20/ゲーム
苦々しさを噛み締めながら廊下に出たサイファーは、ゆっくり左右に視線を巡らせた。
恐らく自室に戻ったのだろう、スコールの姿はどこにもない。
興奮覚めやらぬ野次馬どもの興味本位の視線が、背後から追い掛けてくるのが無闇に煩わしい。
サイファーは舌打ちをすると、スコールの後を追うためというよりむしろその視線から逃れるために、司令官室に向けて大股に歩き出した。
『声、かける相手が違うだろ。』
-------ああ、まったくその通りだ。
忌々しさに、唇が歪む。
一体何をやってんだ、俺は。
最初目に入ったのは、スコールの背中だったはずだ。
だが、その傍らに倒れ込んだゼルの姿を見つけた途端、他の一切が視界から消失してしまった。
呆然と見開かれた蒼い瞳と、痛々しく紅く染まった頬に、今迄の躊躇も抱くべき警戒心もすべてが一遍にどこかに飛んでしまった。
そんな間近で言葉を躱すのが何か月ぶりかの事であり、そもそもこんな近くに立つ事自体許されぬ行為だったと‥‥ゼルのその言葉を聞くまで、迂闊にも綺麗さっぱり忘れていたのだ。
動顛は、していただろう。
だが最後通牒とも言える言葉をみすみすゼル自身の口から聞く派目になるなど、失態もいいところだ。
そんな事態を招いた自分自身が、反吐が出る程情けない。
ただ、唯一の救いは。
意外にもゼルのそんな言葉がさしたるダメージにならなかった事だ。
はなから覚悟がついていたためか、どうせそんなもんだと割り切っていたためか。
冷たい拒絶の言葉にも、さほどの衝撃は感じなかった。
それどころかむしろ、二度と間近では聞かれないと信じていたゼルの生身の声を聞けた事に、素直な感慨さえ抱いていた。
柳に風と無視されるのではなく、言葉はどうあれ自分に向けて反応があった。
その事が驚きであったし、果ては、またそうした機会があるかもしれないなどと淡い期待さえ抱いてしまいそうになる。
馬鹿馬鹿しい、と慌ててサイファーは頭を振った。
そんな糞甘い感傷に囚われてどうする。
もう今さら後には引けない道のりを自分は歩き出しているというのに、今さらそんな未練がましい感傷に振り回されていてどうするのだ。
最後の角を曲がって司令官室の前に立ったサイファーは、もう一度頭を振って思念を振り落とすと、ノックする事もなくドアを開いた。
スコールは。
彫像のように固まって、ソファの上にいた。
部屋に入ってきたサイファーに視線を向ける事もなく、何かを言うでもなく。
まるで呼吸すらしていないのではと危ぶまれるほどの静謐さでじっとしている。
黒いレザーのグラブで覆い隠されたしなやかな指が、まだ脇腹を抑えていた。
どうやら、そこを殴られたらしい。
的確に急所を突いた一撃だったのだろう。
「おい。」サイファーは探る様な足取りでソファに歩み寄った。
「何が、あった。」
ゆっくりとスコールの頭が上向き、さらさらとした前髪が額を滑る。
「‥‥何でも、ない。」
吐き捨てた声音とまっすぐに見上げる青灰色の瞳が、はっとするほど冷たい。
「何でも‥‥ねえってこたねえ、だろ。理由もなく殴りあいになるかよ。」
「あれは、ただのゲームだ。」
凍てつく様な怒りのオーラを纏ったまま、スコールは無表情に言う。
理由も原因も解らない怒りに気圧され、サイファーは目を細めた。
「ゲーム、だと?」
「俺が先に仕掛けた。‥‥確かめたかったんだ。」
「何を。」
スコールは眉を寄せ、初めて表情らしい表情を浮かべた。
「あんた、やっぱり俺よりゼルを気にしたな。」
「あ?」
「サイファー。あんた、本当はゼルが好きなんだろう。」
サイファーは凍り付いた。
絶句して、立ちすくむしかなかった。
「考えてみれば、変だと気付いた。」
まるで磨き込まれた金属のように透き通った冷ややかな声で、スコールは続ける。
「俺はあんたに好きだと告げたし、あんたはそれを拒まなかった。だけど一度だって、あんたの口から俺を受け入れたとは聞いてない。」
「‥‥。」
「それに‥‥あんたは時々おかしくなる。決まってゼルの話になった時だ。まるで心ここにあらずになるし、どう考えてもゼルの名前を意識しているとしか思えない。そもそも、あの時だって、」
と、スコールは少し言葉を区切った。
