22/休日


垂らした釣り糸の先は、先ほどから微動だにしない。
季節はずれなのだから、当然といえば当然だった。
だが、そんなことは別に構わなかった。
釣りなんてどうせ口実に過ぎなかったからだ。
この場所に来てこの海を眺めるためにひねりだした、名ばかりの理由に過ぎない。
休日にバラムに行く理由なんて誰も問い質しはしないのだが、あえてそんな口実を設けたのは、あくまで自分のプライドを納得させるためだった。
そうでもしなければ、柄にもなく感傷的な己の欲求を素直に受け入れる事ができなかったのだ。

サイファーは漫然と釣り糸の先から視線を転じ、ごろりと横になった。
空には、抜けるような蒼が広がっている。
同じ場所、同じ格好でこうして空と海を眺めたあの日から、丁度一年が経っていた。
煌めく波頭と、降り注ぐ陽射し。
傍らで笑っていたあの笑顔と屈託のない声、戯れ合うような短い言葉の応酬。
手に入れようとする側から腕をすりぬけていった小柄な体、踏み込もうとするや否や逃げていった心。
次々に蘇ってくる記憶のひとつひとつが、たとえようもなく懐かしい。
陽の光にゆっくりと漂白されていくような心持ちで、サイファーは瞼を伏せた。

この記憶の数々は、確かにそう安易に消し去れるものではない。
人の心など、そんな簡単に変えられるものではない。
スコールの言う通りだった。
変えられないものならば変えられぬままに、素直に受け入れるしかないのだ。
そして。だからこそ。

‥‥やはり、ガーデンに戻るべきではなかった。

いや、今からでも遅くはない。
即刻ガーデンを去るべきだ。
そもそも、心を偽ってでもゼルの側にいたいと願ってしまった事が、過ちだった。
変わらぬ心は心のままで、遠くから見守っていれば良かったのだ。

ゼルにとって、サイファーの一方的な思いは重すぎるものだっただろう。
一連の出来事で袂を分ちほっとしたのも束の間、またガーデンに舞い戻ってきたサイファーの存在を、さぞや持て余していたに違いない。
だからこそ、スコールという存在に期待を寄せていたのであろうし。
サイファーがスコールとうまくいきさえすれば事態は温和に収束すると信じて、切実にそうなる事を願っていたのだろう。
だが、自分はその期待をにべもなく裏切ってしまったのだ。
それも、本来無関係のスコールまで巻き込んだ、最悪の形で。
ゼルはまだその事実を知らないかもしれないが、いずれにせよ時間の問題だ。
こうなった以上は、一刻も早くガーデンを去るべきだった。
それがゼルのためでもあり、スコールのためでもあり、かつサイファーにとっても唯一残されたぎりぎりのプライドだった。

だがその前に、もう一度だけこの空と海が見たかった。
もう惑わされたくはないと思っていたこの蒼に、一度くらいは素直に無心に抱かれたくなった。
それは未練だと揶揄されようとも、構いはしない。
頑に退けていた記憶を流れ出すに任せて脳裏に映し、気の赴くままに反芻したかったのだ。
サイファーは深く息を吐き、再び記憶のせせらぎに身を投じた。
薄い瞼ごしに明滅する陽光がまぶしく、頬を撫でる潮風が優しい。
あまりにも多くの事がありすぎて翻弄され続けたはずなのに、ここにこうしているとまるで何事もなかったかのようだ。
(‥‥笑える、な。)
この俺が、こんなにも感傷的な溜め息をついてる図なんておよそ似合わない。
奇妙に可笑しくて、自然とくぐもった笑いが漏れる。
と、それに呼応するかのように、突然真上から声がした。

「なんだ。寝てねえじゃん。」

記憶の波間に遊ぶあまり幻聴を聞いたのだと思った。
俺も相当ヤキが回ったな、と瞼を伏せたまま呆れていると、再び声は言った。
「相変わらず釣れてねえのな。」
幻のくせに、余計なお世話だ。
内心舌打ちをしながら瞼を押し上げると、真っ青に透き通った空を切り取って逆さまの顔があった。
背景に背負った空よりもさらに深い蒼い瞳が、何かを注ぎ込むようにサイファーを見つめている。

幻、ではない。
現実だと解った途端、サイファーはがばりと跳ね起きた。
ゼルもまたぎょっとしたように飛び退き、体勢低く身構える。
「な、なんだよ、びっくりするじゃねえか!」
鼻筋に寄った小さな皺が、うっかり尻尾を踏んづけられた山猫みたいだった。
呆然とその皺を見据えたまま、狼狽で自然と剣呑な声になる。
「それはこっちの台詞だ。なんで、テメエがここにいる。」
ゼルはむっとしたように口を尖らせた。
「なんでって。言ったろ、オレの実家はここなんだよ。」
「そういう意味じゃねえ。」
苛々と口端を歪めると、ゼルは一瞬問い返すような顔になったが、すぐにああと言葉を濁した。
「‥‥声、かけちゃいけなかったか。」
「‥‥。」
「寝てるとばっか思ったから。‥‥ワリ。邪魔なら消える。」
そう言って、ぱっと身を翻そうとする。
「待て。」はっとした次の瞬間、咄嗟に言葉が滑り出た。
「行くな。ここにいろ。」

