2/釣り
潮風は、身を切る程に冷たい。
陽射しが時折差してはいるものの、流れの早い雲はささやかな暖さえすぐに遮ってしまう。
年中を通して温暖な気候を誇るバラムといえども、2月となれば気温もぐっと下がるのだし、こうして潮風に吹かれながら釣り糸を垂らすには少しばかり無理がある季節かもしれなかった。
その証拠に、他に人陰は見当たらない。
時期が時期なら、肘も触れ合わんばかりの距離に釣り人がひしめく日もあるくらいのバラム港だというのに、だ。
しかしむしろそれだからこそ、彼にとってはお誂え向きとも言えた。
孤独に漫然と時間と潰すには、ここは絶好の場所だったからだ。
だから多少風が冷たかろうと、釣り糸に何もかからなかろうと、彼はここを動くつもりはなかった。
かれこれ、昼時になろうとしている頃だろう。
潮風に無防備にその頬を晒したまま、彼はもう3時間あまりもそこに居座っているのだった。
最近、週末となるとこんな暇つぶしに時間を費やす事が多くなった。
以前のようにティンバーの繁華街に繰り出したり、夜通し馬鹿騒ぎをしたりする方法もあるはずなのに、自然と孤独な時間を過ごせる場所へと足が赴いてしまう。
風神や雷神はどこか具合でも悪いのかと気を揉むが、当然そんな心配は杞憂だし余計なお世話でさえある。
孤独を選ぶのは、別にたいした理由があるからではない。
ただ、週末くらいは。
あの事を、思い出さずにすむ場所にいたかった。
ガーデンと少しでも繋がりのある事柄や連中は、すべて遠ざけたかった。
なぜならそれらはあまねくあの事を---ヤツの事を連想させるからだ。
ここ数週間の、彼にとってガーデンでの日常は焦燥と苛立ちの連続だった。
ヤツの小柄な背中が視界に入るたび、屈託のない笑い声が耳に入るたびに、意味もなく気持ちが昂ってやり切れない思いに悩まされた。
授業前の教室の片隅や、休憩時間の廊下の途中や、昼時の食堂の入口で、それらは時も場所も選ばず、否応無しに彼に襲い掛かって彼を苛んだ。
だが、ついこの間までは、それ程までに切羽詰まってはいなかったはずだった。
ヤツの姿に妖しい衝動を覚えようとも、そんな邪念は理性と意地で無理矢理胸中奥深くに閉塞する事ができていた。
それがなぜ、制御できないまでになってしまったのか。理由は言わずと知れている。
あの‥‥夕焼けの校庭での、あの‥‥。
彼は眉をひそめ、釣り竿を握る拳に思わず力を込めた。
馬鹿馬鹿しい。
その事を考えずに済むようにと孤独を選んでいるくせに、結局その事を考えている。
己の矛盾に唇を歪め、大きく舌打ちした、その時だった。
「なんだ、アンタかよ。」
突然の背後からの声に、彼は仰天した。
最初は、幻聴だと思った。
物思いに耽っていたとはいえ背後に近付いた気配がまったく読めなかったし、ましてやたった今思いを巡らせていた当の本人の声が、こんなところで聞こえるはずがないと思ったからだ。
だが。
「こんな寒空で釣りしてる物好きがいると思ったらよ。」
御丁寧にも、そのイントネーションさえそっくりそのままな幻聴に、彼はまさかと振り返り。
それが幻聴でなく、まぎれもない現実だと知って、呆然とした。
「? なんだよ。声、かけてまずかった?」
少し不満げな声で、ゼルは眉をしかめ、小さく首を傾げた。
絶句しているサイファーの顔が、どうやら不機嫌そのものの仏頂面に見えたらしい。
「‥‥なんでここに、いる。」
やっとの思いで声を絞り出すと、ゼルはああ、と頬を緩めた。
「だってここ、オレの実家だもん。週末はけっこう帰ってきてるんだぜ。」
つかつかとサイファーの傍らに来ると、なぜか得意げにサイファーを見下ろす。
「実家?」
「そ、オレの家。」
後方の何処かを手で示してから、きょろきょろとの周囲を窺い、そして再びサイファーの手許を矯めつ眇めつする。
相変わらず、落ち着きのない野郎だ。
邂逅の衝撃を残しつつも、つい苦笑が漏れる。
すると今度はまたじりじりと、あの灼けるような思いが沸き起こってくる。
しかしゼルは、そんなサイファーの心中など慮る様子もない。
「なあ、もしかして収穫ゼロ?」
「‥‥っせえな。」
「いつからここにいんだ?」
「テメエにゃ関係ねえだろ。」
「もしかして朝からかよ。」
「ほっとけ。」
「寒くねえの?」
しつけえな、と低く反駁すると、ゼルは困ったように眉根を寄せた。
「体壊すぜ。んな寒空の下でよお。」
「んな、ヤワじゃねえ。テメエと一緒にすんな。」
「ちぇ。」
ゼルは鼻先に皺を寄せつつ、ひょいとその場に腰を下ろした。
どういうつもりか、ここに居座るらしい。
おかげで、サイファーの焼け付くような焦燥ともどかしさはますます煽られる格好になった。
釣り竿を支え続ける掌が今にも震え出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
なぜ、無防備に近付く?
