10/再会
吹き抜ける風は、無邪気な夏の匂いがした。
ずっと昔に嗅いだ懐かしい匂いだった。
サイファーはゆっくり頭を巡らせて、遠く眼下にきらめく海を見た。
きっとこの匂いはあの海から漂ってくるに違いない。
砂浜をかけまわる裸足の裏を焼く砂の熱さと、膝を洗う波の冷たさ。
照りつける太陽と、波の音に混じって響く幼い歓声。
まるで昨日の事のように蘇る、遠いはずの記憶。
結局。
俺はあの頃から何も変わっていねえって事か。
サイファーは舌打ちをして再び目を転じると、はるか前方の虚空に浮かぶ、巨大な浮島のような影を睨みつけた。
魔女イデアがあの「ママ先生」だと知って以来、縺れ絡まった糸がするすると解け伸びていくように、失われていた子供の頃の記憶は次から次へと呼び起こされた。
しかし皮肉な事に蘇ってくるのは、今の自分の感情をなぞり再確認させられる記憶ばかりだった。
なぜ自分がゼルに惹かれたのか、こうも執着するのか。
記憶はその答えを与えてくれたが、同時にその感情から決して逃げられないという事実もまざまざと突きつけた。
いつも傍らにいた、幼い蒼い瞳。
小突き、虐げると、泣きながら食って掛かってきた小柄な体。
そのくせ何かあるたびに、こぼれんばかりの笑顔と共に真っ先にサイファーの名を呼んだ、無邪気な声。
(今さら、済んじまったことだ。)
サイファーは、もう何百回となく繰り返してきた台詞で、空転する思考を無理矢理収束させた。
今さら過去を反芻したところでどうなるものでもない。
前に進むためには、そんな過去は排斥する事だ。
そしてそれこそ、今サイファーに課せられている行動ではないか。
バラムガーデンを潰し、SeeDを壊滅すること。
それを命じたイデアの声の冷たさを、サイファーは生涯忘れないだろう。
「お前は、私を守る騎士になるのだ。」
すべての答えを与えてくれると言い放ったその唇で、イデアはそう告げた。
「私に従い私を守る事、それがお前の宿命であり唯一お前が救われる道。‥‥バラムガーデンを潰し、SeeDを抹殺しなさい。」
まったく抵抗がなかったと言えば、嘘になる。
達観しすべてを斜に見ているつもりでも、ガーデンは己が育った場所なのだ。
ましてそこには、あいつが‥‥すべての執着の源がいる。
しかしだからこそ、そうせねばならぬ、そうした感傷ごと全てを捨て去らねばならないのだ、とイデアは言った。
「あれらは私をおびやかす悪しき種。そして同時にお前が前に進む事を阻んでいる呪縛でもある。悪しき種を葬り去ってこそ、お前は始めて過去から解放される。」
俺に。
殺せ、というのか?
しかし逡巡するサイファーの問いに返ってきたのは、無表情なあのガラス玉の瞳だけだった。
はるか彼方にあると思われた浮島は、今や見なれた階層上の屋根を持つ巨大な建物となって眼前に迫っていた。
ふと背後に気配を感じ、サイファーは振り返った。
装甲に身を固めたパラ・トルーパー部隊長が立っている。
「突入準備完了だ。指示を待つ。」
そう告げた部隊長の顔は、その半分を装備で覆われている為に表情が読めない。
今回、バラムガーデンを壊滅させるべくこのガルバディアガーデンに配属されたパラ・トルーパー達は、ガルバディア国家直属の強襲部隊である。
ガルバディア国家自体がイデアの支配下に置かれた事で、彼らのリーダーはガルバディア政府からイデアへと変わったが、彼らはその事にいささかの疑問も抱いていないようだった。
なぜバラムガーデンを攻撃せねばならぬのか、魔女に従わねばならぬのか、抗議するものは愚か疑念を抱くものすらいない。
「魔女の騎士」と称する見ず知らずの若造が、突然指揮官となって自分達に横柄な命令を下す事にも、少なくとも表面上では誰独りとして異義を唱える者はいなかった。
それが、所詮軍隊だ。
上に立つものの駒のひとつに過ぎぬのだ。
意志や主義など必要ない、ただ唯々諾々と命令に従って動く事のみが要求される。それは、傭兵であるSeeDとて同じ事だ。
そんな駒に成り果てる事を、サイファーは頑に軽蔑してきた。
SeeDなんぞ糞食らえと突っぱねてきた。
だが。
サイファーは低く舌打ちをして、前方のバラムガーデンから視線を逸らした。
そういう自分だって、今の立場はどうだ。
魔女の騎士、そう言えば聞こえは良い。
しかし所詮は、イデアの命にただ従っているだけに過ぎない。
結局自分も、このパラ・トルーパーらとなんら変わりないのではないか。
イデアの手の内で弄ばれる駒のひとつに過ぎない、そう指摘されてしまったらそれは違うとどうして言い切れる?
