17/涙
突然緊迫した辺りの空気に顔を上げたゼルは、案の定その姿を見つけて思わず破顔した。
普通なら、これだけ混雑した食堂で特定の誰かの顔を探し出す事など至難の業だ。
けれどあの男に限っては、その心配は無用だった。
白い長身はただでさえ目立つ。
おまけに行く先々で自然と畏怖の輪が出来るから、側に寄らずとも否応なしに解るのだ。
今日も相変わらずの仏頂面だ。
何が気に入らないのか、世の中全てが仇みたいな顔をしている。
だがサイファーに限っては、それはいつもと変わらず息災であるという意味だった。
ゼルはくすぐったいような安堵にほっと息をつく。
いつの間にか、こうして食堂の混雑に紛れてサイファーの顔を確認するのが習慣になっていた。
姿が見えればほっとする。
姿が見えなければ落胆する。
こそこそと様子を伺って一喜一憂する自分に淡い嫌悪感を抱かないと言えば嘘だったけれど、実際にサイファーの顔を見ればそんな嫌悪感もたちまち吹き飛んでしまう。
苦虫を噛み潰したような横顔を確認すると自然と心が緩んで、安堵感で胸がいっぱいになってしまうのだ。
この時ばかりは、始終胸につかえている重苦しい鉛のような塊も、まるで熱されたバターのようにするすると溶けていく。
気持ちが凪いで、過去のこともこれからのこともどうでもよくなって、とくとくと弾むように脈打つ自分の鼓動がたとえようもなく愛しくなる。
これは、何なのだろう。
こんな思いは、味わった事がない。
かつてサイファーのそばで感じたあのわくわくする様な気持ちにも似ているけれど、それよりももっとふわふわとした、真綿のような感触だ。
そしてこの柔らかい感覚は、特に何の根拠もないというのに、やたら楽観的で明るい予感さえも伴ってくれた。
大丈夫。きっと、何もかもうまくいく。
スコールの存在も、気にする事なんかない。
だって、一度は間違いなくサイファーはオレを好きだったんだ。
こんな事になってしまったのはオレが自分の気持ちに気付いていなかったからで、それは不幸なすれ違いに過ぎないんだし。
今のオレは以前とは違う。
ちゃんと伝えさえすれば、きっとサイファーは解ってくれるはずだ。
そうだ、今日こそは伝えよう。
簡単な事だ。追い掛けて、声をかけて、はっきり言えばいいんだ。
言おう。伝えよう。
勢いづいた高揚感で矢も盾もたまらず、実際足を踏み出しそうになった事も一度や二度ではなかった。
だが。
そんな高揚感も、結局長くは持続しないのが常だった。
サイファーが視界から消えてしまえば、途端に夢から醒めたようになって、気持ちはあっと言う間に萎んでしまうのだ。
気がつけば辺りは相変わらずどんよりとした暗雲ばかりで、鉛の塊は歴然として存在している。
まったく馬鹿みたいだ、何を浮かれてるんだろう自分は、と更なる自己嫌悪に唇を噛むのが関の山なのだ。
今日もまた、同じ結果になるのは解っていた。
一番奥まったテーブルに陣を取ったサイファーは、面倒くさそうに皿の中身を片付けているが、食事が終わればさっさと席を立って姿を消すだけだ。
群集に紛れてゼルが様子を伺っている事など、当然気付いていないだろうし。
第一、群集の中からあえてゼルの顔を探す事などサイファーがするわけがないのだから。
ゼルは溜め息をつくと、かき込むように食事を再開した。
いつものように逸り出そうとする心を先回りしてたしなめつつ、慌ただしい咀嚼と嚥下を繰り返す。
いいか、次に顔を上げた時にはサイファーはもういないんだ。
いないと解ればまた失望感がやってくる。
だから余計な期待や希望を抱くのはよせ、無駄な事だから。
何度も何度も自分に言い聞かせ、余計な考えを追い払うために黙々と空腹を満たす事に専念する。
やがてトレーが空になると共にようやく覚悟も決まり、ゼルはできるだけ平静を装って顔を上げた。
だが、そんな覚悟は一瞬で消し飛んだ。
