8/歌


その歌は。
いや、それが歌と呼べれば、の話だが。
まるで地底から這い上がる呪詛のように、鬱々と空気を震わせ続けている。
綿々と綴られるその声には単語らしき抑揚が時折混じるものの、果たしてどこの言語なのかはわからない。
そもそも意味のある言語であるかどうか自体、疑わしい。
けれどそれは、聞くものをじわじわと追い詰めるような魔術的な旋律を持っていて、無意味なノイズと聞き流す事を許さぬ重厚さに満ちている。

(ずっと聞いてると頭がイカれそうだな。)

サイファーは眉を顰め、ハイペリオンのトリガーに掛けた指を僅かに緩めた。
撃鉄は起こしてあった。
その気になれば一瞬で、腕の下の男の頸動脈は刃面の餌食だ。
片腕で羽交い締めにした中年男は、小刻みに震えている。
時折譫言のように、助けてくれ、やめてくれと命乞いを繰り返しているが、その裏返った声と短い首にうっすらと浮く脂汗は、サイファーをますます不快にさせるだけだった。
いっそのことこのまま掻き斬ってやろうか、と先程から幾度も思っている。
だがそのたびに、この奇妙な旋律が、まるでサイファーを押しとどめるかのように聴覚に纏わりつき気力を萎えさせているのだ。
サイファーは舌打ちをするとぐるりと周囲を見回した。
無数のコードが這い回る撮影スタジオの床は、狭く雑然としていて醜い。
壁際には数人の人間が、突き立てられた棒切れのように硬直してこちらを伺っている。
その中で唯一、彼女だけが人間らしい表情を浮かべてじっとサイファーを凝視していた。
美しい頬を強ばらせて薄く青ざめた彼女、キスティスを、サイファーは少しだけ哀れだと思った。

(まだ、か?)
サイファーは、待っている。
やがて膠着状態の続くスタジオの一角に、俄に変化が起こった。
ざわめき、足音、押しとどめる声と抗う声。
ああ来たな。
サイファーは改めて腕に力を込めた。
中年男の短い喉が、ぐうと蛙のような声を漏らす。

スタジオに先頭切って走り込んできたのは、スコールだった。
リノア、セルフィ、そしてゼルがばらばらと後に続いた。
振り返ったキスティスが素早く4人を押しとどめ、スコールに目配せをする。
手をかして、と小さく唇が動いた。彼の身柄を拘束します。
スコールの頬に緊張と当惑の色が走る。
そして口調だけはいつものままに、サイファーをじっと見た。
「‥‥なにしてるんだ、あんた。」
「見りゃわかるだろうが。」
スコールにつられて、ついいつもの口調で切り返す。
「待ってたぜ、レジスタンスども。さあ、こいつをどうする計画なんだ?」
「‥‥計画?」
「この大統領を、どうにかするつもりだったんだろ?」
腕の中に締め上げた大統領に顎をしゃくると、スコールの後ろでリノアがあ、と声を上げた。
その隣で、青ざめた顔のゼルが大きく目を見張るのが見えた。
ここ数日覗き込む事ができなかった、忘れられないあの蒼い瞳。
それが、リノアの横顔を見遣り、それからゆっくり、サイファーの方へと向けられる。
目が合った。
‥‥こんな時にさえ。
なんと深く、澄んだ蒼だろう。
一瞬、この状況も忘れて駆け寄りたくなる。
何もかも捨てて、この腕に抱き寄せたくなる。
我を忘れそうになって、慌てて視線を逸らしかかった、その時。
ゼルのあどけない唇が不意に開いて、さらにサイファーを狼狽させた。
「わかったぜ。‥‥アンタ、リノアの‥‥」
「チキン野郎!喋るんじゃねえ!」
思わず怒鳴りつけた。
ゼルはびくりとたじろいたが、すぐに渋面を作って睨み返してきた。
いきなり怒鳴られた事への不当さを訴えたいらしい。
馬鹿。
テメエ、この状況をわかってねえんだな。
ここで余計な事を言うのは自殺行為なんだぞ?
だがそんなゼルの軽率さにハラハラさせられるのも、今となっては懐かしい感触だった。
そう、この危うさ。
真直ぐであるがゆえの無防備さこそ、サイファーがずっと焦がれてやまぬものだったのだから。
‥‥だが、もはやそれは、二度と手の届かない、彼方に揺らめく幻想となってしまった。
胸の奥に苦い痛みがじわりとせりあがり、サイファーは唇を噛んだ。

