21/料理


ゆるゆると陽がのぼり、部屋の中の温度は上がりつつあった。
一限目の開始を告げる鐘が遠く鳴り響き、天井近くの空気を微かに震わせる。
今日は夕刻から任務でドールまで行かねばならない。
それまでは暇があるから、訓練施設で多少の肩慣らしをするつもりだった。
だが、目覚めるや否や蘇った昨日の出来事への疑問がぐるぐると頭の中に渦巻いていて、ゼルはいまだベッドから抜け出せずにいた。

けだるく寝返りを打つと、下になった左頬がずきりと痛む。
鏡で見れば恐らく青痣になっているに違いない。
案の定口の中も切れていて、ゆうべは水を飲むのにも難儀した。
そっと舌先で傷口を探ると、いまだ不快な錆び臭さが口内に広がる。
ゼルは眉をしかめ、再び寝返りを打った。

あの後、セルフィを始め食堂での騒ぎを目撃していた人々は、口々にゼルを問い質した。
あの冷静沈着な総司令官をそこまで感情的にさせるとは、一体ゼルにどんな落ち度があったのかと誰もが訝しんだのだ。
が、聞きたいのはむしろゼルの方だった。
いきなり殴らせろと言われただけだ。
当然人々はそんな答えでは納得せず、いや絶対に何か理由があったはずだ、ゼルが気付いていないだけだろうと詰め寄ったが、追求されても答えられないものは仕方ない。
ただ唯一、思い当たる理由といえば‥‥サイファーの事、だったが、それにしたってやはり納得がいかなかった。

もしかしたら、ゼルの気持ちにスコールが気付いてしまったのかもしれない。
あるいはサイファーの口から、かつてゼルとの間にあった出来事の一部始終を聞き及んだのかもしれない。
だが仮にそうだったとしても、それで殴られるのは割に合わない。
今、実際にサイファーの心が向いているのはスコールだというのに。
それとも過去に遡ってまで怒りを爆発させるほど、スコールは嫉妬深い男だったのか?

(‥‥んなわけ、ねえよなあ。)
天井を見上げたまま、ゼルは溜め息をついた。
スコールがそんな事で激するとはどう考えても無理がある。
それにあの拳には、憎しみとか怒りとかいう熱の籠った感情は一切感じられなかった。
まるでサンドバックを叩くかのごとく正確で冷静な拳だったし、スコール自身の表情も一貫して冷めていた。
だから決して感情で殴ったのではない、きちんと理由があっての事だったのだというのは、火を見るより明らかだ。
‥‥そう言えば、あの時スコールは「確かめたい事がある」と言っていたではないか。
確かめたい事があるから殴らせろ、と。
その確かめたい事、とは‥‥一体なんだったんだ?

堂々回りの疑問符にうんざりしてきて、ゼルはようやく体を起こした。
考え事は苦手なのだ。
苦手なのに、囚われる。
痛む頬を抑え、ベッドから降りようと体を捻ったその時、ドアにノックの音がした。

「ゼル。いるか。」
ドアの向こうの凛とした声に、ゼルははっとした。
慌ててベッドを降りて、ドアのロックを解除しに向かう。
静かに横に滑って開いたドアの向こうには------相変わらず、端正だけれど感情の読めない顔をしたスコールが、ゼルを見下ろしていた。
「スコール‥‥」
「おはよう。入っていいか。」
「あ、ああ。」
気圧されて体を横にずらすと、スコールはつかつかと部屋に入った。
そしてそのまままっすぐデスクに歩み寄ると、何やら片手に抱えていた袋を置き、呆然としているゼルを振り返った。
「今朝はまだ食堂に下りてきていないと聞いたから。朝食を持ってきた。」
「え。」
「一緒に食おうと思って。」
と、椅子を引き寄せ腰を下ろすと、袋の中身をゼルに示す。
「これに入れてもらってきた。食うだろう?」
「あ、うん、うん。」
思わずゼルはこくこくと頷いた。
訳もわからぬままスコールのペースに乗せられている気がしたが、目覚めて以来何も入れていない胃袋が空腹を訴えているのは紛れもない事実なのだ。

