26/ギフト
日中吹きすさび続けていた風が、日暮れと同時にようやく止んだ。
じりじりと足の裏を焼くように疼いていた赤土の大地も、急速に冷えゆく辺りの空気に宥められ、意気消沈したようにしっとりと夜露を滲ませ始める。
北東にはノルテス山脈の峰々がそびえ、空の濃紺色に輪郭を滲ませていた。
この山のいずこかに潜む凶暴な獣を求めて、明日はこの険しい稜線を嫌というほど徘徊する事になるだろう。
今日は早目に休息を取って体力を蓄えておくに越した事はない。
それを重々承知しているSeeDの面々は、早々に夕食も済ませると、さっさと車に引き上げてしまった。
人気の失せたキャンプの天幕が、そよぐ夜風に緩やかに波打っている。
夜気の冷たさは、孤独を煽るように四肢を包み込む。
見回したところで辺りには、空の濃紺色と大地の暗褐色の二色以外、めぼしい色彩はない。
月すらも出ておらず、曖昧な星明かりだけでは視界もままならない。
だが、物思いに耽るには、その単調な静けさがむしろ有り難かった。
サイファーはすっかり火の落ちたストーブの傍らに、長い脚を投げ出した。
何が、怖いというのか。
耳にこびりついたゼルの台詞が、幾度もリフレインしていた。
もしそういう事になったら、一体なんだというのか。
問題を突きつけられながらもその問い自体が中途半端に途切れているために、どういう方向性で答えを導き出して良いかすら解らない。
行為自体が怖いのなら、まだ解るし対処の仕方もあるが、どうやらそうではないらしい。
では、ゼルが恐れているのは何なのだ?
「冷えるぞ。」
背後で唐突に呟かれ、サイファーは我に返った。
振り返るよりも早く、足音が傍らに近付く。
「考え事なら車の中でも出来るんじゃないのか。頭を冷やしたいんなら別だが。」
今度はすぐ隣から降ってきた声に、サイファーは不機嫌に応じた。
「ほっとけよ。世話やきな総司令官殿だ。」
「あんたの事はほっとけない。そう言ったろう。」
淡々とした口調だった。
意味深でありながら、その実まったく意味などないかのような、無感情な声。
サイファーは視線を上げて、闇にうっすらと浮かぶ白皙の総司令官の顔を見た。
スコールはそびえる稜線の頂上を見上げている。
「任務に身が入らないみたいだな。まあそれはいつもの事だが、今日は特に上の空だ。」
「‥‥。」
「何かあったのか。」
「は。何か、たあなんだ。」
「だからそれを聞いている。」
スコールは別に苛立った風もなく、無表情のままサイファーを見下ろすと、小さく首を傾げた。
「ゼルとは、どうなんだその後。」
内心ぎょっとしたが、どうにか平静を装って口角を歪める。
「‥‥なんでんな事を聞く。」
「あんたの考え事といったら、どうせその事に決まってる。」
「うるせえ。」
図星をさされて、忌々しさにサイファーは舌打ちをした。
スコールは笑うでもなく臆するでもなく、何ごとかを思案するような顔付きでしばらくサイファーを見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「何があったにしろ、あるだけ幸せだ。」
「ああ?」
「悩むのも迷うのも、そこにそれだけの感情があるからだろう。」
「‥‥。」
「ただならぬ感情があるからこそ、トラブルになる。そう思えば、悩むのも迷うのも‥‥お互いの心を試すために、神様がくれた贈り物みたいなものなのかもしれない。」
「神様、だと?」
サイファーは鼻で笑った。「馬鹿馬鹿しい。」
「神様じゃ不服か。」
「貴様がんな信心深かったとはお笑いだな。んなもん誰が信じるかよ。」