なぜ、無遠慮に声をかけてくる?
気まずさとか躊躇とか、そういう感情がこいつにはねえのか?
その表情から真意を読み取ろうとするも、顔を見ればますます己が混乱するだけのように思えて、できるだけゼルの顔が視界に入らぬよう、あらぬ方を見る。
が、ゼルはまったく意に介さぬ様子で呑気に話し掛けてくる。
「あ、なあなあ。この前、ホントあんがとな。」
「‥この前?」
「『格闘王』。すげえ助かった。」
「‥‥ああ‥‥。」
サイファーは眉をひそめた。
この上、あの放課後の事まで、敢えて思い出させようというのか。
一体何を考えている?
傍らで太平に胡座をかいたゼルの気配が、痛い程に肌に突き刺さる。
残酷なまでに無邪気で屈託のない声が、耳朶を焼き脳内を掻き乱す。
「なあ、なんでアンタ、持ってたんだ?いっつも売り切れでなかなか手に入んねえのによ。もしかして毎月あれ読んでんのか?」
「‥‥いや。」
「んじゃ、なんで?」
あくまで詮索するつもりか。
詮索したいのはこっちの方だというのに。
サイファーは、大仰に溜息をついた。
「‥‥雷神のだ。」
「え。」
そう、あの雑誌を毎月購読しているのは、雷神である。
あの時も、もしやと思って雷神にあたった所案の定購入していたので、適当な理由をつけて拝借‥‥いや、巻き上げたのだ。
「え、じゃあオレが貰っちまったらまずいんじゃねえの?」
「構わん。」
「構わなくねえよ!雷神にワリいじゃんか。」
どうやら、本気で言っているらしい。
サイファーは半ばうんざりしながら、とうとうゼルを振り返った。
「構わんと言ったらかまわ‥‥」
ぎょっとして、絶句した。
鼻先も触れんばかりの位置に、ゼルの顔があったのだ。
時間が止まったのではないかと思った。
凍り付いたサイファーの顔を覗き込んだまま、ゼルもまた動かない。
ざわざわと波がさざめき、潮風が髪を嬲る。
日溜まりと日陰が忙しなく入れ代わりながら、二人の上を通り過ぎて行く。
「‥‥ひいてる、ぜ。」
ぼそ、とゼルが呟いた。
掌中の釣り竿に、ぴくぴくと振動が伝わってきている。
だが、サイファーは釣り竿の先など目もくれず、まっすぐに蒼い瞳を覗き込んだままでいた。
「‥‥テメエ。俺をどう思ってる。」
「‥‥。」
「どういうつもりで‥‥ああした?」
「‥‥。」
「俺の気持ちをわかっててやってんのか?」
「‥‥さあね。」
表情は変わらぬまま、唇だけが小さく動く。
手許に感じていた、釣り竿の脈動が止んだ。
どうやら獲物は逃げおおせたらしい。
だが、もうそんな事はどうでもよくなっていた。
いや、最初からどうでもよかったのだ。
ゼルが、ここに現れた時から。
「‥どうなっても知らねえぞ。」
「なにが?」
サイファーは目を眇めると、ただでさえ間近にあるゼルの顔を一層深く覗き込んだ。
鼻先がちり、と触れる。
「目の前に美味そうな餌がぶら下がってたら‥‥食い付かねえ手はねえ。」
「罠かもしれねえぜ?」
ゼルはにっと犬歯を見せた。
滑らかな頬をくっきりと彩る漆黒のトライバルが、つられて微かに吊り上がる。
「食い付いた餌には針がくっついてるかもしんねえじゃん。」
「この上ねえ極上の餌を目の前にして。」
サイファーは釣り竿を放り出すと、両手でゼルの肩を掴んだ。
竿が、乾いた音をたててコンクリートの地べたに転がる。
「んなこと、考えてる暇あると思うか?」
ゼルは、逃げない。
どこかからかうような色さえ浮かべた蒼い瞳で、サイファーを見つめ続けている。
「食い付く気かよ?」
「‥‥針ごと噛み砕いてやらあ。」
そのままゆっくり唇を重ねても、ゼルは微動だにしなかった。
この展開をまるで予測していたのかのように、ただじっとしている。
反応のないゼルに、サイファーは俄に激情を掻き立てられた。
胸中に燻っていたモノが一気に吹き上がり、目も眩む火花となって爆発して、理性を吹き飛ばした。
自制する暇も、止める間もなかった。
のしかかるようにして体重をかけると、冷たい地面にゼルの上体を押し倒した。
