3/海
(また、やっちまった‥‥。)
ゼルは深い、深い溜息をついた。
階下から、夕飯の支度に終われる母親の足音が聞こえる。
温かい食事の匂いが鼻をくすぐり、嫌が応でも空腹感が募る。
母親の作った食事を口にできるのは久しぶりだから、心底食事が待ち遠しい。
しかしそんな他愛もない思考の片隅に、こびりついている暗鬱たる影。
その影が、先ほどから幾度となくゼルに溜息をつかせているのだった。
窓から見える街並の向こうには、夜の闇に沈んだ海がある。
遠景に浮かび上がったバラムホテルの仄白い壁が、水平線の概ねの位置を語っている。
あのホテル。
そこにいるはずの、あの男。
(一体、どうしちまったんだろ、オレ。)
ゼルは頭を抱え、拳でこつこつと即頭部を叩いた。
夕暮れの港、立ち尽くす白い背中が瞼にやきついて離れない。
なんで、自分は。
あんな事をしたのか、あんな言葉を口にしたのか。
というより。
あの男の傍に立つ時に感じる、あの思いは一体なんなんだ?
焦れるような。くすぐったいような。
曖昧で中途半端で、形の掴めない何かが心の隅からじわじわと拡がり、生暖かい濃霧のようにすっぽり覆いつくして、ふと気がつけば。
あの男の顔を、間近に覗き込んでしまっている自分がいるのだ。
おかしい。
変だ。
自分があの男に抱いていた感情は、もっと単純なものだった。
いけ好かない、ただその一言で一刀両断できる相手であったはずだ。
それが最近どうにもおかしな具合になってきた。
自分で自分がわからなくなるという感覚を、ゼルは生まれて始めて感じている。
(なんか、おっかしいよなあ。アイツが、このオレを好き、だなんてよ。)
野外訓練の沼地でサイファーの本心を知った時は、それが最初の感想だった。
いつも肩で風を切るごとく、我が物顔でガーデンを闊歩しているあの男が。
誰からも畏怖され、傍によることさえ敬遠されているあの男が。
よりにもよって自分を好きだなんて。
なんだか鬼の寝首をとったような気がして、おかしかった。
それまでゼルは、すべてにおいてサイファーより劣位である自分を認めざるを得なかった。
学業でも、戦闘能力でも、ルックスでも、そして男としても、悔しくて堪らないが、サイファーにはかなわない。
そのサイファーが、自分に特別な感情を持っている。
いつも自分を見下し、小馬鹿にしてきた奴の唯一の弱点を自分は掴んだのだ。
これが笑わずにいられようか。
だが、そんな勝利感もすぐにしぼんでしまった。
初めて見せたサイファーの動揺と真摯な眼差しに、これは笑い飛ばしていい問題ではないのだと悟った。
降りしきる雪の中、自分でも訳がわからないまま冷たい頬に唇をおしあててしまったのは、一瞬でも揶揄の気持ちを抱いてしまった謝罪のつもりだったのかもしれない。
もっとも、そんな行動が謝罪になるはずもなく。
むしろますます罪深さを増長するだけな事に気づいて、あとで激しく後悔したのだが。
だからとにかく、もうそういうのはやめようと思った。
もう、やめよう。忘れよう。
何ごともなかった事にしよう。
そこは、二度と足を踏み入れてはならない領域だ。
なぜなら、自分は‥‥サイファーの気持ちを受け入れるつもりなど毛頭ないのだから。
そしてゼルは忘れた。つもりだった。
顔を合わせれば悪意の言葉の応酬を繰り返す、ただそれだけの関係に戻ったはずだった。
それなのに。
放課後の暮れなずむ校庭で、また、二の舞いを踏んでしまった自分は‥‥馬鹿だ。
さらに今日とて。
港で思いがけず奴の姿をみかけた、ただそれだけの事だったのに。
知らぬ振りをして通り過ぎればいい事なのに。
わざわざ声をかけ、ふらふらと近付いてしまった自分の行動はなんなのだ。
まるで反省していない、馬鹿丸出しの行為ではないか。
思うに、あの男の傍らに寄ると沸き起こる、不可解な感覚。それに自分は振り回されているのだとしか思えない。
快か不快かと問われれば不快ではない。
むしろ心地よい。
だから、吸い寄せられるように傍に寄ってしまう。
じゃあその感覚の正体はなんなのだろう?