(‥‥は。かまうこたあねえ。)
サイファーは邪念を振り払うように、踵を返した。
(俺はただ、解放されてえだけだ。)
この呪縛のような過去から、思いから、解放されるのなら。
駒にだってなんだってなってやる。
どうせ、前に進むための道は、もはやひとつしか残されていないのだから。
「正面から突っ込め。」
風の吹き抜けるデッキを後にしながら、サイファーは低く吐き捨てるように言った。
部隊長は無言のまま頷くと、踵を鳴らしてガルバディア式の敬礼を掲げた。
「‥‥来る。」
背後で、あの無表情な声が一言、そう呟いた。
ここに、スコールらが来る。イデアはそう言いたいのだろう。
マスタールームの中は静かで、外部に立ち篭めた火薬や粉塵の匂いとはすっぽり切り離されている。
サイファーはゆっくりハイペリオンを肩に掲げ、仁王立ちのまま黙っていた。
無言に徹する事で、思考を努めて制御していた。
「来たようだ。」
再びイデアが呟くと同時に、睨みつけていた正面のドアが静かにスライドした。
「サイファー。」
第一声を発したのは、スコールだった。
静かに険を含んだ青灰色の瞳がサイファーを見据えている。
この瞳とも、かつては熾烈な感情のやりとりをしたものだった。
不意に脳裏をよぎるそれらの日々に、サイファーは目を細める。
だがこの美しい仇敵の憂いを含んだ瞳も、あの蒼い瞳ほどに数多の情動を与えはしなかった。
---今、その蒼い瞳は。
スコールの影に隠れるようにして、立っていた。
よもやこんな形で再会の時を迎えるなどと想像だにしなかった、と言いたげに、ただ呆然と立ち尽くしてこちらを見ている。
サイファーは身を強ばらせ、呼吸をひそめた。
少しでも動けば、思い出してはならない感情が無数の埃のように舞い上がってしまいそうだった。
努めてスコールの顔だけを凝視して、唇を歪めてみせる。
語尾が震えないようにするだけで、精一杯だ。
「‥‥久しぶりに母校に行こうと思ってたのによ。」
「黙れ。」
「お前、ママ先生を倒しに来たのか?ガキの頃の恩は忘れたか?」
嘲るように語尾を上げると、スコールの眉がゆるやかに顰められた。
何かを訝しんでいるようにも、苦悩しているようにも見える。
花弁のような唇が言葉を選んで開きかかるが、そこに突然甲高い声が割って入った。
「サイファー!どうして、こんな‥‥。」
スコールを押し退けるようにして、リノアが身を乗り出す。
「違う!こんなの違うよ!ほんとのサイファーはこんなじゃなかった!1年前は‥‥」
泣き出しそうな顔で首を振り、懇願するようにサイファーを見つめている。
スコールがますます柳眉を寄せ、小声でリノア、と制した。
無闇にサイファーを刺激するなと言いたいのだろう。
しかしそんな気遣いは無用だった。
サイファーは何も感じていなかったからだ。
あまりにも無感動すぎるのでリノアに同情すら覚える程、その声にも視線にも何も感じる事が出来なかった。
かつてはそうでない時期もあった。
リノアの言うように一年前までは、こんな風に直接感情でぶつかってくる彼女に確かに幻想を見た事があった。
だがそれは所詮幻想に過ぎない。
幻想を追う事で、真実に直面する事から逃げていただけだ。
自分が本当に求めているものを頭の隅でははっきりとわかっていながら、それを認める事が憚られて、どうにか己の心を誤魔化そうとしていたのだ。
そしてそうした真実は、誤魔化し切れるものではないのが理だ。
事実押さえ付けようとすればするほど、その欲望は日に日に成長していき、結局サイファーはそれを認めるしかなくなった。