促されるままにスコールと向かい合う形でベッドの裾に腰をおろし、差し出されたケースを受け取る。
それは折り詰めのような浅くて大きめのランチボックスで、蓋を開けると柔らかい湯気が立ち上った。
軽くトーストしてバターを添えたパンの傍らに、食堂の朝食の定番であるスクランブルエッグやベーコンやサラダが形よく寄せて詰められている。
この仄かに甘くてふわふわとしたスクランブルエッグはゼルの好物なのだ。
思わず頬を綻ばせると、またずきりと頬が痛んだ。
「あ、イテ。」と、咄嗟に手の甲で庇うゼルに、スコールは微かに眉を寄せる。
「‥‥痣になったな。すまない。」
「え。あ、いや‥‥。」
ゼルは慌てて首を振った。
「お、オレも殴り返しちまったし‥‥その‥腹ダイジョブだったか?」
「ああ。さすがに効いたけどな。」
スコールは苦笑すると、牛乳の紙パックとフォークをゼルに渡し、ふっと俯いた。
普段から白い頬だが、今朝は心なしかその白さがくすんでいるのにゼルは気付いた。
一見普段と何ら変わりはないけれど、どこか疲れている様子だ。
何か急な仕事でもあって、徹夜でもしたのだろうか。
気遣いつつパンに手を伸ばしたゼルに対し、スコールは背中を丸めるようにして膝に肘をつき、自分の分のフォークを所在なげに弄んでいる。
「ゼル。」
「うん?」
「昨日は‥‥本当にすまなかった。」
「いや、その、もういいって。」
パンに齧りつきながらゼルは再び首を横に振った。
「そりゃ吃驚はしたけど‥‥でもなんか確かめたい事があってああしたんだ、ろ?」
「ああ。‥‥おかげで、はっきりした。」
小さく頷き、スコールはようやくのろのろと自分の分の食事を膝の上に広げた。
「はっきりして踏ん切りもついた。‥‥俺は、諦める。」
「諦める?」パンを頬張ったままくぐもった声で問い返す。
「諦めるって、何を?」
「サイファー。」
さらりと言い放つと、スコールは億劫そうに手を動かしスクランブルエッグを口に運んだ。

「え。」
愕然として動きを止めたゼルを他所に、スコールは黙々と咀嚼を繰り返し、落ち着いた様子で飲み込んでからもう一度口を開いた。
「諦める。俺はサイファーとはもうつきあえない。」
「な‥‥なんでだよ?」
咄嗟にランチボックスをベッドに放り出し、ゼルは身を乗り出した。
「せっかく、思いが通じたんじゃなかったのかよ?」
「通じてなかったんだ。だからもう諦める。」
「なっ‥‥!」
相変わらず落ち着き払ったスコールの口調に、ゼルは思わずかっとなった。

なんなんだ、このスコールの冷静さは。
素っ気ない程の淡白さは、一体なんなんだ?
あれ程迄に自分が心悩ませ痛みをこらえてきた事だというのに、こんなにもあっさりと他人事みたいな物言いで流してしまうなんて。

「そんなの、ありかよ!」
ゼルは叫びざまに勢いよく立ち上がった。
我知らず声が昂るのを、どうにも堪える事ができなかった。
「せっかく‥‥せっかくオレが忘れようって努力してるのに! 諦めるって、なんだよそれ! オレの努力はなんなんだよっ!!」
「努力‥‥?」
ぎょっとして、スコールが顔を上げた。
呆然と見開いた青灰色の瞳が、見る間に暗く翳っていく。
「ゼル。お前まさか‥‥」
「なんだよ!!」
「‥‥お前、サイファーの事が好きなのか?」
「‥‥っ!」
一瞬怯んだが、もう昂った感情の前にはどうでもよくなっていた。
ごった煮のようになってしまった頭では、冷静に否定することなどもうできない。
なるようになれ、と自暴自棄に駆られたゼルは更に声を荒げた。
「‥‥ああ、そうだよ! オレはアイツが好きだよ! でも言ったろ、オレは忘れるって決めたんだ!」
「なぜ。」
「なんでもいいだろ! もう、遅えし、仕方ねえもん。いいんだよ!」
吐き捨てるように言い放つと、突如スコールは椅子を蹴って立ち上がった。
「いいわけ、ないだろう!」
「いいんだよ!サイファーが選んだのはお前なんだからよ!!」
「馬鹿! サイファーが好きなのは、お前なんだぞ!」

激したゼルにつられたものか、およそスコールらしくない感情的な声だった。
「それがわかったから! だから、もうつきあえないんだ!」
駄々をこねる子供のように背けた頬の上で、さらりと髪が踊る。
その人形のような横顔を凝視したまま、ゼルは言葉を失って立ち尽くした。
「お前たちの間に何があったかは知らない。」
スコールは浅く溜め息をつくと、うっかり昂ってしまったことを恥じるかのようにぽそぽそと呟いて再びすとんと腰をおろした。
「だけど、今サイファーが見てるのはお前だ。俺じゃない。」
「‥‥嘘、だろ。」
「今さら嘘なんかついて何の意味がある。」
にべもない言葉に、ゼルは必死で頭の中を整理しようとした。

サイファーが、オレを‥‥まだ、オレの事を、だって?
‥‥そんな馬鹿な、あり得ない。何かの間違いに決まってる。
そんな事あるわけないのに。
ましてやそれが原因で、スコールがサイファーを諦める、なんて。

