28/手紙


三日間、顔を見ていない。
いや、正確には三日と十五時間だ。

無意識の内に時間まで数えている自分に気付いて、サイファーは小さく舌打ちをした。
あれから、幾度ゼルの部屋に行こうと思った事か。
だがそのたびにあのやり取りが思いだされて、思い留まらざるをえなかった。
恐らく今のゼルには何を言っても無駄だし、迂闊に近付けばますます溝を深めかねない。
このまま放っておいて事態が好転するとも思えなかったが、これ以上墓穴を掘る真似もしたくない。
苛立たしい思いを抱えたまま、訓練施設と自室を往復するうちに一日たち、二日たち、三日が経った。
三日目の昨夜、訓練施設を出たところでスコールに鉢合わせた。
スコールはサイファーの顔色をみて、まだ悩み中かと呆れたように呟き、さらに雑談のついでに翌朝早くからゼルが任務に出かける事を告げた。
短い任務らしかったが、ならばいよいよ今夜こそは顔だけでも見ておこう。
その時は、真剣にそう思った。
だが、いざ部屋の前まで行くと、結局ドアをノックする踏ん切りがつかず、踵を返してしまったのだ。

ベッドの上で己の不甲斐なさに眉をしかめ、頭を巡らせて時計を見遣る。
午前七時。
とっくに、任務には出掛けてしまっただろう。
当のサイファーはと言えば、今日もまた新たな任務は入っておらず、丸一日暇を持て余すのが目に見えている。
こんな時だからこそさっさと新しい任務につければいいのだが、学園長と総司令官の采配には誰も口を差し挟めない。
身を起こし、鮮やかな朝の光が差し込む窓を見た。
たまには外に出るのもいいかもしれない。
人工的な照明と茂みの中にばかり籠っていては、なおさら気が腐るばかりだ。

ベッドを降り、シャワーを浴びるために浴室に向かおうとして、ふと煙草が欲しくなった。
入り口ドアの横に掛けたコートのポケットを探るべく、ドアに近付く。
コートの襟を掴んで、内ポケットに掌を突っ込んだその時、視界の端に見慣れぬものを見つけた。
ドアと床の隙間に、何か白いものが挟まっているのだ。
指先でつまんで拾い上げると、二つに折り畳まれた紙片だった。
開くと、何かが書きつけてある。
目を走らせた途端、その筆跡に思い当たってサイファーは硬直した。

まぎれもない。ゼルの字だった。
だが、硬直したのはそれだけではない。
そこに書きつけてあったのは、たった一行。

「もう一度、バラムの海をアンタと見たい。」

それだけ、だったからだ。
綿々と連なる詫びの言葉でもない、切々と心情を訴えかける言葉でもない。
紙片をひっくり返したり陽にすかしたりもしてみたが、書きつけてあるのは、その一行ですべてだった。
宛名も、署名すらもない。
サイファーは憮然とした。
これでは、単なる誰かの悪戯かと無視されて丸めて屑篭に放り込まれても文句は言えないだろう。
だがそこに刻まれた筆跡は、これが悪戯でないことはサイファーなら解るはずだという自信に満ちている。
確かに、あのバラムの海を。
サイファーと二人きりで眺めたのは、この世でたったひとり、ゼルだけだったから。

「‥‥任務に行ったんだろ、テメエは。」
思わず独りごちて、眉をしかめた。
バラムの海を見たいとは、一体どういう謎掛けだ?

バラムの海。
感傷的に表現するなら、何もかもがあの海で始まった事だった。
打ち寄せる蒼、降り注ぐ陽射し、傍らの笑顔。
このままでもいいか、と呟いたその同じ場所で、同じ唇が告げた好きだという言葉。
長い時間の中で、あの海で起こった出来事こそがお互いのすべてを象徴していた。
そういう意味では、その海をもう一度見たいという言葉は暗示的だ。
つまりゼルは、サイファーに何ごとか告げたい事があるという意味なのかもしれない。
‥‥では、何を告げようというのか。
嫌な予感がしてサイファーは渋面を作った。
この一ヶ月で交わされたやり取りを反芻すれば、最悪の想像が頭を駆け抜けた。
あの蒼い空と海を背にして、あの唇が、絶望的で非情な一言を口にする場面が脳裏をよぎる。

