19/失敗
「最近なーんか、元気ないじゃん、ゼル。どうしたの〜?」
屈託のない声でさらりと言われて、ゼルは顔を上げた。
傍らで、セルフィが大きな瞳でこっちを見ている。
テーブルの周りにはいつもの顔が揃っていた。
キスティスとアーヴァインは何か込み入った仕事の話をしていて、セルフィの言葉には気付かなかったらしく、フォークを動かしながらしきりに頷きあっている。
どうやらそんな二人に相手にしてもらえないセルフィが暇を持て余して、ああそういえば、と思い出しついでにゼルに話題を振った、そんな雰囲気だった。
「そ、そうか? オレはいつもとおんなじだぜ。」
ぎこちなくトレーのパンを鷲掴みにしてゼルは首を振った。
「そうかなあ。」
「そうだって。お前の気のせいだろ。」
「んー、でもぉ。」とセルフィは少し顎をひいてまじまじとゼルの顔を見直した。
「なんていうか〜。失恋でもしたみたい〜。」
ぎょっと胸を突かれて、ゼルは慌てて視線をそらす。
「ば、ばか。失恋てえのは相手がいなきゃできねえんだぞ。」
「あ、そうだよねえ。」
セルフィはあははと笑ってぽんぽんとゼルの肩を叩いた。
その明るい笑顔に、身の竦む思いを感じずにおれなかった。
あれから、一週間がたとうとしていた。
ようやく少しずつ落ち着いてきて皆の前では普段通りに笑えるようになったつもりでいたが、いささか強がりが過ぎたのかもしれない。
まだ、心は痛い。
些細な事で、こうしてボロが出そうになる。
けれど部屋でひとりでいる辛さは堪え難かったし、だったら無理にでも周囲の喧噪に揉まれている方がずっと楽だった。
廊下の端や食堂の隅で、うっかりスコールとサイファーの姿を見かけてしまう事もあったけれど、それも咄嗟に回れ右をする事で何とか凌いでいた。
こうして、次第に慣れていくしかない。
やがてきっと、時が癒してくれるはずだ。そう信じるしかない。
ゼルは溜め息を押し殺して、何か別の話題を振ろうとセルフィに向き直った。
と、セルフィは突然あ、と声をあげ、ゼルの肩から手を離した。
視線が遠くを見ている。
「?」
何ごとかとつられてそちらを見遣ったゼルは、一瞬で固まった。
いつのまに食堂に入ってきたのか。
黒いレザーに包まれたスコールの華奢な姿が群集の向こうを横切ろうとしていたのだ。
「スコール〜! げんきぃ〜? 久しぶりやん!」
セルフィが伸び上がるようにしてぶんぶんと手を振り、キスティスとアーヴァインが口を噤んで振り返った。
その声はスコールに届いたらしく、はたと足が止まって白い顔がこちらを向く。
ゼルは咄嗟に顔を背けた。
このまま立ち上がって逃げたい衝動に駆られたが、さすがにそんな不自然な事もできない。
だからただ頑に横を向いて、この偶然の遭遇をやり過ごそうとした。だが。
そのまま通り過ぎるだけだとばかり思っていたスコールは、意に反してまっすぐこちらに歩み寄ってきた。
そればかりか、他でもないゼルの真ん前に、すっくと立ちはだかったのだ。
「‥‥ちょうどよかった。ゼル。」
頭の上から名指しで呼ばれ、ゼルは恐る恐る視線を上げた。
「な、なに?」
「‥‥お前に聞きたい事がある。ちょっと来い。」
「へ?」
突然過ぎる出来事に狼狽も忘れ、ゼルはぽかんと口を開いた。
「な、なんだよ?」
「いいから来い。」
有無を言わせぬ語調で言って背中を向け、つかつかとテーブルを離れていく。
訳がわからないものの、従うしかなさそうだった。
ゼルはおずおずと席を立つと、不思議そうに見送るセルフィらを残して、スコールの後を追った。
壁際の柱の陰に腕を組んで立ったスコールは、じっとゼルを見据えている。
人形のように整った顔は一見相変わらずの無表情だったが、青灰色の瞳がなぜか憂いに曇っているように見えた。
「なんなんだよ‥‥?」