「‥‥なんで‥‥そうなるなんだよ‥‥。」
混乱が、思わず言葉になって漏れる。
「なんで? それはこっちが聞きたい。」
スコールは聞き咎めたように首を傾げ、まっすぐにゼルを見上げた。
「大体、サイファーが好きなら。お前なんで俺に頑張れなんて言ったんだ。」
「‥それは‥‥。」
「俺に譲ったつもりだったのか?」
「ち、ちがう!」
ゼルは必死で首を振った。
そうじゃない。
かなわない、と思ったのだ。
相手がスコールでは、かなう訳がない。
サイファーに対する思いの強さでも、自分なんかは到底及ばないと思った。
一度逃げてしまった自分に対しまっすぐにぶつかっていこうとするスコールはとても眩しかったし、自分にはもはや失われてしまった資格をスコールなら充分持っている、そう信じたのだ。だから------。

またもや言葉を失い俯いてしまったゼルに、スコールはこれみよがしの溜め息をついた。
「まったく‥‥お前たち、二人揃って本当の大馬鹿だな。呆れてものも言えない。俺を何だと思ってるんだ。」
「‥‥。」
「お前に譲られるほど、俺は落ちぶれていない。」
「そんなつもりじゃ!」
「とにかく、」
とスコールはゼルの言葉を遮り、揺るやかに首を振った。
「サイファーもサイファーだけれど、お前もお前だ。好きならなぜそう言わない。」
「‥‥。」
「思いはちゃんと伝えるべきだ、そうじゃないのか。俺にそう意見しておいて、自分の事は棚上げなのか?」
返す言葉もなかった。
ゼルは力なく肩を落とし、空気が抜けてぺしゃんこになってしまった風船みたいにぽそりとベッドに腰を下ろした。

スコールはやれやれ、というように抱えたままだったランチボックスをデスクに置き、おもむろに皮のジャケットのポケットを探った。
そして何やら掴み出すと、身を乗り出してゼルの手首を引き寄せ掌に握らせる。
小さく固い感触に掌を開いてみると、それはスコールがいつもつけていたあの指輪だった。
「え?‥‥これ‥‥。」
「捨てるつもりだったが。お前にやる。」
「え。」
「同じものをサイファーが持ってる。捨てていなければな。」
ぽかんとしてスコールの顔と指輪を見比べていると、スコールは淡々と言い放った。
「後は自分で何とかしろ。俺はもう知らないからな。」

もう、何もかもとっくに吹っ切れている。そんな表情だった。
スコールの口調が最初から素っ気なかったのは、スコールの中ではもう決着がついてしまっているからなのだ、とようやくゼルは悟った。
無論スコールとて、思いの分だけ未練もあったろうし、傷つき悩みもしたに違いない。
いつになくくすみ疲れ切った顔色が、何よりそれを物語ってる。
その辛さには。
痛い程、覚えがある。
ゼルはきつく唇を噛んだ。

「‥‥ホントに‥‥お前はそれでいいのか、よ。」
「なにが。」
「サイファーのこと‥‥好きなんだ、ろ?」
「好きだからこそ、同情されたり妥協されたりなんかしたくない。それに。」
スコールは所在なげに、傍らのランチボックスからベーコンの欠片を摘まみ上げて口に運んだ。
「なんだか、馬鹿馬鹿しくなった。」
「馬鹿馬鹿しい?」
「いや。‥‥本当に馬鹿なのは俺だな。」
指先についた油をついと舐め取り、微かに笑う。
「‥‥サイファーがお前を好きだなんて事まで言うつもりはなかったんだけどな。」
そのまま透き通って消えてしまいそうな笑顔に、ゼルはぱちぱちと瞬いた。
「‥‥なあ。ホントにサイファーはオレの事‥‥」
「疑うなら、自分で聞けばいいだろう。」
スコールはすっくと立ち上がると、軽くゼルの二の腕を叩いた。
そして椅子の位置を戻すと、そのまま部屋のドアへ向かおうとする。
「スコール!」
思わず呼び止めた。
肩ごしに振り向いたスコールは、まだ何か言いたいのか、と咎めるような顔をする。
ゼルは臆し、しどろもどろに傍らのランチボックスを示した。
「そ、その‥‥これ、もう食わねえの?」

もちろん、本当に言いたかったのは料理の事などではない。
けれどやはりそれは言うべきではないと躊躇して、その結果咄嗟に思いついた言葉だった。
ああ、と頬を緩めスコールは微笑んだ。
「お前が食っておけ。」

スコールが部屋を去った後も、ゼルはしばらく黙ってランチボックスに向き合っていた。
すっかり冷めてしまったスクランブルエッグが所在なく容器の底に凝固しているのを、呆然と、いつまでも眺め続けた。

To be continued.
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