まるで注射に耐える子供のような顔だった。
「あの時‥‥試験の日の時だって。‥‥あれは、俺がゼルの事を口にしたからだろう? ゼルが俺を励ましたなんて言ったから、だからあんたは‥‥」
「‥‥よせ!」
沸々と腹の底から込み上がる焦燥にかられて、サイファーは言葉を遮った。
己の声が割れ鐘のように頭の中に反響して、こめかみがずきずきと痛む。
「俺があのチキン野郎を、だと? ふざけるな!」
「じゃあ聞くが。」
スコールはきっとサイファーを睨み上げた。
「あんた、さっき食堂からここに来る迄の間、何を考えてた? 俺の事を少しでも思ってたのか?」
「っ‥‥。」
サイファーは低く呻いて言葉に詰まった。
反論の余地もなかった。
スコールはゆっくりと立ち上がって向き合うと、グラブに包まれた指先でサイファーの胸元を抑えた。
「あんたのここに、俺はいない。そうだろう。」
見つめている青灰色の瞳に、怒りと悲哀が目まぐるしく揺れている。
胸元を捉えた細い指が、小刻みに震えている。
決して声を荒げる訳でもなく取り乱す訳でもないが、今スコールの中にはかつてない程に激した感情の波が渦巻いているのが、手に取るように解った。
「けれど、いくら好きでもゼルは手に入らない。だから。‥‥俺で、妥協した。違うか?」
「‥‥。」
サイファーは頬を強張らせた。
こうなった以上、もはや降伏する他に術はないのだろう。
だがそれでも、一抹の命綱から手を離すのには躊躇があった。
それを離してしまったら二度と這い上がれない奈落の底に突き落とされる。
だから。
「‥‥仮にそうだったとしても。それは必ずしもワリい事か?」
空々しかろうと、無駄なあがきだろうと、崖っぷちで虚勢を張る事しか今のサイファーにはできない。
「最初は妥協かもしれねえ。だがいずれそれが本命になる事だってあんだろうが。」
「なってないじゃないか。」
剃刀のように切り返し、スコールは胸元を突き離した。
「いくら自分を誤摩化そうとしたって、理性でねじ伏せようとしたって、人の心なんてそんな簡単に変えられやしない。あんた、そんな単純な事も解らないのか。」
かろうじてしがみついていた命綱を、すっぱりと切り落とされた気がした。
‥‥解らない、はずはなかった。
スコールは正論だ。
下らない未練だ、忘れなければという妄執は、結局執着が捨てられぬという証拠に他ならない。
本当に忘れる事ができていたら、忘れなければなどと躍起になる事もない。
その矛盾に漠然と気付きながらも、あえて無視してきただけだったのだ。
「もう、見え透いた言い訳なんか聞きたくない。茶番もたくさんだ。」
花びらのような唇で溜め息を洩らし、スコールは頭を振った。
さらさらと音を立てて額を往復する前髪の隙間から、あの傷跡が見え隠れする。
「俺は確かにあんたが好きだ。だけど、俺が欲しかったのはそんなモノじゃない。そんなモノで誤摩化されるくらいなら、最初からいらない。」
そう言って立ち尽くすサイファーに背を向けると、ゆっくりとその場を離れ窓際に歩み寄る。
サイファーは沈黙を保ったまま、スコールの去った空間を睨み続けた。
華奢な後ろ姿を視線で追うのは、痛過ぎた。
けれども視線をそらしたところで、空っぽの虚ろのようになった耳には剥き出しのスコールの言葉が突き刺さる。
「最初から、退けて欲しかった。」
独り言のように、スコールは窓に向かってぽつりと呟いた。
「俺にだってプライドはあるんだ。心底、マジで傷ついた。」
「‥‥。」
「もう、いい。‥‥出てってくれ。」
思わず顔を上げ、声を発しかかって、思いとどまった。
今さら何を言おうというのか。
何を言おうとますます愚かな茶番になるだけだ。
ましてや詫びの言葉など、スコールへの更なる侮辱にしか成り得ないではないか。
「出てってくれ。サイファー。」
ゆっくりと、スコールは繰り返した。
判決を言い渡す裁判官のように、伶俐で容赦のない抑揚だった。
サイファーは唇を引き結び、黙ってスコールの言葉に従った。
にべもなく毅然と引かれてしまった終幕の前では、もはやそうする事しかできなかった。
To be continued.
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