夕暮れ(4)


4

どのぐらい時間が経ったのか。
頬を撫でる冷たい空気に瞼を開け、ゼルはしばしばと瞬いた。
薄暗い地下通路の壁にもたれて、いつの間にかうとうとしていたらしい。
あたりは相変わらず静まり返っていて、物音一つしなかった。
なんで、オレ、こんなところにいるんだろう。
ぼんやりともやのかかった頭をめぐらせ、徐々に記憶を手繰り寄せる。
そうだ──駅、だ。
駅でなんだか訳の解らないものを見て、知らない男に追い掛けられて、それで──。

ゼルは真っ青になり、勢いよく立ち上がった。
スニーカーが床を擦る音が、辺りに反響する。
今、何時だろう。
どう考えても、数時間は経っている。
おまけに、ここは一体どこだ?
地下通路の中なのは間違いないけれど、でも。
左右を見回すと、暗く沈んだ闇ばかりがぽっかり口を開けている。
どちらから来たのか、出口はどっちなのか。
無我夢中で奥へ奥へと進んできたせいで、完全に道を見失ってしまったのは火を見るより明らかだった。

トワイライトタウンの地下中に張り巡らされているこの地下通路は、実はまだ建設途中である。
数年前までは順調に工事が続いていたのだが、予算の都合とかで頓挫したままずっと放置されているのだ。
奥深いところはまだ電気も引かれていない上に、迷路のように入り組んでいて、大人でも一度迷い込んだら出るのは容易ではない。
そのため、完全に整備の終わっている一部の箇所を除いては全面的に立入り禁止区域になっていた。
とはいえ禁じたところで、ここを格好の遊び場にするワルガキどもは後を絶たない。
そして決まって一年に二、三度は、中で迷ってしまった子供の救出騒ぎが起きるのだ。

だが、騒ぎになるだけまだましだった。
今のゼルの状況は、最悪と言っていい。
なぜなら、ゼルがここにいることを、一切誰も知らないからだ。
今が何時かは解らないけれど、もうだいぶ遅い時間には違いない。
ハイネやピンツは、ゼルとはぐれたことに気付いて慌てただろうし、こんな時間になっても戻らないのだから母親だって心配しているはずだ。
けれど、よもやゼルがここで迷子になっているなんて、想像もしていないに違いない。
探すにしても、きっと見当違いなところを探しているだろう。

ゼルは俄に震えだした。
ひしひしと押し寄せる夜気が冷たい上に、体の芯から溢れ出した不安が抑えきれなくなった。
もしこのまま誰も助けに来てくれなかったら。
誰も見つけてくれなかったら。
パニックで目の前が暗くなり、めまいがして、再び膝を抱えてうずくまった。
いや、駄目だ。
慌てちゃ駄目だ、とにかく落ち着こう。
努めて深呼吸を繰り返し、両掌で何度も自分の頬を叩く。
とにかく、朝になるまで待ってみよう。
辺りは確かに暗いけれど、真っ暗闇ではない。
という事はどこかに外光が入ってきている箇所があるという事だ。
夜が明けて陽がさせば、ここももっと明るくなるだろうし、出口も解るかもしれない。
大丈夫、バッグにはペットボトルや食べ物も入ってる。
一晩ここで過ごすくらいなら、何とかなる。

