25/いたずら


解らない、訳がない。
本当はサイファーの気持ちも苛立ちも、ゼルとて解り過ぎるくらいによく解っていた。

好きならそうなるのが自然だと強引な論理をつきつけてくるサイファーを責めるつもりも毛頭ない。
改めて自問してみても、別にそういう行為を頑に拒否しなければならぬようなこだわりがあるわけでもない。
なにぶん未知の行為だから不安はあるが、では嫌なのかと問われたら即座に首を横にふるだけの覚悟もゼルにはあった。

ただ何となく。
素直にサイファーの欲求に応じる事に、抵抗感があるのだ。
そうしてしまったら、一線を越えてしまったら、何かとてつもなく深い落とし穴が待ち受けているような気がして漠然と怖くもあった。
だが自分でもよく解らないその心理を言葉で説明するのは困難だった。
第一考えようにも説明しようにも、いざサイファーの前に出るとそれどころではなくなってしまって、結局いつもサイファーの言うところの「はぐらかす」形で逃げる派目になってしまうのだ。
はっきり説明もないままに最後には逃げるのだから、サイファーがいい加減痺れを切らすのも致し方ない事だった。

無論、そんなもやもやとしたものを抱えたままでいるのは自分だって落ち着かない。
出来ることなら抵抗感の原因をはっきりと見極めて乗り越えたいとは思ってる。
そのためには、一時サイファーと距離を置いてじっくり考える事も必要なのかもしれない。
けれど、それはあまりに堪え難く切ない事だった。
ずっと遠目に背中を追い掛けていた頃の心境を思えば、距離をおくなんて想像しただけで泣きたくなった。
やっと想いがかなったというのに、今さらあの頃には戻りたくない。
想いが通じた以上は、いつだって離れたくないし、そばにいたいし、顔を見たい。
それでなくても任務が入れば離ればなれなのだから、そばにいられる限りはそばにいて、コイツはオレが好きなんだ、オレもこいつが好きなんだと自覚していたい。
それは子供じみた単純な欲求だったけれど、単純であるが故にどうにも抑えがたく、自制もきかなかった。
だから結局もやもやとした抵抗感の正体は解らずじまいのままに、ゼルはこの一ヶ月の間頻繁にサイファーの傍らに寄りながら、空気を察してはするりと逃れるという行為を繰り返していた。

今も今とて、ゼルは無意識のうちに、混雑する食堂の人混みの中にその白い長身を目で探していた。
ちょうど午前の講義が終わったところで、最も賑やかな時間帯である。
任務もなくオフの日ならば、わざわざこんなに混み合う時間に学生らに混じって食事をする必要はないのだが、今日は午後からサイファーは任務が入っているのをゼルは知っている。
必ずやこの時間に食堂に来るだろう、と確信があった。
学生に混じってオーダーの列に並んでいるのも、一緒に食事できると期待しての事であり、カウンターに行きつくまでにはきっと現れると信じていた。
だがいくら見回しても見慣れた白いコート姿はどこにもない。
入り口の方を伺ってもあの長身が姿を見せる気配すらない。
昼食を取らずに任務に行くつもりなのだろうか。
ならば列を抜けて部屋まで行った方がいいだろうか。
憮然として首を傾げたゼルの耳に、ふと背後の学生の会話が耳に飛び込んできた。

「珍しいよな、この時間に。」
「午後からエスタ行きの任務が入ってるからじゃないか?」
「ああ、総司令官じきじきにご指名受けたってやつ?」

振り返ると、後ろに並んだ学生の一団が声を潜めるようにして囁き躱している。
彼らがしきりに視線を送っている食堂の隅につられて目をやると、そこにいたのは他でもない。
バラムガーデン総司令官、スコール・レオンハートその人だった。
確かに、珍しい事だった。
こんな混雑した食堂で食事をとっている総司令官の姿など、そうそう拝めるものではない。
一瞬驚いた後、ゼルは思わず顔を強張らせた。
スコールと言葉を交わしたのはあの日の朝が最後で、もうかれこれ1ヶ月は口をきいていない。
その後のサイファーとの事も、あえてスコールに話してはいなかった。
だが、頬が強張ったのはそうした気まずさとか後ろめたさからではない。
先程の、学生の言葉が引っ掛かったからだった。
スコールも午後から任務が入っている、しかも赴任先がエスタだという事はつまり----サイファーとスコールは今回同じ任務につくという事を意味している。
だが、スコールが一緒だ、とはサイファーからは何も聞いていない。
言わぬ方がいいと判断しての事か、言う必要もないと思っての事か。
おそらく間違いなく後者なのだろうが、しかし。