「なら。俺からの贈り物だ。」
「なに?」
「順調にいかれたんじゃ、俺としては面白くないからな。」
思わず顔を上げたが、当のスコールは至って飄然としていた。
あくまで冗談のつもりだったのだろう。
その白く透き通った横顔には、別に嫌味も恨みがましさも浮かんではいない。
もし仮に追求したとしたら、冗談に聞こえないのはあんたに後ろめたさや疾しさが残っているからだろう、とでも切り返されそうだった。
ふと、サイファーの脳裏に小さく閃いたものがあった。
そういえばあの野郎。
任務がこいつと一緒だという事を気にしていた。
こいつから貰った指輪の事も、何やら引っ掛かっているようだった。
もしかしたら。
スコールの事にはもうこだわっていないなんて、ゼルの虚勢に過ぎないのではないのか。
口に出してこそ言わないが、本当はずっとその事が、心の底にわだかまり続けているのではないのか。
嫉妬とまではいかなくても、無視できない小さな傷跡が依然として残っているのだとしたら‥‥。
「どうした。」
凝視するサイファーに気付いてスコールは眉をひそめた。
「いや‥‥なんでもねえ。」
サイファーは首を振って、思念を払い除けた。
スコールはそうか、と頷くと、躊躇う風もなく踵を返した。
「なら、早く寝ろ。明日にひびく。」
「ああ。」
サイファーは立ち上がり、素直にスコールの後に続いた。
そんなふたりのSeeDの背中を、黒々と立ちはだかる高峰が、どこか不安めいた眼差しで見送っていた。
この三日の間に、どうやらこれという任務はなかったらしい。
ガーデンに戻り、報告書を出しがてら部屋に行ってみると、ゼルはあからさまに退屈した顔でTボードを弄り回していた。
「お。おかえり!」
顔を見るや否や、Tボードを横に押しやり、満面の笑顔で弾かれたように立ち上がる。
捨て台詞で別れた事などすっかり忘れているらしいその様子に、サイファーは少しだけ安堵した。
「早かったじゃん! 夜になるかと思ってた。」
「まあな。」
駆け寄ったゼルはサイファーの顔を覗き込んだが、ふと不思議そうな顔になって一歩下がり、サイファーの全身を眺め回した。
「あれ。もしかして自分の部屋戻らねえでまっすぐきたのか?」
「ああ。」
ゼルの注目を浴びているハイペリオンのケースを床に置き、サイファーはまっすぐにゼルの顔を見下ろした。
「早くツラが見たかったからな。ワリいか。」
ぎょっとしたように蒼い瞳が大きく開かれ、眦がみるみるうちに淡いピンク色に染まる。
サイファーは素早くその頬を両手で捉えると、仰向かせ、唇を重ねた。
「‥‥ん‥‥」
首を振って逃れようとするのをさらなる力で抑えつけ、丹念に歯列の裏側までも味わう。
掌の中の頬が見る間に熱を帯び、押し返そうとしていた腕の力が不意に緩んだ。
すかさず唇を離して、小柄な躯を抱え上げ、大股にベッドに歩み寄る。
「え、な、なに?」
ゼルは狼狽して目を剥き、両足をばたつかせた。
「ちょっ‥‥ま、待てって!」
「うるせえ。」
サイファーは荒い動作でゼルの躯をベッドに投げだし、その上に覆いかぶさった。
「帰ってきたら、つったろ。」
「そ、そりゃそうだけど!」
喚く唇をもう一度塞ぎ、布地越しに股間に触れる。
俄にゼルは四肢を強張らせると、頭を振ってキスから逃れた。
腰を捻ってサイファーの手を避けながら、潤んだ瞳が鋭く睨み付ける。
「よせ、ってば! 何もんな‥‥がっつく事、ねえだろ!」
サイファーは動きを止めて眉をひそめ、じっとゼルの顔を見下ろした。
ゼルは涙目のまま、必死で平静を取り戻そうとして肩で喘いでいる。
「‥‥テメエよ。」
