11/決戦


痛い。

今、ゼルははっきりとそれを、痛覚なのだと認識した。
ずっと胸の奥で燻るように息づき続けてきたその感覚、ひどく不快なのにそれを拭い去る方法も手段も解らなかったもの。
めまぐるしく変化する周囲の状況に流されている間だけは、忘れている事ができた。
けれど、間接的にしろ直接的にしろ、かの名前や存在を意識させられる状況に面するたびに、それは容赦なく沸き出てゼルの内部で暴れ回り、無数の傷を皮膚の裏側に刻んできた。

今、いざその当人を目の前にしてみてはっきりわかった。
この感覚は「痛み」なのだ。
ゼルはきりきりと締め付けるその「痛み」に歯を食いしばり、静かに拳を構えた。
傍らのスコールもまた、ライオンハートを構えたままじっとその男を見据えている。
ルナティックパンドラの制御室は、異様な緊張感が満ちていた。
あのガルバディアガーデンでの戦闘からまだ幾らも経っていないはずなのに、もう何年も経たかのような錯角を覚える。

「サイファー。」
スコールが、張り詰めた声で沈黙を破った。
「まだ騎士ごっこを続ける気か?」
ひたと据えられたライオンハートの照準の先で。
その男、サイファーの唇が不意に歪んだ。
「騎士は廃業だ。」
吐き捨てるようにそう言ってゆらりとハイペリオンを持ち上げるが、その仕草はどこか投げやりに見えた。
斜に構える長身にも殺気は感じられず、ただ倦み疲れて自暴自棄になった狼が無闇に虚勢を張っているようにしか思えない。
そんなサイファーの挙動ひとつひとつが、今、ゼルには痛くて堪らなかった。
サイファーが声を発するたびに、身動きひとつするたびに、容赦ない疝痛が胸を貫く。

痛い。
とても、痛い。
でもなぜ?
一体何が、こんなに痛いんだろう。

「なら、今のあんたは何だ。」
「さあ、なんだろうな。‥‥だが、もうそんなこたぁどうでもいいだろ。」
自嘲するように口端を吊り上げて、サイファーは肩を竦めた。
「俺はただ、止まっていたくねえ。走って、走り続けて。‥‥ゴールってやつを見てえだけだ。」
スコールは眉をひそめ、小さく嘆息した。
「‥‥止まれない、だけじゃないのか。」
「‥‥!」
ぴくり、とサイファーの片眉が吊り上がった。
薄い唇が何か言いたげに開いて、すぐにまた引き結ばれる。

ゼルははっとした。
この表情。
こんな表情をいつか見た事があった。
あれはいつだったろう。
押し寄せる波音。吹き抜ける潮風。靄がかった記憶の沼に、ぼんやりとした海の情景が浮かんでくる。
『‥‥自分でよくわかんねえんだ、やっぱ。』
傍らに横たわる端正な顔立ち、そこに降り注ぐ陽射し。
『好きかって言われたらやっぱ‥違うと思う。』
そう、あの時確か、オレはそう言った。
そうしたら、サイファーはあの顔をしたのだ。
何か言いたげな、けれど言うだけ無駄だと諦めてしまったようなあの表情を。
(‥‥本当は何が言いたかったんだよ、サイファー?)
きりきりと、痛い。胸が、とても。

「やめなさいよ、サイファー!」

甲高い声が、突如ゼルを現実に引き戻した。
いつのまにか前に進み出たリノアが、涙声でサイファーに向かって叫んでいた。
「もう気が済んだでしょ!もうやめて!あなたホントはそんな人じゃない!」
「黙れ!お前に何がわかる!」
激した声でサイファーは宙をなぎ払った。
「もう戻れねえんだよ。どこにも行けやしねえ。先に進むしかねえんだよ!」
「進んでも、あんたの向かってる先には何もない。」
本気で泣き始めたリノアを背中からそっと支えて、スコールは呟いた。
「それでも進むつもりなら。俺達はあんたを倒すしかない。」
「望むところだ。俺を殺せよ。」
またもや自嘲の笑みでサイファーは顎をしゃくった。
皮肉じみているけれど本気にしか聞こえないその声音に、ゼルの痛みはピークに達して弾けとんだ。

「‥‥サイファー。」
震え掠れた声が思わず漏れた。
傍らにいるスコールやリノアにさえ聞こえなかったであろう、小さな呟きだった。
なのになぜだろう。当のサイファーだけは弾かれたようにゼルを見た。
まっすぐに。すべてに追い詰められたような、翠色の瞳で。

ああこの瞳だ、とゼルは思った。
口先の悪態や邪険な態度と裏腹に、この瞳だけは、いつだって何かを思いつめたように真摯にゼルを見つめていた。
あれ以来自分は、この瞳を必死で忘れようとしてきた。
すべては無かった事だと思い込もうとした。
けれど。
どうやっても、忘れられなかった。
忘れようとすればするほど、より深い痛みに胸を抉られ、懊悩し続けてきた。
----当然だ、忘れられるはずがない。‥‥だって、オレは‥‥。
(オレは。)
痛みに弾け飛んでぽっかりと空洞になってしまった心に、その言葉はいともたやすくするりと滑り込んできた。

オレはこの男のことが。
好きだから。

がつん、と乱暴に横っ面を殴打される感覚に、崩れ折れそうになった。

好き?好きだって?