とっくに食堂を出て行ったとはずのサイファーは、まだそこにいた。
事務的に迅速に食事を終えたところまでは同じだったようだが、今日のサイファーはまだその場を動いていなかったのだ。
しかめっ面の横顔は、何やら思案げに食堂の入り口の方に向けられたままでいる。
どうやらまだしばらくその席に留まるつもりらしい。
不意を突かれて呆然としてしまったゼルは、先ほどまでの戒めも忘れ、俄に高揚感の虜になった。
これは。
チャンスなんじゃないのか。
どきどきと鼓動が早まり、ごくりと喉が鳴る。
今なら、言えるかもしれない。
このぽっかりと空いた無の時間なら、きっと。
今のサイファーなら、きっと聞いてくれる。
今なら。今しかない。
ゼルは小刻みに震える指で、空になったトレーを押しやった。
無意識の内に席を立ち、ふらりと足を踏み出した。
口の中が異様に乾いている。
心臓が、飛び出しそうに跳ねている。
距離はほんの、僅かだった。
あと、ちょっと。ほんの数歩。
「サ‥‥」
「サイファー。」
思ってもみなかった方向から声が飛んで来て、ゼルは前のめりになって足を止めた。
ぎょっとしてそちらに目をやり、今度は息が止まった。
「すまない。急に雑用が入って。‥‥食事、終わってしまったな。」
群集を縫って近付いてきたスコールは、サイファーのすぐ傍らに立って、小さく首を傾けた。
途中よほど早足に歩いてきたのだろう。
滑らかな頬を仄かに火照らせ、その頬にほつれたダークブラウンの髪をはりつかせている。
「別に構わねえ。ヒマだからな。」
低く抑揚なくさらりと返して、サイファーはひらひらと掌を振る。
「早くトレー持ってこい。待っててやる。」
「あ、いや、食事は後でいい。予定変更だ。」
スコールは首を振った。
柔らかい前髪が額を往復して、あの傷跡が見え隠れする。
臆されたゼルは、じり、と後ずさった。
背後で雑談に夢中になっている見知らぬ学生の肘が背中に当った。
学生はああすまないと頭を下げたが、ゼルがまったくの無反応なので、一瞬困ったような顔をしてすぐまたお喋りに戻ってしまった。
スコールは幾分せわしない様子で身ぶりを交えて、サイファーに説明している。
「先に話を済ませたい。部屋の方に来てくれ。実は他にも頼みたい事が増えてしまったから。」
「そうか。」
あっさりと頷いて、サイファーは立ち上がった。
連れ立って入り口へと向かう二人の背中を、ゼルは硬直したまま目で追った。
頭に靄がかかったみたいに、うまく思考が働かない。
まるで、焦ってフライングを切ってしまってスタートもゴールも見失ってしまった短距離走者みたいだった。
呆然と立ちすくむばかりで、次にどう行動していいのかが解らない。
隣で歓談していた学生服の一団が、そろそろ行こうぜ、と口々に言って入り口に向かう。
肘や背中を無遠慮に押され、はずみでゼルはふらりと歩み出した。
それは本当にはずみで、別に歩き出すつもりがあった訳ではなかった。
だが、午後の講義の課題の事とか放課後の約束とかを交し合っている彼らの屈託のない賑やかさに、何となくつられてしまったのかもしれない。
ゼルは彼らに紛れるようにして、ふらりと廊下へと歩み出た。
学生服の集団の先に、距離をおいても目立つ白と黒の背中がある。
廊下は長く、遠かった。
途中いくつかの曲がり角を過ぎるたびに幾人かがその向こうに消え、一団は独り減り二人減りしていく。
やがて最後の独りが角を折れ、先を歩いている二人との間に遮蔽するものがなくなって、そこでようやくゼルは我に返った。
(なにやってんだ、オレ。)
こそこそとストーカーみたいに。
なんでこんなみっともない真似をしてるんだ。
気がつけばここはすでに、司令官室前の長く人気のない廊下だった。
もしここで二人に振り返られでもしたら、どうするつもりだ。
猛然と自分に腹が立ってきて、急いで回れ右をした。
