5/授業中


なんだか世界がぼんやりと霞んでいるような気がした。
窓から廊下に差込む明るいはずの朝の陽射しも、灰色の粒子を含んで靄がかって見える。
行き交う学生らの姿も、まるで半透明の膜を張ったスクリーンの向こうにあるように現実感がない。
ただ、廊下をまっすぐに伸びるリノリウムの床だけが、白くひんやりと眩しい。

だからゼルは、俯いて歩いた。
浮遊しそうな現実感を繋ぎ止めようと、規則的に足下を過ぎて行く床の継ぎ目を意識して踏み付けていく。
74本目の継ぎ目を踏み付けたところが、目的の教室の前だった。
立ち止まり、顔を上げると、ドアの前に厳めしい長衣を纏った教師がひとり突っ立っている。

(‥‥なんだ?)
ぎょっとして立ち止まったが、どうやら彼の目的はゼルにはないらしい。
硬直したゼルには目もくれず、その視線は教室内に向けられたままだ。
ゼルは仕方なく、頭を下げて教師の隣を通り抜け、教室に入った。
ささやかな疑念は残ったが、教室に入ってしまえばそこは見慣れたいつもの空間だった。

最初で最後の、授業。
そう、学生としてこの教室に踏み込む事は今後もうない。
昨日認定証をもらった新米SeeD達は、今日の夜SeeD就任式典を経て正式なSeeDになる。
これは、いわば最後の授業になる。もう、自分はSeeD候補生ではなくなったのだ。
教室の正面パネルを前に、ささやかな感傷がわく。
だがそんな淡い感傷も、すぐにまた大きな憂慮の前に呆気なく萎んでしまう。
ぼんやりとした非現実感が蘇って、たちまち視界にフィルターをかける。
どうやら今朝からずっと心を堅く覆っている憂鬱は、ちょっとやそっとの事では剥がれ落ちてくれそうになかった。

溜息をつき、顔を上げて空いている席を探した。
ぐるりと見渡し。
窓際の、一番前の席に視線が釘付けになった。
白い背中。短い黄金色の髪。横柄に椅子の背にかけられた片腕。

----サイファーだ。

途端に、霞んでいた世界が、痛みを伴うほどに鋭利な輪郭をあわらしてゼルに襲い掛かった。
ぼんやりとした膜に守られていた「現実」が露出して、昨日の出来事の逐一がまざまざと脳裏に蘇る。
四肢はたちまち強ばって、最高潮に達した憂鬱が、装甲のように重く心臓にのしかかった。

昨日、サイファーに組み伏せられたその時の事は、よく覚えていない。
多分パニックになっていたのだと思う。
ようやく感情らしいものが湧いてきたのは、自室に戻ってからだ。
最初に感じた感情は、単純な怒りだった。
サイファーの不条理な暴力に対する憤りが次から次へとこみ上げてきて、独り部屋のものに当り散らしたりした。
しかしベッドに潜り込む頃になると、今度は怒りとは別の感情が沸々と湧き始めた。
徐々に心を侵食するその感情の理由がわからず、毛布の中で苛々と何度も寝返りを打った。
それが何であるかがわかったのは、一夜が明けてからだ。
目覚めたゼルに重くのしかかってきたもの、それは堪え難い憂鬱だった。
昨日の事を、サイファーの事を思い起こすだけで。
感情は問答無用に下降線をたどり、べったりと地べたに這いつくばってしまう。
やりきれない、耐えられない。
だから無意識のうちに、世界を曖昧に遠ざけようとしていたのだ。
思い出さないように、考えないように、「現実」にフィルターをかけて。

けれど今、こうして当のサイファーを前にしてしまっては、もはや逃れようもない。
ゼルは途方にくれて立ち尽くすことしかできない。
肩を震わせて突っ立っていると、不意に背中をそっと押す者がいた。
はっとして振り返る。

スコールが、気づかわしげな瞳でゼルを見ていた。

「どうした。気分でも悪いのか。」
「‥‥あ‥‥。」
慌てて首を振り、しどろもどろに答える。
「い、いやなんでもねえ。その、サ、サイファー‥‥。」
「ああ。」
スコールは、ゼルの思惑とは別のところで納得したらしい。
小さく頷いてその美しい眉間に微かな皺を寄せた。
「‥‥監視までつけられるとはな。」
「監視?」
スコールは再び頷き、ドアの影に立つ先程の教師をそっと目の端で示す。
ああ。あれは、サイファーの監視役の教師なのか。
「この授業の後、懲罰室行きだそうだ。」
「‥‥。」
「それまで勝手な行動をしないようにという事らしい。まったく‥‥。」
仕方のない男だ、と囁くように呟いた。
そうか、懲罰室に入るのか。
ゼルはぼんやりとスコールの言葉を聞いた。
じゃあ、どっちにしろ、しばらく顔も見られないし声も聞かれないのか。
「まあ、そう言う俺も‥‥監視役のひとりなんだがな。」
「え。」
「逃げ出さないようよく見ておけと学園長に‥‥。」
スコールは言葉なかばで口を噤んだ。
正面の扉から講師の教官が入ってきたからだ。
スコールはゼルの肩を静かに叩くと、無言のまま教室の前方---サイファーの隣の席へとつかつかと進んで行った。
なんの躊躇もなくその席に滑り込むスコール。
ぎょっとしたような、サイファーの横顔。
その様子を窺いながら、ゼルは一番後ろの席にそろそろと腰をおろした。
サイファーの端正な横顔が、何ごとかをスコールに言っている。
何を言っているかまではわからないが、その不機嫌そうな様子から見れば大体の察しはついた。
なんだテメエか、と呟く、あの低い声が蘇る。

