じゃねえ。ただココで、そうしてえと思ったらオレはそうする。」
「‥‥ココ‥‥?」
思わず自分も胸を押さえると、翠色の瞳が頷いた。
大きな掌が、少しだけ乱暴にゼルの頬を撫でる。
「従うべきは、誰かとか何かとかじゃねえ、自分自身だ。ソコで感じた事だけ、信じてりゃいいんだよ。だから。」
とサイファーは一旦言葉を区切った。
珍しく言葉を選んでいる風だった。
「だから‥‥テメエの見た妙なモノだって、」
「‥‥うん。」
「テメエ自身が本当に見たってソコで思えるんなら、それは見たんだ。」
低く耳に滑り込んでくる声。
全身にくまなく行き渡り、内側から満たされるような、温かさ。
ゼルは震える息を吐き、こくりと深く頷いた。
「‥‥見たよ。絶対に、見た。」
「なら。そんでいいじゃねえか。な?」
「うん。」
半ば気圧される格好で同意しながら、けれどもゼルは不思議な安堵に包まれていた。
目の前にあるサイファーの顔は、笑ってこそいないけれど、なんだかとても優しく見えた。
窓の外は燃え上がるような夕焼け空で、部屋の中は、すべてがレンジ色に染まっている。
濃い陰を刻む彫りの深い顔立ち、黄金色の髪、たった今触れたばかりの薄い唇。
橙色に照り映える何もかもが、うっとりするほど綺麗で、眩しくて。
ゼルは、少しだけ恥ずかしくなった。
「あ。サイ‥‥ファー、これ。」
ぎこちなく俯き、毛布の下から黒いニット帽を引っ張りだしてそっと差し出す。
「その。昨日、あんがと。」
「ああ。」
サイファーは不意に仏頂面に戻って、帽子を受け取った。
昨日の苛立ちを思い出したのだろうか、憮然とした口元が僅かに歪む。
ゼルは慌ててサイファーの腕を掴んだ。
「ほっ‥‥ホント、ごめんな? 心配かけちまったのは謝るから。もう、バカな真似しねえから。」
だから。
だから、そんな顔をしないで欲しい。
祈るような気持ちで、ゆらゆらとサイファーの腕を揺さぶる。
するとサイファーは、静かに息を吐き、たりめえだ、と言った。
「‥‥今度。勝手にいなくなったりしたら、許さねえ。」
穏やかだけれど力強く、言い含めるような声だった。
「テメエは、俺のそばにいろ。」
「うん。」
「何があっても‥‥絶対にだ。」
「うん。‥‥うん。」
「解ったな。絶対にだぞ。」
「うん、解った。」
他の人間に言われたなら、何を傲慢な、と腹を立てて当然の言葉なのに。
ゼルは素直に頷き、そして、頷きながらようやくぼんやりと解った気がした。
そう──そうなんだ。
これが、サイファーだから。
からかわれるのも、小突かれるのも、強引に振る舞われるのも。
助けに来てくれたのも──キスされるのも。
他でもない、サイファーだから、それだからオレは──。
「サイファー。」
「なんだ。」
「‥‥手え、繋いでいいか?」
「ああ?」
なんで、と言いたげに片眉が軽く吊り上がる。
確かに、ガキくせえと馬鹿にされても仕方ない、だけど。
「繋ぎてえ、から。」
消え入りそうに、ぼそりと囁いた。
サイファーは刹那目を見張り、それから小さく笑ってゼルの手を握ってくれた。
力強くて、冷たい掌。
満ちあふれる、もどかしいような思い、ほっとするぬくもり。
そうだ、この気持ちには、理由なんてきっといらない。
ただそばにいられるのなら、それでいい。
そしてこの手を握っていられる限り、オレは何も怖くない。
この先何があっても、どんなことが待ち受けていても、オレは必ず──幸せになれるから。
なんとなく、でも確かにそんな気がした。
窓の外で傾いた夕陽は、いつしか赤味を失って紫色に変わり、いずれ濃紺に紛れようとしている。
やがて訪れる夜の闇に不安げに息づく、街の景色を視界の隅に留めながら。
ゼルはいつしか、サイファーの手を、固く、強く握り返していた。
Fin.
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