(よせ。)
サイファーは頭を振ってそれを払いのけ、固く瞼を伏せた。
もし仮に、そんな場面が現実のものになったとしても。
もう二度と迷わないと、誓ったはずではないか。
ゼルがどう思おうと、己の気持ちは変わらない。
この世で最も大切な存在であることに、誓って変わりはない。
もう終わりだ、続けられないと告げられたとしても、それがなんだ。
また自分の心を偽って煩悶の日々を繰り返すくらいなら、何もかもかなぐりすてて、どんな醜態を晒してでもお前の心を取り戻してみせる。
お前を繋ぎ止めるためなら、俺はなんだってする。
そのぐらいの覚悟は、とっくの昔についているのだ。

この三日間、苛立ちの中で幾度も反芻し、自分自身にそう言い聞かせてきた。
肉体的な交わりはどうあっても受け入れられないというなら、それでもいい。
それがゼルをそこまで追い詰めるというのなら、いさぎよく諦めてやる。
己の不安を拭うために欲した事ではあるけれど、そのために肝心のゼル自身を失うなんて本末転倒だ。
確かに俺は焦り過ぎた。
衝動に打ち勝つ事が能わなかった。
これからも、衝動との戦いだろう。
けれどそれでも、俺はアイツを失えない。
あの笑顔を、あの声を、二度と手放すわけにはいかないのだ。

改めて己に言い聞かせることでどうにか落ち着きを取り戻し、瞼を開いて紙切れを凝視した。
並んだ単語が、無機質にサイファーを見上げている。
そう、いくらなんでも考え過ぎかもしれない。
思うほど深い意味など、ないのかもしれない。
あの能無しなチキン野郎が、そんなまわりくどい謎掛けなどする訳がない。
言葉は言葉通りの意味に過ぎず、他意などないに違いない。
ただ「もう一度」という単語だけは引っ掛かる。
それは、一度はあっても二度や三度はないという意味か?
それとも、単なる言葉のあやに過ぎないのか?

考えあぐねて、サイファーは紙片から視線を上げた。
まったく、能無しのくせに意味ありげな事をしやがって。
苛立ちを手っ取り早く悪態にすり換えて、吊り下げられたコートのポケットに紙片を突っ込む。
任務自体は長いものではないと聞いているから、恐らく今日明日には戻ってくるのだろう。
とっつかまえて、これはなんだと問い質せば済む事だ。
払拭するように踵を返して、ずかずかとシャワー室に向かう。
煙草が欲しいと思った事など、いつの間にか忘れてしまっていた。


その日の午後遅く、サイファーはガーデンの正門前にいた。
SeeD候補生らの野外演習に珍しく顔を出し、炎の洞窟から帰還したところだった。
現役のSeeDは、任務さえなければいつでも望む時に、学生らの授業に指導補佐官としてつく自由が許されている。
だがサイファーに限っては、この権利を行使した事などこれまで一度もなかった。
当然、指導教官は露骨に驚いた顔をして、一体どういう風の吹き回しかと遠回しに尋ねた。
学生らに至っては、まさに青天の霹靂以外の何ものでもなかっただろう。
思いも寄らぬ鬼補佐官を前にして相当な動揺と緊張を強いられたに違いない。
炎の洞窟はさほど難易度の高いダンジョンではないのに、誤って岩から脚を踏み外す者、攻撃のタイミングをとちってボムの自爆を食らう者、そしてイフリート戦においても負傷者が続出し、結果8割の学生が攻略ならず脱落するというていたらくだったのだ。
演習終了後に補佐官として講評を述べる段で、お前ら平常心が足りねえぞと言葉すくなに最もらしい説教を垂れると、傍らで教官が世にも複雑な顔をした。
ヒヨッコ達の平常心を失わせたのはどこのどいつだと言いたかったに違いない。
だがそんな教官の表情もそれはそれでなかなかに小気味良かった。
高みの見物を決め込んで学生らの動揺ぶりを眺めたのもいい気晴らしになったし、おかげでクサクサしていた気分も僅かながら和らいでいた。