しかしその言葉を反芻して、論理だてて証明する暇などなかった。
感情がものすごいスピードで理性を追い抜いて問答無用にすべてをねじ伏せてしまった。
記憶の淵に曖昧に淀んでいたものは、たちまち鮮やかな形を帯び、はっきりとした言葉となって表出した。

好きなんだ。
オレは、この男が。
好きだから、こんなに痛いんだ。
好きだから、忘れようにも忘れられなかったんだ。

サイファーとの今迄の事が、脳裏に走馬灯のようにめまぐるしく巡って、世界がぐるぐると回った。
好きかと言われたら違うような気がしたし、違うんだと信じていた。
だけどそもそも。
「好き」って一体なんなんだ?
オレは全然わかってなかったじゃないか。
『第一、オレ、ホモじゃねえし。』
同性だから好きなわけがない。
同じオトコにそんな感情を抱くわけがない、そう思い込んでただけじゃないか。
あの時サイファーが言いかかった事、それが今になってようやく解った。
『俺も同じだ。』
多分、サイファーはそう言うつもりだったのだ。
ゼルを好きになったのは、オトコだからじゃない。
男とか女とかそういう事じゃなく、ただ好きなのだと、そう言いたかったに違いないのだ。

「かわいそうなサイファー。」
目の前で、リノアの背中が震えながら小さく呟いた。
(また「可哀想」かよ。)
放心しながらも、リノアの言葉に条件反応に沸き起こる胸の内のどす黒いもの。
それも今ならしっかりと見極める事が出来る。
嫉妬だ。
オレはずっと、リノアに嫉妬していたんだ。
たとえ過去の事でも、オレ以外の誰かにあの翠色の瞳が向けられていたなんて認めたくなかった。
オレ以外の人間が、サイファーを理解してるような台詞を吐くのが許せなかったんだ。

(‥‥そんな‥‥今ごろになって。)
どうしてもっと早く、気づかなかったんだろう。
熱くて切なくて苛立たしいものが腹の底からせり上がって、たちまち眼窩に満ちた。
今すぐサイファーに駆け寄り、すべてを詫びて縋り付いて号泣したかった。
しかし、そんな事は出来ない。できるわけがない。
嵐のような感情の中にあっても、今のこの状況だけはどうあっても無視できるものではない。

オレ達は今、サイファーと戦おうとしているのだ。
この手で、サイファーの存在を消そうとしている。
襲いくる激情と絶望で、目の前が真っ暗になる。
どうしたらいい。どうすればいいんだ。
その時、混乱する視界の端で、突然リノアがスコールの支えを降りほどいて前に走り出た。

「こんなこと、終わりにしよう?ね?サイファー!」
「リノア!」
スコールが叫んで後を追う間もなく、リノアの華奢な体はサイファーの腕の中に飛び込んで行く。
それを認めたサイファーはにわかに口角を吊り上げると、電光石火にリノアの肘をつかんで捻り上げ羽交い締めに拘束した。
リノアは悲鳴を上げて身を捩る。
「サイファー!やめろ!」
スコールが再び叫び、サイファーもまた叫んだ。
「ああ、終わりにしてやろうじゃねえか!この俺が幕を引いてやる!」

終わりに、できるのか?
終わらせていいのか?
ゼルは固く唇を噛むと、頭を振った。
オレの中では何も終わっちゃいない。始まってさえ、いないじゃないか。
オレは、こんな形で。
(こんな形でアンタと戦いたくなんかねえ!)

激流となった感情が、理性を押し退けて迸る。
ゼルは拳を固め、スコールの体を押し退けてサイファーに駆け寄ろうとした。
が、その瞬間、視界に閃光が迸り足下が大きく傾いて地割れのような衝撃が起こった。
一瞬足が空に浮いたかと思うと、凄まじい爆風に体をさらわれ、悲鳴とも爆音ともつかぬ轟音の中へ叩きつけられるように投げ出された。

時間圧縮だ、と誰かが叫んだ。
しかし誰の声なのか確認する間もなく、辺りの音が、景色が、凄まじい早さでどこかに吸い込まれて行く。
同時に自分の身体も、いや身体は無論のこと精神までもが、バラバラに引き裂かれ、砕け散って、塵のように吹き飛ばされそうになる。
轟々と耳元で回転する風の音に混じってかすかに怒声がした。
「イデア‥家‥‥向かえ!」
スコールの声だった。
そうだ、皆でそう約束していた。
自分のもっとも深い思い出の場所へ。皆で育った、あの石造りの家へ。
行かなければ。
ゼルは激流の中で身を捩り、必死で意識を集中させようとした。
だがその時、それを遮るように、頭の片隅で小さな灯りがちかちかとせわしなく瞬いた。

‥‥サイファーは?
サイファーは、どうなるんだ?

はっとして後方を振り返ろうとした。が、もう遅かった。
濁流に翻弄される木の葉のように抵抗することもままならず、すべてが下方へあるいは上方へと流されて行く。
もはやどこが後方なのか、前方なのかもわからない。
やがてゼルの身体と意識は、声にならない叫び声を上げながら、正真正銘の闇の中へと呑み込まれていった

To be continued.
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