胸元にささった刺のような感触が、じわじわと鈍い痛みになって腹の底におりていった。
スコールは当然ゼルの視線になど気付くはずもなく、騒がしい周囲から独り飄然と浮いて、俯き加減に食事を続けている。
その華奢な横顔は、相変わらず可憐で様になっていた。
傍らをすりぬける女生徒ばかりか男生徒までもが、一様に感嘆とも憧憬ともとれる表情を浮かべて美貌の司令官の横顔をちらちらと見遣っていく。
ゼルはますます渋面を作ると視線をそらし、するりと行列を抜けた。
他愛もない会話を続けていた背後の学生らが一瞬口を噤み、少しびっくりしたような眼差しで、つかつかと入り口に向かうゼルの背中を見送った。


無言で部屋に入ると、サイファーは壁に立て掛けたハイペリオンのケースを床におろしているところだった。
ゼルの顔をちらりと見遣るが、不機嫌そうなその表情に特に変化はない。
それは、いつもの事だ。
好きだ惚れていると言いながら、ゼルの顔を見て嬉しそうな表情など片鱗も見せた事はない。
まるで通りすがりの通行人を眺めるような按配で、いつも無関心なのだ。
だがそれはあくまで表面上だけの事でサイファーのポーズに過ぎず、本当はゼルがそばにいる事を嫌というほど意識しているらしいのは解っている。
その証拠に、ゼルの言う事はどんな下らない話でもちゃんと聞いていて的確な相槌を打つし、呼び掛ければ即座に反応する。
こと、体が触れ、息もかかるほどに接近した時ともなれば、その翠色の瞳は凄絶ささえ帯びてゼルから視線をそらさなくなるのだ。
------最もそうなってしまったら、その時こそは逃げ時なのだが。
ゼルは入り口に立ち尽くしたまま、軽く鼻の頭を掻いた。

「なあ。昼飯、食わねえの?」
「朝が遅かった。」
にべもなく切り返して、サイファーはジェラルミンケースを床に横たえると、屈み込んでロックをはずした。
「なんだ。一緒に食えるかと思って待ってたのによ。」
「そりゃあ悪かったな。」
「ま、いいけど。」
任務に発つ前に顔が見られればいいんだし、と思いながらも口には出さず、ゼルはベッドに腰をおろしたサイファーの傍らに歩み寄った。
すぐ傍らに立って、まじまじと端正な鼻梁を見下ろし、少し躊躇ったあと、思い切って口を開く。
「今日の任務さ。スコールと一緒なのか?」
「ああ。」
「‥‥ふうん。」
素っ気ない返事に、後が続かない。
何度か唇を開きかけては言葉を呑み込んでいると、ようやくサイファーは頭を上げてゼルを見た。
「それが、どうかしたのか。」
怒った様な口調だった。
翠色の瞳は、挙動不審な人間を詰問するかのように細められている。
「どうかって。どうもしねえけど。」
つい声に刺々しいものが混じった。
突然振り向けられた疑惑の視線に、少しむっとしたからだ。
色々聞きたい事、確かめたい事があるのはこっちの方だっていうのに、なんでオレがそんな視線で見られなきゃならないんだ。
とはいえ、何を聞きたいのか、確かめたい事はなんなのかは芒洋として自分でもよく解っていないのだけれども。
サイファーは薄い唇を引き結んで探るようにゼルを注視していたが、やがてまた元のようにハイペリオンケースへと視線を戻した。
途端にゼルは心細くなった。
慌てて気を奮い立たせ、ぎこちないながらも努めて普通を装ってサイファーの隣に腰を下ろす。
ベッドのスプリングがみしりと唸って、二人の体が微かに上下した。
サイファーはハイペリオンの弾丸を手にしてためつすがめつしている。