ゼルはじわりと哀しくなった。
昨日までだったら。サイファーのあんな横顔も、すぐ間近に見る事ができた。
傍らに寄って声をかけ、自分もあんな反応をもらえたはずだった。
スコールはその柔らかそうな髪をかきあげ、横顔を見せてサイファーに答えている。
女のように可憐な唇に、かすかな微笑が浮かんでいるようだった。
ゼルは思わず目を逸らして唇を噛んだ。

今さらながら。
今朝からの憂鬱の答えが、ここにあることを痛感した。
もう、サイファーの傍に無防備に近寄る事はできない。
まともに口も聞けない。
あの、くすぐったいようなわくわくするような、不思議な時間は二度と巡ってはこない。
サイファーを恐れて半径3メートル以内には足を踏み入れたがらない、他の普通の学生らと何ら変わる事のない立場に、自分は堕ちてしまったのだ。

昨日のサイファーの衝動的な行動が、ゼルにつきつけたもの。
それは「迂闊に近付いてはいけない」という厳然たる事実だった。
迂闊に近寄れば、事故になる。
それはゼルにとってのみならず、サイファーにとっても不幸な結果しか招かない。
だから近付いてはいけない。
これまでだって、それは頭ではわかっていた。
わかっていながら、まるでサイファーの忍耐を試すかのような行動を繰り返していたのだから。
(自分が、ワリイんだ‥‥。)
ゼルは俯き、学習パネルの暗い画面を睨み付けた。
昨日最初に感じた怒りだって本当は、サイファーに向けられたものではなく、あまりに短慮で迂闊だった自分自身への憤りだったのだと思う。
サイファーの気持ちを知りながら、受け入れられないとわかっていながら。
それでも弄ぶような事を繰り返したのだから。
罰があたったのだ。

静まり返った教室に、指導教官の甲高い声が授業の開始を告げた。
教官席のパネルの電源を入れながら、教官はぐるりと教室を見回す。
「昨日SeeD試験に合格したものも混じっているな。おめでとうを言っておく。」
教官がパネル立ち上げ終了を手で示すと、それぞれの席で、自席の学習パネルをオンにする電子音と、自分の名前を打ち込むキーの音が忙しなく続く。
教官は己のパネルで学生らの名前をチェックしながら、言葉を続ける。
「今後は特別な事がない限りその席に座る事もないだろう。」
と一旦言葉を切り、再び顔を上げてパネルに向かっている学生らの顔をひとりひとり確認するかのように見渡す。
その視線が、ゼルの顔でぴたりと止まった。
「だがこれからも日々向上を怠らぬように。‥‥ゼル・ディン。電源を入れたまえ。」

はっ、とした。
ぼうっとして、手が動いていなかったのだ。
教室のあちらこちらから、仄かな笑いを含んだ視線が飛んできた。
斜前の席の顔見知りの学生がそっと振り返り、合格惚けか?しっかりしろよ、と囁いて笑った。
ゼルは慌てて自分のパネルを立ち上げながら、その学生の顔を睨んでやった。
学生は笑顔のまま前を向く。

もしかしたら、サイファーも振り返っているのではないか。
ふと思った。
教官の言葉で自分がこの座席にいる事を知ったら、こちらを振り向いてくれるのではないか。
そっとパネルの陰から前方を伺う。
だが、白い背中は相変わらず前を見たままぴくりとも動く様子はなかった。
がっかりした。
拒絶するように冷たく眩しいその背中が、また哀しくなる。
隣のスコールがまた何かをサイファーに語りかけた。
それには答えているのか、長い指を持つ掌がスコールの肩あたりでひらひらと閃く。

自分に触れようとした、あの長い指先。
冷たい掌。熱を帯びた唇。
低い声。覆い被さる、重み。

ゼルは頭を振った。
‥‥忘れる、しかないのだ。
全部、なにもかも。
サイファーが抱いている感情の事も。
交わされた言葉の数々も。
雪の日の事も、放課後の事も、海でのことも昨日の事も。
サイファーと自分の間には、何ごともなかった。最初から何もなかった。
そう思うしか、ないのだ。
きっとサイファーも、望んでいるのは同じだ。
より大きな傷を招く前に、忘れた方がいい。
だからこそサイファーはあの時押し留まったのだし、ゼルを突き放したのだ。

学習パネルにゆるゆると視線を落とした。
青いディスプレイの表面を、文字や記号が淡々と滑っていく。
ところどころ留意すべき箇所を、教官がアンダーラインで示して読み上げている。
静まり返った教室。
光の満ちた、空間。
有り触れた光景、ありきたりな情景。
その単調さ、無表情さが急に腹立たしくなる。
ゼルは、ひとりパネルの陰で奥歯を噛み締めると、己の膝に痛いほどに強く爪を立てた。

To be continued.
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