(いい加減にしとかねえと、マジあぶねぇぞ、オレ。)
コンクリートの桟橋に押し倒された時のサイファーの腕力を思い出し、ゼルはますます頭を抱えた。
階下から、ゼルを夕食に呼ぶ母親の声がする。
と、思い出したように腹の虫が、空腹を訴えてぐうと鳴いた。
(懲りねえなあ‥‥。)
潮風になぶられる前髪を注意深く上向きに撫でつけてから、ゼルは後頭部をぽりぽりと掻いた。
防波堤には、昨日とまったく違わぬ構図で、釣り糸を垂らす男がいる。
どうせ釣れないとわかりきっているのに何故またそこにいるのか。
もっとも懲りないのは自分も同じか。
朝、起き出すや否やどうにも気になってまたここに足を運んでしまったのだから。
ゼルは目を細めて空を見上げた。
空だけは昨日と違って、雲一つなく晴れ渡っている。燦々と降り注ぐ陽射しのお陰で背中も温かい。
サイファーが腰をおろしているコンクリートも程よくぬるまっている事だろう。
眩しく陽光を照り返すサイファーの白い背中に再び視線を戻し、さてどうしたものかとゼルは思案した。
昨日のように無遠慮に近付くのはさすがに憚られる。
第一近付いて自分は何を言おうというのか。
うっかり口を開けば、また迂闊な事を言ってしまい兼ねない。
だが、かといってこの場を立ち去るのもなんだか物足りない。
わざわざ、家を出て、ここまで来たのに。
ゼルは神妙に眉根を寄せると、意を決してそろそろと堤防へと降りて行った。
風は相変わらず強いが、海は静かだ。
打ち寄せる波も穏やかで、単調なその音はまるで子守唄のようだ。
いや実際に、子守唄に聞いてしまった人間がそこにいた。
(ね‥‥寝てる。)
そっと横から覗き込んだサイファーは、微睡んでいた。
手にしていると思っていた釣り竿はコンクリートに直に置かれ、胡座を掻いた片膝で押さえ付けられている。
残る片膝に頬杖をつき、大きな掌に顎を埋めて、サイファーは瞼を伏せている。
熟睡こそしていないのだろうが、忍び足に近付いたゼルの気配も読めないようでは、膝に敷いた釣り竿の微妙な動きなど察知できるとは思えない。
要するに釣り人の様相を呈してはいるが、魚を釣り上げようという意志は皆無らしかった。
(相変わらずわっけわかんねえ野郎だなあ。)
そろそろと傍らに腰をおろし、ゼルはしばしサイファーの横顔を見守った。
まるで彫刻のように高く整った鼻梁、彫の深い眼窩。
男の自分から見ても、憎たらしいほどの男振りだ。
ガーデンの女生徒達が黄色い声を上げて騒ぐのは当然だろう。
この、男前が。
(オレを好きだって?)