舌先で遮二無二唇をこじ開け、緩く引き結ばれた歯列を強引に割って唾液ごと吸い上げる。
両腕できつく小柄な体を抱き締めたまま、着衣の上から背中を、腹部を滅茶苦茶にまさぐった。
そして上着の裾に指先をかけ、乱暴に滑り込ませようとしたその時。
体の下で突然ゼルが身を捩った。
ふい、と頭を振って唇から逃れたかと思うと、たちまちするりとサイファーの腕から抜け出し、後ろ手に素早くにじり上がる。
突然虚空を抱き締める格好になったサイファーが愕然として顔を上げると、すでにゼルは手の届かぬ位置で、背筋をバネにひょいと飛び起きていた。
「待て、ってば。そこまで許しちゃいねえぜオレは!」
仄かに頬を紅潮させ、語尾も震えているが。
その蒼い瞳には、相変わらず悪戯をしかける子供のような色が残っている。
サイファーはその瞳を睨み返すと無言で立ち上がった。
ずいと一歩踏み込むと、目に見えぬ壁に押されたかのようにゼルもすいと一歩退く。
サイファーは忌々しさに大きく舌打ちしたが、ゼルは宥めるように小さく首を振った。
「アンタにはワリいけど‥‥。」
少し言葉を区切ってから、至って真面目な表情で呟く。
「オレ、あっさり食い付かれるつもりはねえぜ。」
潮風が、びゅうと音を立てて二人の間を吹き抜けた。
サイファーはゼルを睨み付けたまま、だらりと垂らした拳にゆっくり力をこめた。
「それは‥‥。」
一度暴走しかかった熱が、まだ全身のいたるところでじりじりと身を焦がしている。
胸中にうずまく気の狂いそうな思いを押さえ付けるのは、並み大抵の事ではない。
ようやく絞り出した声が震えるのを、低める事でかろうじて誤魔化す。
「宣戦布告か、ああ?」
ゼルは首を傾げてしばらく何かを考えるような仕種をしていた。
時間にすれば僅かだったのだろうが、サイファーには永遠とも思える長い沈黙を経て、やがてゼルはサイファーを見、海へと視線を転じ、それからもう一度サイファーを見てからやっと唇を開いた。
「‥‥いい加減、諦めた方がいいぜ。」
「なん‥‥だと?」
ぐらり、と世界が歪んだような目眩がサイファーを襲った。
諦めた方が‥‥だと?
全身から血の気が引き、冷たいモノが背筋を走り抜けた。
今さら、何を言ってる?
自分からさんざん煽るような真似をしておいて、諦めろ、だと?
握り込んだ拳が激情に戦き、怒りで声が震えた。
「貴様‥‥」
嘗めるにも程度がある。
そう呟こうとした言葉は、しかしあっさり遮られた。
「どうせ釣れねえんだろうし。ここ、寒いからよ。」
そう言って、ゼルが顎で示した先には転がった釣り竿がある。
「せっかくの休みに、風邪でもひいたらつまんねえだろ。」
サイファーは一気に毒気を抜かれた。
一方ゼルはサイファーの心中を知ってか知らずか、さて、と大きく伸びをした。
「んじゃオレは帰るぜ。アンタ、今日はバラムに泊まりかよ?」
「‥‥。」
咄嗟に言葉が出ず、ただ曖昧に頷く事しかできない。
「そっか。んじゃまたな。」
ぶんぶんと手を振って踵を返すと、一目散に街路めがけて走っていく。
本当に何ごともなかったかのように、すべては白昼夢に過ぎなかったかのように。
小さな背中は、容赦なく遠ざかっていく。
サイファーは目を細めた。
確かに、ここは寒すぎるかもしれない。
そんな事をぼんやりと思った。
他に何か思う事があるはずなのに、そこまで思考が至らない。
というより、至りたくなかった。
自分の心の内を覗き込むことや掘り下げることを、本能が拒否していた。
打ち捨てられた釣り竿の先で、浮きが何かに引っ掛かったのか、竿はコンクリートの上で乾いた摩擦音をたてる。
吹き付ける潮風は一向に止まず、目まぐるしく入れ代わる日向と日陰に視界がちらついて眩しい。
「‥‥どうせ釣れねえ、か。」
サイファーはしばらく海を眺めた後で、 そう独りごち、もう一度舌打ちをすると。
やがて愚鈍な仕種で、釣り具を片付け始めた。
To be continued.
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