手近な角に折れながらちらりと背後を伺うと、二人は辿り着いた司令官室のドアの前に立ち止まっている。
こちらに背中を向けたままのサイファーの向こうで、スコールが何かを言っている。
(‥‥なに、話してんだろ。)
一旦角に身を隠したゼルは、何十分の一秒かの逡巡のあと、そうっと角から身を乗り出した。
だが次の瞬間、そうした事を心底後悔する羽目になった。
サイファーの白い腕を、スコールのしなやかな指が掴んでいた。
僅かに屈められた広い背中に華奢な体は覆い隠されていたが、その緊張しきった指先が痛い程目に焼き付いた。
そしてサイファーの肩ごしに見上げている、少女のような透き通った顔立ち。
鮮やかに上気した頬、淡く微笑んだ唇。
そこには、冷徹で無表情な総司令官の顔でなく、露な感情に満ちあふれた生身の顔のスコールがいた。
遠目のはずなのに、その瞳がさざ波のように潤んでいるのが解る。
長い睫が震えているのが見える。
さらに、スコールは伸び上がると。
サイファーの頬に、掠める様なキスをした。
どうやってその場を立ち去ったのか、覚えていない。
自室のドアをくぐった時に息が切れていたから無我夢中で走ってきたのだろうが、どこをどう辿ってきたかは解らなかった。
肩を激しく上下させながら洗面所に駆け込み、咳き込みながら喉を潤した。
プラスチックのコップを洗面台に放り込み、拳で唇を拭って、そしてようやく。
自分の頬が濡れている事に気付いた。
(ああ‥‥オレ、泣いてんのか。)
五感が恐ろしいほどに鈍っていた。
自分が泣いてるという事実も、まるで他人事みたいで現実感がなかった。
ぽたぽたと涙を滴らせながら、ゆっくりと部屋に戻り、ベッドに腰をおろす。
きしむスプリングに誘われるままに、そろそろと仰向けに身を横たえる。
涙は重力に従順で、こめかみから耳朶の際へと流れ落ちていく。
時折耳にまで忍び込む水分が少し不快だった。
眉をひそめて天井を見上げ、潤んで歪んだタイルの有機質な曲線を数えるともなく数える。
そうしてしばらくの間、じっとしていた。
時間だけが眠たげに過ぎていく。
窓からは、午後の陽光がのんびりと差し込んでくる。
風が運んでくるのか、遠く微かにさざめく人声も聞こえてくる。
そろそろ午後の二時限目の時間だろうか。
そういえば夕方からは、来週の任務のミーティングがあるんだった。
議長はキスティスだったか。いや、スコールだったかな。
スコール。
ぴり、と小さな電流が心臓を震わせた。
(‥‥打ち明けたんだな。)
サイファーに。
想いを告げたんだ。
あの潤んだ瞳、桜色の頬、白い指先、震える睫毛で。
そしてサイファーは。
ぱさぱさに乾いていた感情が、思い出したように人間らしい潤いを帯びてきた。
同時に、今度ははっきりと感情を伴った涙がこみあげてくる。
眠っていた感情が一時に押し寄せ、あっと言う間に身を攫われる。
もはや抑制がきかなかった。
どうして、こんなに涙が出てくるんだ。
止めようとすればするほど、止まらなくなる。
蘇る情景のひとつひとつが、氷よりも冷たい刃となって心臓を切りつける。
脳裏に浮かぶ光景が、かまいたちのように体を切り刻んでいく。
切り開かれた傷口からは涙という血が溢れ出し、溢れた涙がまた新たな涙を誘ってとめどなく流れ続けていく。
どうせ氷の刃なら、身体も心も、凍らせてくれればいいのに。
凍てついて何も感じられなくなれたらいいのに。
せりあがる涙の熱は、冷たく切り裂かれた傷口をもろくも溶かし崩し、生々しい痛みを殊更に際立たせようとする。
次々と襲い掛かる激情の波に揉まれながら、ゼルは泣いた。
悲愴に虚しくシーツを掻きむしり、憤怒に激しく身を捩って、子供のように身も世もなく声を上げて。
いつまでも、果てしなく、号泣し続けた。
To be continued.
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