程よい疲弊がもたらす高揚感を胸に、土埃に塗れたコートの裾を翻してカードリーダーに向かって歩いていると、背後からけたたましいエンジン音が響いてきた。
振り返ると、ちょうど一台のガーデン車両が正門前を横切る道路を走り抜けていくところだった。
運転手の横顔が、視界の端を掠める。
はっとして目を見張ったが、車はスピードを緩める事なくまっすぐにガーデン裏手の駐車場入り口へと消えていく。
「早かったようだな、今回の任務は。」
傍らで、同じように車を見送った教官が何気なく呟いた。
「まあ、簡単な調査だけだったそうだから。二名もSeeDを派遣する必要もなかったのかもしれないが。」
そう言ってそそくさと歩を進め、カードリーダー前で無駄口を叩いている学生らに早く中に入れと声を張り上げる。
サイファーは我に返ると、咄嗟にその場を蹴って足早にカードリーダーに近付いた。
群れをなして通過にまごついている学生らの横をすり抜け、隣のゲートを飛び越える。
そして呆気に取られて見守る彼らを無視して、まっすぐにホールへと駆け出した。

駐車場に辿りつくのと、入ってきたガーデン車両のエンジンが切られるのは同時だった。
車から降り立った男が、歩み寄ってくるサイファーの姿を認めて驚いた顔をする。
他でもない、今朝からの任務にゼルと同行したとスコールから聞かされていた、アーヴァインだった。
「これはこれは。大将のお出迎えとは意外だなあ。」
アーヴァインは小さく肩をすくめてにやりと笑った。
サイファーは周囲を見回し、さらに止めたばかりの車の中をフロントガラスごしに睨み付けてから、苛立った声で応えた。
「黙れ。チキンはどうした。」
「あ、なあんだ。やっぱりゼルが目当てか。」
わざとらしく声のトーンを上げて、意味ありげにサイファーの顔を眺める。
サイファーは苛々とたたみかけた。
「任務に同行したはずだ。どこへいった。」
「さあ、どこかなあ? 任務遂行後は自由行動だからねえ。」
「なに?」
思わず唇を歪めて詰め寄ると、アーヴァインはついと退いた。
「まあまあ、そんな怖い顔しないで。」
宥めるようにちょいちょいと掌を振って、悠長な仕種でテンガロンハットを目深にかぶり直す。
「先に戻ってくれっていうから、任務の後バラムで別れたんだよ。」
「バラム、だと?」
アーヴァインの台詞に、サイファーははたと動きを止めた。

-----もう一度、バラムの海をアンタと見たい。
咄嗟にポケットの中の紙片を探って、固く握りしめる。

「そうだよ。あそこはゼルの実家だからね。今日は泊まって、明日には戻ってくるんじゃない?」
車のキーを掌の上で弄びながら、青い瞳が帽子のつばの下で悪戯っぽく微笑んでいる。
だが、サイファーは皆まで聞いていなかった。

バラムの海。
何もかもの始まりだった、あの海。
その海に一人佇む、ゼルの小さな背中が脳裏に浮かぶ。
次の瞬間、無意識の内に身体が行動を起こしていた。
アーヴァインの掌の上で跳ねていたキーを素早く奪い、キャメル色のコートの肩を無理矢理横に押し退ける。
「ちょっと、大将!」
驚いたアーヴァインが制止するのも無視してさっさと運転席におさまり、つい今し方眠りについたばかりのエンジンを叩き起こす。
勢いよく滑り出す車の背後で、アーヴァインが声を張り上げた。
「許可証無しで、服務規定違反だよ! 僕は始末書は書かないからね!」
だが、サイファーはよりアクセルを踏み込み、唸るエンジン音にかき消されてその声は聞こえなかった事にした。
したがって、叫んだ語尾でアーヴァインがくすりと笑いを洩したのにも、当然気付くことはなかった。

To be continued.
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