ようやく追い付いて問いかけると、ぴくりと柳眉が小さく吊り上がった。
「お前、サイファーと何かあったのか。」
あまりにも単刀直入に口火を切られて、どきん、と心臓が跳ねた。
まったく、身構える暇もない。
スコールはこういう物言いをする男だった事を今さらながら思い出す。
「何かあったんだな?」
「え、いや‥‥その‥‥。」
「あったんだな。」
質問というより尋問に近いスコールの語調に気圧され、ゼルはかろうじて頭を振って声を絞り出した。
「あ、あったって‥‥サ、サイファーがそう言ったのか‥‥?」
と、たちまちスコールは深く眉間を寄せた。
斜めに走る傷跡の翳りが一段と濃くなり、眼光が細く冷たくなる。
しまった。余計な事を言った、とゼルは真っ青になったが、もう遅い。
「‥‥やっぱり、何かあったのか。」
「う‥‥その‥‥」
まただ。いつも、そうなのだ。
語るに落ちてしまうのは自分の悪い癖だと解っているのに。
ゼルは必死で己の失敗を取り繕おうとしどろもどろに舌をもつれさせた。
「で、でもっ、そ‥そんな事聞いてもしょうがねえだ、ろ‥‥」
「なに?」
「お前、サイファーに好きだって伝えて、それでうまくいったんだろ?」
「‥‥。」
「だったら‥‥い、今サイファーとつきあってんのはお前なんだから、それでいいじゃんかよ、な?」
「‥‥。」
スコールがますます渋面を作って、何か言おうと唇を開いたその時。
ゼルは、視界の隅にふと映り込んだ光景に気付いて硬直した。
白い長身、横柄な足取り、そして張り詰めた周囲の空気。
見紛うことない、サイファーの背中だった。
ちょうど今し方食堂に入ってきたばかりらしく、相変わらずの鷹揚さでカウンターへと近付いていく。
壁際にいる二人にはまだ気付いていないようだったが、振り返ればすぐに目が合う位置だ。
よりによって、なんだって、こんな時に。
ゼルはせわしなく視線を泳がせた。
ゼルの狼狽に気付いたスコールは、つられたようにそちらを見遣り、同じくサイファーの姿に目を止めたらしく俄に頬を強張らせる。
そして再びゼルに向き直ると、突然何かを決意したかのように唇を引き結んだ。
「ゼル。」
「え?」
鼻先をつきつけられ、何ごとかとたじろいたその瞬間、ものすごい力で胸倉を掴み上げられた。
「!?」
「‥‥確かめたい事がある。」
「な‥なにす‥っ‥」
訳のわからない展開に、ゼルは瞬く。
目の前に、思いつめた目をしたスコールの顔がある。
「殴らせろ。」
「え?」
「殴らせろ。」
同じ台詞をまったく同じ抑揚で二度繰り返し、スコールは掴んだ胸倉をさらに引き上げた。
ゼルはパニックになりながら、窒息しそうな胸元を引き剥がそうと必死でもがいた。
だがスコールの腕はびくともしない。
その華奢な風貌からは想像もつかぬ力だった。
「ス、スコー‥‥なんで‥‥」
かろうじて絞り出した言葉は、皆迄続かなかった。
突然目の前に火花が散ったかと思うと、強烈な衝撃に体ごと弾きとばされたからだ。
倒れ様に足元にあった鉢植えに肩がぶつかり、鉢はつんざく音を立てて転がり割れた。
受け身を取る余裕もなく、したたかに床に背中を打ち付けて一瞬呼吸が止まる。
そこかしこで女生徒の悲鳴があがり、がたがたと周囲の学生が席を立ち上がった。
「なんだ? どうした。」
「喧嘩かよ?」
左の頬が、熱い鉛を押し付けられたみたいにじんじんと痛んだ。
本当に殴られたのだと理解する迄に数秒かかった。
さらに乱暴に腕をつかまれて引き起こされ、容赦なく二発目の拳が飛んでくる。
だが、今度はゼルの反応の方が早かった。
素早くスコールの拳を横にいなし、無意識の内にガードの空いたスコールの脇腹に拳を叩き込む。
「‥‥っ!!」
スコールの上体がくの字に折れ曲がり、白い顔が苦痛に歪んだ。
戦闘体制に入った肩が条件反射で繰り出した、渾身のレバーブロウだった。