また、曖昧模糊としたあの霧がじわじわと沸き起こる。
くすぐったくて焦れるようで、そぞろに胸が騒ぎ出す。
あわててぶんぶんと頭を振りかぶった、その時。
サイファーはぴくりと肩を震わせ、はっとしたように瞼を開いた。
掌から顔を上げ、視線だけで周囲を素早く伺い、視界の端にゼルをみつけて眉間に深い皺が刻まれる。
「またテメエか。」
「よ、オハヨ。」
にっと笑ってみせると、ますます苦虫を噛み潰したような顔になった。
「相変わらず全然釣れてねえじゃん。」
「ほっとけ。」
「つか、釣る気なしかよ。」
顎で膝の下の竿をしゃくってみせると、つられたように視線を落とす。
と、忌々しげに竿を手に取り糸を引き上げたかと思うと、そのまま傍らに放り出した。
「どうでもいい。」
吐き捨てるように言って長い脚を堤防の縁に投げ出すと、ごろりと横になってしまった。
本格的に昼寝を決め込むつもりかもしれない。
降り注ぐ陽射しが、頬に高い鼻梁の陰を落とす。
眩しくねえのかな、とそんな事を心配した。
「なあ。」
「なんだ。」
面倒臭そうに、そのくせすぐに切り返す低い声。
ゼルは少し躊躇ってからぽつぽつと言った。
「このままでも‥‥いいかな。」
「?」
「オレさ。‥‥自分でよくわかんねえんだ、やっぱ。」
サイファーの片眉が吊り上がる。
「なにが。」
「アンタのこと。」
「‥‥。」
「嫌いじゃねえのは確かだし、アンタがオレにそーゆー感情もってるってわかっても別に嫌とかじゃねえし。」
じっと翠色の瞳を覗き込むようにすると、視線が逃げる。
「でも、好きかって言われたらやっぱ‥違うと思う。」
「‥‥。」
「第一、オレ、ホモじゃねえし。」
サイファーが、妙な顔をした。
あらぬ方を見つめている視線が、何か見えるはずのないものを捉えたかのような顔だった。
薄い唇が、一瞬何か言おうと蠢く。
だが、耳をそばだてたゼルの前でそれは再び一文字に結ばれてしまった。
ゼルは憮然とした。
「なんだよ?」
「あ?」
「今。なんか言いかかったろ。」
「‥‥。」
「何だよ、はっきり言えよ。」
「なんでもねえ。」
「なんでもねえって事ねえだろ。」
「うるせえ。テメエにゃ関係ねえ。」
「またそれかよ。」
ゼルはむくれてそっぽを向いた。
サイファーは黙っていた。
どこか気まずい沈黙が続く。
優しく微笑むように打ち寄せる波音だけが救いだった。
「アンタさ、オレのどこがいいわけ。」
遠く白く輝く波頭を見つめながら何気なく滑り出た言葉だった。
独り言のようなもので、答えは別に期待していなかった。
しかし意外にも、サイファーは思案げな声でそうだな、と言った。
吃驚して顔を見直すと、仰向けのまま腕を組み、糞真面目な顔で宙を睨んでいる。
ゼルは何故か訳もなく、動悸がした。
引き結ばれた唇が動き出すのを、今か今かと待ちかねた。
やがて、深い溜息と共に吐き出された言葉は。
「わからねえ。」
力が抜けた。
「なんだよそれ。」
「いいだろ別に。お互い様だろうが。」
「ええ?」
サイファーはごろりと向こう向きに寝返りを打ち、声だけで答えた。
「テメエも自分で自分がわからねえんだろ。俺もわからん。」
まるで。
ふて腐れた子供のような言い分だ。
ゼルは思わず、笑ってしまった。
サイファーが頭をめぐらせ、じろりと眦で睨みつける。
「何が可笑しい。」
「いや、ごめ。つい。」
笑いに声を綻ろばせたまま首を降ると、サイファーはふん、と鼻を鳴らした。
ゼルはサイファーの後頭部を見つめ、ほっと息をついた。
「でもまあ、わかんねえもんはわかんねえんだし、仕方ねえよな。」
「‥‥。」
「だから‥‥わかんねえけど、いいよな?このまま、わかんねえままでもさ。」
最初の問いに、戻る。
サイファーは答えない。
答える気がないのか、それとも答えを探しているのか。
ゼルはもう一度海を見た。
波がさらさらと押し寄せては、堤防の堅いコンクリートを撫でていく。
きらきらと陽光を照り返す水面を見つめているうちに、ふと、閃いた。
ああ、なんだか。
この海は、サイファーに似ている。
見つめていると明らかに心に何かが沸き起こるのに、それが何なのか説明できない。
できないけれどその何かが心地よくて、訳もなく海を眺めに足を運んでしまう。
潮の流れに足を掬われるかもしれないのに、高波に攫われるかもしれないのに。
いつのまにか傍によって、その水面を覗き込んでしまう。
サイファーは、この海に似ている。
我に返って傍らのサイファーを見た。
あまりに静かなのでそっと覗き込むと、案の定再び微睡みに落ちている。
まったく、今日は本当に日和が良い。
「ちぇ‥‥ホントわっけわかんねえ。」
なんだかくすぐったくなったゼルは照れ隠しに独りぶつぶつと呟くと、膝を抱え、そのまましばらく翠色に輝く海を眺めていた。
何か大きく温かなうねりに、やんわりと呑み込まれる心地よさに酔いながら。
To be continued.
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