僅かながらもどうにか冷静になって、そういえば、とゼルは思い出した。
小さい時、ちょうどこれと似たような状況で迷子になった事がある。
あの時はこんな奥深い、立入り禁止の地下通路ではなくて、この地下通路から住宅街に繋がっているトンネルの中だったが。
まだ幼くて、何かにつけサイファーの後ばかりくっつき歩いていた頃のことだ。
トンネル前の広場で、サイファーを始め皆はスケボーに興じていた。
ゼルは仲間に入れてもらえずに、道端で暇を持て余していた。
その時ふと、横でぽっかりと口を開けているトンネルに興味をそそられた。
退屈もしていたし、俄に疼いた好奇心にも抗えず、ついふらふらと足を踏み入れてみた。
そして、五分ほど進んだところで、怖くなった。
曲がったのはほんの二、三か所だったし、落ち着いて考えれば戻るのは容易だったかもしれない。
だが、恐怖のあまりパニックに陥ったゼルは、そのまま一歩も動けなくなってしまったのだ。
そこへ──サイファーが、助けに来た。
ゼルの姿を見つけるなり、息を弾ませ駆け寄ったサイファーは、何やってんだバカ、と怒鳴りつけた。
本気で心配してくれたのだろう、大人びた綺麗な顔が血の気を失って真っ白になっていた。
その顔を見るなり、ゼルは声を上げて泣いた。
サイファーに抱きかかえられるようにして表に出てからも、泣き続けた。
怖かったから、というのももちろんあったけれども。
他でもないサイファーが助けに来てくれたことが嬉しくて、涙が止まらなかった。

サイファーに。
会いてえなあ、と思った。
やっぱりサイファーに言えば良かった。
幽霊列車に乗って知らない街を見に行くのだ、と、せめてサイファーにだけは告げておけばよかった。
もし告げていたらサイファーはどんな反応を示しただろう。
引き止められただろうか、止められなかっただろうか。
サイファーに引き止められていたら、オレは‥‥諦めていたんだろうか。

押し付けた背中から、コンクリートの冷たさがじわりと染み込んでくる。
心細さで、泣きたくなってきた。
遠くで、微かに何かが軽く壁を叩くような音がした。
小動物でも住み着いているのかもしれない。
それとも猫でも迷いこんだのだろうか。
無意識に聴覚を尖らせた耳に、今度は立て続けに、こつこつ、とそれは聞こえた。
はっとして顔を上げると、その音は間隔を狭めながら徐々に近付いてくる。
気のせいではない。壁を叩いている音でもない。
あれは‥‥人間の足音だ。

ゼルは咄嗟に跳ね起きた。
勢い余った踵が耳障りな甲高い摩擦音を立てて、足音がかき消される。
同時に、また別の音が空気を揺るがせた。
遠過ぎる上に反響してはっきりとは聞き取れないが、明らかに人の声だ。
ゼルは思わず声を上げて応えようとしたが、寸前で慌てて口を塞ぎ、躊躇した。
もしや、あの男が追ってきたのではないか。
あの紅い髪の、黒衣をまとった、冷たい目をしたあの男。
だとしたら、逃げなくてはならない。
男の背後に湧いた、あの気味の悪いブラックホール。
あれは間違いなくあの男が呼んだものだ。
つかまったら多分、あの中に連れていかれてしまうに違いない。
ぎゅっと握った拳の中に、冷たい汗が滲みだす。
どくどくと早鐘を打ち出す心臓を庇い、ゼルは身構えた。
だが。

「ゼル!いるのか!!」

辺りを切り裂くような鋭い声が、さっきよりもずっと近いところから聞こえて、ゼルは瞬時に構えを解いた。
どっと安堵が押し寄せ、緊張しきっていた神経の糸がいっぺんに緩む。
「‥‥サイファー。‥‥サイファー!」
夢中で名を呼ぶと、足音は一瞬ぴたりとやんだ。
次の刹那、慌ただしくコンクリートを蹴る音があちこちの壁に跳ね返り、左側の視界の果てに白い人影が現れる。
ゼルは、なりふり構わず駆け寄った。
途中何かにつまづき、派手に転んだ。
鈍い衝撃から一瞬遅れて、掌と膝を激痛が駆け抜ける。
呻きもがいて立ち上がろうとしていると、強引に襟首を掴まれ、引き起こされた。