「な、なんだよ。」
「やっぱこだわってんだろ。スコールの事。」
「‥‥!」
たちまち蒼い瞳が大きく見開かれた。
その凝然とした表情に、サイファーはきつく唇を引き結ぶ。
やはり、そうか。
読みが当った事への安堵感と、できれば違う理由であって欲しかったという失望感がないまぜになる。
ゼルは沈黙したままだが、それこそ明らかな肯定の証拠だ。
サイファーは深い溜め息をつくと上体を起こし、背中を向けてベッドの縁に浅く腰掛けた。
「一体、何をこだわってんだ。もう終わった事だってえのはテメエも承知だろうが。」
半ば額を抱えるようにして、斜めにゼルの顔を伺う。
接近戦から解放されてようやくほっとしたのか、ゼルは小さく頷いた。
「んなの‥‥わかってる。」
「じゃあ、なんなんだ。」
「‥‥怖え、んだよ‥‥オレ。」
ぽつりと呟いて、ゼルは膝を抱えた。
本気で何かに怯えているようなその様に苛立ちながら、サイファーは声を低めた。
「それは前にも聞いた。だから何が怖えってんだ。」
「比べられるのが。」
「ああ?」
「‥‥スコールと比べられんのが、怖え。」
予想もしなかった意外な答えに、一瞬声を失った。
比べるだと?
この俺が?
こいつとスコールを?
しかし、そんな驚愕もすぐに呆れに変わった。
何を言ってやがるんだ、こいつは。
マジで馬鹿じゃねえのか?
「比べるわけねえだろう。」
感情がそのまま乗っかった呆れ声で上背を捻り、サイファーはゼルをまじまじと見た。
「俺がなんでスコールとうまくいかなかったか、テメエ解ってんだろ。俺がどうにもテメエを諦めらんなかったからだろうが。俺が惚れてんのは後にも先にもテメエだけだ。それを何度言ったら」
「んな事言ったって、結局は比べるかも知れねえじゃんか!」
ぴしゃりとサイファーを遮って、ゼルは鼻先を顰めた。
その依怙地な態度につられて、ついこちらも眉間に皺がよる。
「結局たあなんだ。んなこたしねえっつったらしねえんだよ。」
「解んねえだろ、そんな事。」
「解る。しねえったらしねえ。」
「いやする。きっとする。」
「じゃあ、試してみろよ。」
苛々と片膝をベッドに押し上げて、サイファーは顎をしゃくった。
「くだらねえ議論なんざしてねえで、試しに寝てみりゃいいだろ。」
途端に、ぎょっとしたようにゼルは顎を引いた。
ますますきつく己の膝を抱き締めて、しどろもどろに首を振る。
「た、試したって‥‥アンタの言う事なんか、信用できるかよ!」
「ああ?」
「だってアンタ、好きじゃなくてもそういう事はできんだろ。できるからスコールともそうしたんだろ!」
「‥‥。」
思わず、言葉に窮した。
ゼルは核心をついたとばかりに畳み掛ける。
「そしたらいくら好きだからとか惚れてるからとか言われたって、ホントかどうか解んねえじゃん! そうだろ!」
「お前、なあ。」
「でもオレはそんなのイヤだ! ただの性欲処理になるのなんか、まっぴらごめんだからな!」
「‥‥ああ言えばこう言う、か。」
これではいくら議論を繰り返したところで、埒があかない。
まるで子供の屁理屈だ。
どうしてこうも聞き分けがないのだ。
理屈がヘタクソな能無しのくせに、屁理屈だけは一人前に通してきやがって。
呆れ返ると同時に、本気で腹が立ってきた。
これまでどうにか理性で抑え込んでいた怒りが、沸々と泡立ち始める。
サイファーはぐいと上体を起こし、まっすぐにゼルの顔を睨み付けた。
「わかった。つまりテメエは、どうあってもセックスはしたくねえって事だな。」
「だからそれは!」
低い声に滲んだ怒りにさすがにまずいと思ってか、ゼルは慌てて首を振った。