ゼルは立ち止まり、振り返った。
びっくり箱を開けた子供みたいな大きな瞳が、呆然とサイファーを凝視する。
無理もない。
呼び止めたサイファー自身でさえ、己の言葉に驚いていたのだから。
「‥‥突っ立ってねえで座れ。」
ぎこちなく顎で傍らを示すと、ゼルは不審と不安に頬を強張らせつつ、それでもおそるおそる近付いて隣に腰を下ろした。
「邪魔じゃねえ、のか?」
もぞもぞと居心地悪げに膝を抱えて問うゼルに、サイファーは無言で首を振ってみせた。
だがそれでもやはり落ち着かぬのだろう、靴紐を弄びながらしばらく黙り、やがてぽつりと呟く。

「一年ぶり、だよな。」

ここでこうして出会うのが、なのか。
それとも、こうやって言葉を交わすのが、なのか。
どちらとも取れる含みを残して、それきりまたゼルは黙った。
繰り返し寄せる波の音だけが、二人の間の沈黙を埋めていく。
どのぐらい経ったのか。
吹き付ける潮風が寒かったものか、突如ゼルが小さくくしゃみをした。
サイファーははた、と顔を上げた。
「ゼル。」
「あ?」
「今さらだが一応言っとく。」
釣り糸の先を見据えながら、低くゆっくりと唇を開く。
「俺は、テメエに惚れてる。今までも、これからもだ。」

ゼルがはっと息を呑むのが解った。
視界の隅で、漆黒のタトゥーが刻まれた横顔に緊張が走る。
「テメエがどう思おうと‥‥何があろうと。この気持ちだけは変えられねえ。それが解った。」
心は、不思議なほど穏やかだった。
思うがままに素直に言葉を発する事は、こんなにも容易い事なのかとサイファーは苦笑した。
今まで感情をねじ伏せるために終始払ってきた苦痛が、心底馬鹿馬鹿しくなる。
こんなに簡単な事だと最初から解っていたなら、無駄な遠回りなどせずにおれたものを。

ゼルはゆっくり向き直ると、どこか怒ったような、というより、複雑で名状しがたい感情を持て余して結局怒るしかない、という顔をした。
「‥‥忘れたんじゃ、なかったのかよ。」
「できりゃあ忘れたかったがな。どうにも忘れられねえ事っつうのもあるってこった。」
サイファーがさらりと流すと、さらに鼻先に微かな皺が寄る。
「んな事言って‥‥いいのかよ。」
「ああ?」
「スコールの事とか。どうなんだよ。」

心の水面に微かなさざ波が立った。
平らかな面の上で指先に引っ掛かるかぎ裂きのような、小さな不快感が胸をよぎる。
やはり、真っ先に気にするのはその事、か。
だが、それもいたしかたのない事だ。
「‥‥もう終わった。」
淡々と、サイファーは言った。
「テメエにとっちゃ、俺がスコールとうまく行きゃあ、丁度いい厄介払いになったんだろうが。‥‥ワリいな、どうにもダメだ。」
言い放つ己の口調は、まさにあの時のスコールそっくりだ。
そう思うと、自嘲せずにおれない。
「だが、心配するこたねえ。もうテメエには近付かねえからよ。」
「え?」
「俺はテメエに惚れてるが、それでテメエを困らせるつもりはねえ。ちゃんとテメエの前からは消えるから安心しろ。」
「消える‥‥?」
ゼルは、まるで見えない何かに頬を張り飛ばされたかのように目を剥いた。
「‥‥なんだよ‥‥それ。」
「‥‥。」
「消えるって。ガーデンを出てくって事、かよ。」
「ああ。」
ぶっきらぼうに頷くと、見る見る内に不満げな顔になる。
「なんでだよ。」
「だから今言ったろう。」サイファーは浅く嘆息した。
「聞いてねえのか、チキン野郎。俺はこれ以上テメエを困らせたかねえんだよ。」
「だから、なんでだよ! そんな‥‥そんな勝手な理由、はいそうですかと納得できるかよ!」

突如激したゼルに、サイファーは訝しさを感じて眉をひそめた。
「勝手? 何が勝手だ。それがテメエの身のためだろうが。」
何を怒ってるんだ、こいつは。
ここは、そうかと安堵されて然るべき場面のはずだ。
それなのに、何が気に入らないんだ?
「近くにいりゃあ、俺はいつまた衝動に負けてテメエを押し倒すかわからねえぞ。また傷つけられてえっつうのか?」
「だから、オレが困るとか傷つくとか、どうして勝手に決めんだよ!」
「ああ?」
サイファーは不可解さに、言葉を継げず黙り込んだ。
解らない。
こいつは何が言いたいんだ?

「‥‥目の前にぶらさがった餌なら、針ごと噛み砕くんじゃなかったのかよ。」
何かを押さえ込むように固く拳を握りしめ、震える声で、ゼルは言った。
まっすぐにサイファーを捉えている瞳に、ゆらゆらと蒼の濃淡が揺れている。
「たとえ罠でもかまわねえって。アンタ、そう言ったじゃねえか。」
「‥‥。」
「それを今さら‥‥んな、自分だけ勝手に悟っちまったような事言ってよ。じゃあ‥‥じゃあ、食い付かれちまったオレの立場は、どうしてくれるんだよ!!」

晴天だった空には、いつのまにか薄い雲が漂い始めていた。
春の陽射しはまばらに遮られ、曖昧な光と影のコントラストがコンクリートの上に踊っている。
滑らかなゼルの頬にも落ちるその光陰を、サイファーは呆然と見守った。
蒼い瞳が、光の加減でまるで泣いているように見えた。

To be continued.
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