「あ、ワリ‥つい‥!」
はっと我に返ってゼルは構えを解き、慌ててスコールの肩を支えようとした。
だがスコールはその手を勢いよく払い除けるや否や、さらに左拳で殴り掛かってきた。
すんでの所で躱すものの、なおもスコールは怯む事なく向かってくる。
耳元をかすめるパンチのラッシュに、ゼルはどうしていいかわからずじりじりと後退するしかない。
退いた踵に、はみ出していた椅子の足がぶつかり、一瞬バランスが崩れた。
そこに躱しきれなかったスコールの左拳がストレートに決まり、またもやしたたかに頬を打たれたゼルは、どうと床に倒れ込んだ。
スコールはなおもゼルに屈み込み、襟を掴んで引きずり起こそうとした。だが。
「よせ、スコール!」
突如響き渡った一喝に、スコールの動きはぴたりと止まった。
周囲の喧噪も一瞬にして静まり返り、人々は次々と声の主を振り返る。
そこには。
苦虫を噛み潰したような表情のサイファーが立っていた。
まるで空間を切り取るようにして人の波を割りながら、ゆっくりとスコールに歩み寄る。
「‥‥何やってんだテメエ。」
「別に。」
ぷい、と顔を背けてスコールは唇を噛んだ。
その片腕は先ほどブローを叩き込まれた脇腹を押さえている。
サイファーはじろりと周囲を見回してから、もう一度スコールを見た。
「一体何があった。」
「何も。」
脇腹が痛むのか、顔をしかめたまま首を振り、スコールは突如くるりと踵を返した。
そして幾分ふらつきながら、呆然とする聴衆とうずくまったゼルと、見送るサイファーを残して食堂を出ていく。
サイファーは鼻白んだ声を洩らすと、当たり前のように、ゼルへと向き直った。
「‥‥おい。ダイジョブか。」
低い声にゼルは我に返り、そして同時に戦慄した。
頭の中が真っ白になって、咄嗟に言葉が出て来ない。
「殴られたな。」
不機嫌そうな口調のまま僅かに身を屈め、顎をしゃくる。
何か月ぶりかで間近で聞くその声、その仕種に、ゼルの心は溶けそうになった。
彫像のように整った高い鼻梁。
見下ろしている深い翠色の瞳。
手を延ばせば触れられる、金色の髪、秀でた額。
けれども額に深く刻まれた傷跡が目に入った途端、そんな陶酔感はいっぺんに吹き飛んだ。
打って変わって重く苦々しい塊が、むくむくと喉元にせり上がる。
‥‥なんで、ここに、いるんだ?
アンタは、もう。
‥‥オレのモノじゃないのに。
思うや否や、せり上がった苦い物を吐き出すかのように、自然に唇が動く。
「‥‥いいのかよ。」
「あ?」
「スコールのこと、追い掛けなくていいのかよ。」
「‥‥。」
「声、かける相手が違うだろ。」
喋るたびに。
舌の上に錆に似た嫌な味が広がり、ゼルは顔を顰めた。
殴られて口の中が切れたのだろう。
けれど本当に不快なのは、血の味よりも、舌に乗せた己の言葉の方だった。
嫌味とも偽善ともとれる言葉の放つ、堪え難いこの腐臭だ。
サイファーは薄い唇を歪め、押し黙っている。
険しく寄せられた眉と深く刻まれた眉間の皺が、怒っているようにも困惑しているようにも見える。
「‥‥ああ。そうだったな。」
歯切れの悪い声で吐き捨てるように呟き、サイファーはすっくと体を起こして背中を向けた。
ゼルは固く瞼を伏せて項垂れた。
これで、いい。これでいいんだ。
足音はゆっくりと遠ざかり、潮が引くように気配が失われていく。
叫びだしたくなりそうな胸元をきつく抑えてそれらを必死で頭から追い出し、ゼルは唇を噛んだ。
これで、いいんだ。
そして再び喧噪に満ち始めた周囲の空気の中、ゼルは頑に膝を抱えたまま。
やがてこちらへ駆け寄ってくる、セルフィたちの慌てた足取りを待っていた。
To be continued.
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