だがサイファーはあえてそれを無視した。
「ああ、そうかよ。だったら。」
ベッドから立ち上がり、ゆっくりと言い放つ。
「ヤれる見込みがねえってんなら、もう貴様に用はねえ。」
「‥‥な‥!」
「‥‥って俺が言ったら、どうするつもりだ?」
ゼルの頬から、いっぺんに血の気が引いた。
続いてみるみるうちに顔が歪み、蒼い瞳が涙でいっぱいになる。
「馬鹿‥‥馬鹿野郎!!」
堰を切ったように溢れ出す涙を隠すように、ゼルは膝に顔を埋めた。
「もういい! 出てけ! 出てけよ!!」
無理矢理喉から抉り出したような、擦れた悲痛な声が叫ぶ。
サイファーは無言でベッドを離れると、ハイペリオンのケースを掴み上げた。
荒々しい足取りで部屋を出る背後で、啜り泣き続ける声がサイファーを糾弾する。
それは、ドアを閉めてもなお首筋にまつわりつき、ぎりぎりと茨のように胸を締めつけた。
また、か。
サイファーは額を押さえて廊下に佇み、淀んだ溜め息を洩した。
ゼルの態度が、その疑いが、あまりにも忌々しくてやりきれなかった。
だが、そうしたゼルの疑念を招いているのは、他ならぬ己の言動にこそ原因があるのだと思えば、またやり場のない怒りが腹の底で煮えくり返る。
確かに盛りのついた犬みたいに抱かせろヤらせろと詰め寄ってばかりいたら、引かれて当たり前だ。
スコールの事がある以上、サイファーのそうした即物的な態度をゼルが疑うのも仕方ない事なのだろう。
だがサイファーが事を急くのは、何も肉体的欲求を満たしたいばかりではない。
不安だからだ。
それでなくとも浮遊しがちなゼルの心が、いつまた自分の元を去ってしまうかと思うと、眠られぬ程に落ち着かなくなるからだ。
目に見えぬ心なんてものを信じろと言われたって、根拠も何もないままに信じる事などできない。
信じるからには、根拠が欲しい。
だから根拠として拠り所としての、確たる繋がりが欲しかったのだ。
いわばサイファーが欲しているのは、決して心と切り離された肉体ではない。
心と補い合うものとしての肉体だ。
直に触れ、熱を分かち合う事で、心身共に一体であるという確信に酔いたかったのだ。
だが、そんな繊細で情緒的な感情を、ゼルに理解させるのは到底無理だろう。
いざゼルに面と向かうと、好きなら当たり前の事だなどとあまりにも端的で誤解されかねない言葉でしか、想いを伝えられないからだ。
自分の要領の悪さや生来の天邪鬼さが今さらながら腹立たしいが、かといって歯の浮くような台詞など口が裂けても言えはしない。
どうしたら、いい。
廊下の壁に肩を押し付け、サイファーは固く瞼を伏せた。
脳裏にスコールの言葉が蘇り、思わず、皮肉の苦笑が漏れる。
「‥‥とんだ贈り物だな、ったく。」
神様だかなんだか知らないが、こんな贈り物を押し付けるとは随分と悪趣味だ。
スコールの言うようにたとえこれが試練と言うべきものなのだとしても。
こんな無意味で下らない諍いをなぜ繰り返さねばならないのか。
サイファーは壁から身を起こした。
馬鹿馬鹿しい。
だが、だからといって投げ出す事はできない。
投げ出して、結局すべてを失ってしまう苦渋を二度と味わうわけにはいかないのだ。
人気のない廊下の先を、まるで見えぬ敵がひそんでいるかのように険しい視線で睨み据える。
そして、やけに重いハイペリオンのケースの把手を握り直すと、自室に向けて重々しい足取りを踏み出した。
To be continued.
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