「なあ、任務、いつまでだっけ。」
「金曜だ。」
「金曜‥‥あと三日かあ。‥‥それまでにはオレも任務入っちまうかも。」
そうなったら、戻ってきても自分はガーデンにいない。
タイミングが悪ければ一週間は会えないだろう。
ちくりと胸元に突き上げるものを覚えて、ゼルはちょっと黙り、上目づかいにサイファーの横顔を覗き込んだ。
「‥‥ずっと会えねえかもだし。餞別、やろっか?」
「あ?」
形の良い片眉を吊り上げて、サイファーが首を振り向けた。
すかさずその頬を捉えて伸び上がると、唇を重ねた。
虚を突かれたのだろう、サイファーは一瞬動きを止めたが、すぐに両腕を伸ばすとゼルの背中を抱き締めた。
そっと唇を開くと、待っていたかのように熱い舌が滑り込んできて舌をからめとる。
その艶かしくも甘美な動きに、自ら仕掛けた事も忘れてうっとりとゼルは頬を火照らせた。
ひとしきり戯れた後、湿った音の余韻を残してサイファーは唇を解放した。
「せいぜい一日分の餞別てとこだな。」
歪んだ口端が、からかうようにそう囁く。
ゼルは濡れた上唇を舌先で舐め取り、切り返した。
「なんだよ。不満そうだな。三日分欲しいのか?」
すると、翠色の双眸が不意に細められた。
背中に回された両腕に、頑な力がこもる。
ああ、ヤバい。
そろそろ限界だ。
逃げるなら今の内だと例によっての警鐘が頭の片隅で鳴り響く。
だが口づけの余韻に酔っていた唇は、己の理性が留めるより早く言葉を刻んでしまっていた。
「欲しいなら‥‥やろうか? 三日分。」

次の瞬間、サイファーの左腕がゼルの腰を抱え上げるように持ち上げ、同時に右腕が肩を引き付けた。
あたかも水中からすくい取られる魚のようにあっさりとベッドに押し倒され、ゼルは息を呑んだ。
頭の中で、まずい、駄目だという警鐘が喧しいくらいに鳴り喚いている。
だが一方で、ゆっくりと躯を撫で降りていくサイファーの掌は柔らかくて温かくて、どうにも振払うのが躊躇われた。
このまま、流されてもいいのか?
いや駄目だ、やっぱり出来ない。
相反する二つの意識がせめぎあい、互いの尾を追い掛け合う犬のようにめまぐるしく頭の中を駆け巡る。
その間にもサイファーの掌はそつなく上着をたくしあげ、直に肌に触れてくる。
柔らかな唇が、頬のタトゥーをなぞって幾度も口付ける。
ああ、もう、いいや。
このまま流されてしまえ、と吠えたてる意識が、とうとう押しとどめる意識の尻尾に噛み付き引き摺り下ろしかけたその時だった。