そう、俺が本当に‥‥本当に、欲しかったのは。
視界の隅に入っているその姿は、努めて見まいとしても、強烈な引力でもってサイファーの視線を惹きつける。
小柄な肩。あどけない鼻筋。
海よりも深い、蒼い色の瞳。
そして吸い寄せられるように一旦視線を向けてしまえば、今度はもう逸らす事が出来なくなった。
「‥‥よう、チキン野郎。」
掠れた声が、奇妙な余韻を残して狭いマスタールームに響き渡った。
たちまち、ゼルの瞳に緊張の色が浮かぶのがはっきりとわかる。
そう、この瞳だ。
あまりにも素直に露骨に感情を映し出す、この瞳。
「お前とは色々あったよなあ。」
言い含めるように呟くと、緊張の色が今度は狼狽と戸惑いとそして困惑の色に変わる。
まるで万華鏡のように、次々と感情が映し出されては消えて行く。
掴もうとしても捉えようとしても、次の瞬間にはまた別のきらめきに変わっている。
‥‥俺が、本当に欲しかったもの。
この、瞳。
途端に強烈な確信に襲われて、サイファーの心は凝固した。
ああ嘘だ。
イデアは。俺を救ってくれなどしない。
こんなにも忘れようと、断ち切ろうとしているのに、それは衰えるどころかますます強度を増し、鋼の鎖のように心を締めつけているではないか。
どうあっても、忘れられない。
何をしようと、捨て去れない。
たとえ死を賭けたとしても、これは決して拭い去る事ができないものなのだ。
そしてその確信と前後するようにして、今度はどす黒い絶望感がこみ上げた。
だが、だからといって、今さらどうしろというのだ。
戦うべき相手として対峙しているこの状況を、どう覆せというのだ。
状況は、加速してしまった車輪と同じで、今ここでストップをかけても止りはしない。
どんなにあがこうと喚こうと慣性に逆らえぬまま、周囲をなぎ倒しながらまっすぐに滑り進むしかないのだ。
もう遅い。遅すぎた。
車輪は暴走を始めてしまったのだから。
目まぐるしく飛び交う思念に視界がちらついて、まともに息ができない。
ゼルを見つめたまま一瞬後ずさった背中に、冷たい声が突き刺さる。
「断ち切りなさい。少年。」
無理だ。断ち切れない。
そんな事、できはしない。
同時に、前方でスコールが何かを言っている。
「‥‥ない。今のあんたはただの『敵』だ。あんたの言葉は、届かない。」
ああそうだ。俺の言葉など届くものか。
お前らに俺の何がわかるっていうんだ?
こんなのは茶番だと解っていながら、その茶番に身を投じる事しかできないこの俺の。
俺の、一体、何が。
ゼルの蒼い瞳が、静かにサイファーから逸らされた。
もうこれ以上意味はないと言いたいのか。
或いはもう耐えられないと言いたいのか。
いずれにしても、それが契機だった。
もはや戦うしかない。進むしか、ない。
この状況の中、それはサイファーだけではなく誰にとっても同じ事なのだ。
スコールにとっても、ゼルにとっても。
サイファーは顔を上げ、ハイペリオンで大きく空を薙ぎ払うと、その切っ先を真直ぐに構えた。
スコールも静かに背筋を伸ばし、ライオンハートのトリガーに指をかける。
背後で、イデアが静かに頷いた。
リノアは泣き出しそうな顔を背けて震えている。
「‥‥決着、つけてやる。」
危うい沈黙の中で。
独り言のように呟いたゼルの声が、福音のようにはっきりと響き渡った。
To be continued.
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