「何やってんだバカ野郎!!」
サイファーの第一声は、それだった。
「どんだけ探したと思ってんだ! このクソチキンが!!」
怒り狂った狼の咆哮のような怒声が、容赦なくゼルに降りかかる。
つきつけられた蒼白な顔と、引きつった薄い口許。
深い眼窩では、翠色の瞳が怒りと苛立ちに燃えていた。
「サ‥‥」
「ふざけた真似してんじゃねえ! いらねえ心配かけやがって!!」
がくがくと揺さぶられて舌を噛みそうになり、声も出ない。
おまけに力任せに抱き締められて、呼吸まで止まりそうになる。
息苦しさにもがくゼルをがっちりと抱え込んだまま、サイファーはしばし深呼吸を繰り返し、やがてぼそりと呟いた。
「‥‥勝手なこと、すんじゃねえ。‥‥俺が一緒に行ってやるっつったろ。」
何かの痛みに耐えるような、低く、押し殺した声色だった。
少しだけ腕の力が緩まって、ようやくゼルは息を吐き出す。
「‥‥ご‥‥めん‥‥。」
自然と、声が潤んだ。
目頭がじわじわ熱くなり、視界がぼやけてくる。
「言‥‥おうと思ったけど‥‥内緒で‥‥言えなくて‥‥。 ワリい。ホント、ごめん。」
「もう、いい。」
サイファーは深いため息と共に首を振り、くしゃくしゃとゼルの髪を掻き回した。
「帰るぞ。」
「‥‥うん。」
頷いた拍子に、ふるりとゼルは身震いした。
急に、体の芯まで染み込んでいた寒さが蘇った。
「寒いのか。」
「う‥‥ん。」
サイファーは僅かに眉をひそめると、おもむろに自分の黒いニット帽をむしり取り、無造作にゼルに被せた。
「これで我慢しろ。」
目深に引き下ろしてから額までずり上げ、つっけんどんに言い放つ。
そして乱暴にゼルの肘を掴み、引っ張るようにしてサイファーは歩き出した。

完全に方向を見失っていたゼルに対し、サイファーはちゃんと来た道を覚えているようだった。
ろくに視界のきかない薄闇の中でも何ら躊躇することなく、コンクリートの壁を右に左に折れ、勾配や階段を昇り降りしていく。
途中、少し通路が狭くなるところがあって、サイファーが腕を離した。
慌てて咄嗟に縋り付くと、サイファーは呆れ顔になりながらも手を繋いでくれた。
サイファーの掌は、大きくて、冷たかった。
そういえば、こんな風に手を繋ぐなんて何年ぶりだろう。
幼い頃はよく繋いでいたような気がするのに。

「出口だ。」
短く告げて、サイファーは強くゼルの手を引いた。
顔を上げると、十メートルばかり先に見覚えのある空間がぽっかり口を開けていた。
そこには微かに人の気配がした。
近付くにつれ気配はいっそう濃くなり、不安げに交されている人々の声が次第に大きくなる。

「ゼル! やっぱりここだったの!!」
外へ出るや否や、走り寄った母親が飛びかかるように抱きついてきた。
一歩遅れて、たちまち人垣がゼルを取り囲んだ。
近所の叔父さんや学校の担任や、見覚えのある大人たちの顔が並んでいた。
良かったなあ、無事で本当に良かった、と彼らは口々に頷きあい、母親はゼルを抱いたまま嗚咽を洩らした。
「大丈夫? 怪我はない?」
涙ながらに何度もゼルの頬を撫でる母に、大丈夫だよと頷きながら、ゼルもつられて泣きそうになりなった。
今さらだけれど、助かったという安堵と皆に心配をかけたという罪悪感でいたたまれなくなった。
あのまま朝まであそこにいたら、どうなっていただろう。
もし、あのままサイファーが来てくれなかったら。

傍らのサイファーを仰ぎ見ようとして、ゼルははっとした。
サイファーの姿は、すでになかった。
慌てて辺りを見回したが、居並んでいるのは大人の顔ばかりだ。
もう一度母親に肩を抱き締められながら、ゼルはちくちくと痛む胸に顔を顰めた。
目深にかぶった帽子の縁をそっと引っ張り、母親の頭ごしに夜空を見上げる。
涙に滲む夜空は、透き通って晴れ渡り、まるでガラスの破片を撒いたように無数の星が輝いていた。

To be continued.
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