不意に誰かの顔が脳裏をよぎった。
白く華奢で美しい、俯き加減の横顔。
物憂げな青灰色の瞳、柔らかな髪、花びらのような唇。

たちまちゼルは雷に撃たれたように硬直し、次の瞬間にはサイファーの躯を突き飛ばして跳ね起きていた。
「やっぱ、やめた!」
たくしあげられていた上着を引き下ろし、激しく高鳴る胸元を押さえてベッドから飛び下りる。
「その、やっぱ餞別じゃなくて‥‥帰って来てから、な。」
しどろもどろに呟きながら、サイファーの背後へと距離を置く。
サイファーは、ベッドの上に片膝と片腕を残したままぐいとゼルを振り返った。
「貴様‥‥。」
翠色の瞳が、ぞっとするほどの怒りを孕んでいる。
ぞくりとするものを背中に感じ、ゼルは身震いした。
「‥‥いたずらが過ぎるぜ?」
「‥‥。」
「マジで俺の忍耐にも限界ってもんがあんだ。わかってんのか?」
地を這う様な声でゆらりとベッドから立ち上がり、サイファーはゼルに近付いた。
思わず後ずさった踵が、壁に当る。
進退窮まって、ゼルはごくりと喉を鳴らした。
ゆっくり距離を狭めてくるサイファーの表情が、逆光で殊更に凄みを増して見える。
だが切羽詰まったこの状況は、逆に腹の底に淀んでいた痛みと苛立ちを引き出す切っ掛けとなった。
ゼルはきっと顔を上げると、真正面からサイファーの顔を睨み付け、声を限りに叫んだ。

「うるせえ! アンタこそ、オレの気持ちなんかわかってねえだろ!!」
「‥‥なに?」
見えない壁に阻まれたようにサイファーの動きが止まった。
その隙に素早く横に飛び退いてサイファーの照準から外れ、入り口へとじりじりと後退する。
「テメエの気持ちだと?」
擦れた声でサイファーは顔を顰めたが、追ってはこない。
ゼルは後ろ手にドアの開閉ボタンを探り当てると、大きく息を吸い込んだ。
「オレは‥‥オレは、怖えんだよ!!」
「怖い? なにが。俺がか。」
「そうじゃねえ!」
苛立ちに地団太を踏み、ゼルは頭を振った。
「もし、もしオレとそういう事になったらアンタは‥‥。」
途端に、脳裏の隅にあの少女のような白い横顔が閃いて、はっとして口を噤む。
サイファーはゼルを睨み付けたまま低く呻いた。
「俺は、なんだ。」
「‥‥なんでも、ねえっ!!」
ゼルは背後のボタンを押し込んで身を翻し、捨て台詞に叫ぶや否や、開いたドアから外に走り出た。

そうだ。怖い。
怖いのだ。

廊下を駆け抜けながら、ゼルはようやく正体の知れた自分の感情の正体に愕然としていた。
自分は、恐れているのだ。
サイファーと一線を越えたその後の、サイファーの態度を。

サイファーとスコールの間にそういう事があったかどうか、今さらあえて尋ねる事は出来なかったが、あのサイファーの事だから恐らくあったのだとゼルは思っていた。
だがそれはそれで仕方ない、済んだ事だと諦めもついているし、もう終わった事だと頭では解っているつもりだ。
ただ心のどこかで、スコールへの劣等感だけは今もなお疼き続けている。
もしサイファーが、まだ少しでもスコールの事が好きだったら。
もしこの先、スコールとオレとを比べるような事があったら。
どうせ自分はかなわないに決まっている、という引け目や負い目が、しつこい錆のようにこびりついているのだ。
それは、容姿とか人格とかに限った事ではない。
サイファーの欲求に応える行為だって、到底自分がかなうとは思えなかったのだ。

身体を許してしまったら、きっとサイファーは比較する。
それが、無性に怖い。
なんだこんなものかとあっさり引かれてしまうのが、怖い。
スコールの方が良かった、なんて溜め息混じりに呟かれでもしたら、オレは、きっと、耐えられない。

だから、この現状を壊したくないのだ。
サイファーが苛立ちをもってゼルに執着している、今の状況を保っていたかった。
あくまでキスどまりの関係を保ち続けていれば、自分はいつまでもサイファーに執着していてもらえる。
だから、つまり、オレは。
目の前に餌をぶら下げながらお預けを食らわせるという姑息な手段で、サイファーをつなぎ止めておきたいだけなのだ。

肩で息をしながら自室に辿り着いたゼルは、一目散にベッドに倒れ込んだ。
己の姑息さが、サイテーだ、と思った。
けれど、こみ上げるその自己嫌悪とやり場のない怒りをどうやって拭えば良いのか解らない。
ゼルはきつく奥歯を噛み締めると拳を振り上げ、力任せにスプリングを殴りつけた。

To be continued.
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