「一体これは‥‥どういうことなんだ?」
スコールが、呆れたような口ぶりでキスティスに問うた。
キスティスはサイファーに視線を据えたまま、声をひそめて告げる。
「彼は懲罰室を脱走したの。何人にも怪我を負わせてね。」
「‥‥。」
嘆息したスコールの後ろで、ゼルが、なんだって、と声を上げた。
サイファーは嫌な予感に再び身構えた。
言うなよ、チキン野郎。言うんじゃねえぞ、余計なことは。
だが。
蒼い瞳でサイファーを見据えて、ゼルは叫んだ。
「この大馬鹿野郎!‥‥わかったぜ、先生!」
「黙ってろ、ゼル!言うな!」
スコールがぎょっとしたように振り返って牽制したが、遅かった。
「この馬鹿野郎をガーデンに連れ戻すんだな!」

声の余韻だけを残して、瞬時にその場が凍りついた。
「ガーデン‥‥?」
「ガーデンだって?」
ぼそぼそと囁き交わされる声。
そして、腕の下で大統領が突然しゃくれた笑い声を漏らした。
「なるほど、君たちはガーデンの連中か。」
サイファーは咄嗟に、ハイペリオンの刃を太い首に食い込ませた。
しかし大統領は野卑に笑い続ける。
「ガーデンがレジスタンス活動に加担していたとはな。」
「‥‥。」
サイファーは低く舌打ちをすると、ゼルに視線を走らせた。
ゼルはこの時になってようやく己の失言に気づいたようだった。
呆然自失の表情がみるみる曇り、行き場を見失った子供のような、泣き出しそうな顔になる。
まったく。
(‥‥どこまでチキンなんだ、テメエは。)
一瞬呆れ、それはすぐに諦念の脱力感に変わった。
同時に、妙な可笑しさがこみ上げてくる。
ゼルの失言を非難する謂れなど自分にはない。
そもそも自暴自棄に飛び出してきたのは、自分なのだ。
激情に任せて懲罰室を脱走までして、ここでこんな騒ぎを起こしている以上、今さら自分の正体がばれようがガーデンの存在が露呈しようが、どうという事もないではないか。
この期に及んで尚もガーデンを庇おうなどと考えていた事の方が、矛盾だし馬鹿げた甘い感傷だ。
まったく、馬鹿げてる。
自嘲の笑いの下で、サイファーは目を眇めた。
どのみち、万事解決する方法はたったひとつだ。

ハイペリオンの撃鉄を一旦おろし、そしてまた起こし直した。
ぎょっとしたように大統領が身を竦める。

そう、今こいつの首を落とせば、リノア達レジスタンスの目的は達成される。
そうなればガーデンの立場を慮る必要もない。
簡単なことだ。躊躇う迄もない。
トリガーに指をかけ、サイファーは浅く息を吐いた。
リノアが金属質の悲鳴を上げた、その時だった。

重々しい空気の底をのたくっていたあの陰鬱な歌が突然トーンをあげたかと思うと、はっきりと意味を持つ言葉を成して響き渡ったのだ。

「可哀想な少年。」

一同は一斉にそちらを見、振り返ったサイファーは、凝然として立ちすくんだ。

なんだ、これは?

サイファーが陣取った放送席の背後の幕間に、それは立っていた。
陽炎のように揺らぐ空気に輪郭を溶かして曖昧に浮かび上がった黒い影は、咄嗟に直立した黒鳥を思わせた。
しかしその首には、透明な迄に白い肌の貌が乗っている。
女なのだと気づいた時、彼女はすでに陽炎から脱して一歩踏み出し、白い顔をサイファーに向けていた。

なんだ、こいつは?
どこから現れた?

サイファーの狼狽に答えるかのように、腕の下の大統領が掠れた声で、魔女だ、と呟いた。

「魔女、だと!?」
呪詛の歌は、いつの間にか止んでいた。
魔女は琥珀色の瞳でサイファーを視ている。
薄紫色に輝く唇が、笑うように開いた。
「少年。‥‥混乱しているのね。可哀想に。」
滑るように近付いた彼女に、サイファーは本能的な脅威を感じてたじろいた。
「さあ、行くの?退くの?お前は決めなくてはならない。」
言葉でありながら抑揚のない平坦な声は、まさにあの歌の主だった。
射抜かんばかりにサイファーを凝視した瞳は、まるで乾いたガラス玉のように瞬きすらしない。
これは。
人間ではない、と直感でわかった。
何か抗い難い、超越した力が、彼女を中心に波紋のように広がって空気そのものを畏縮させていた。
悶え捩じれる角の生えた冠を頂いた頭部を微かに傾げ、魔女はじりじりとサイファーに近付いてくる。

「お前の中の少年は行けと命じている。お前の中の大人は退けと命じている。どちらが正しいのか、お前にはわからない。」
「‥‥来るな。」
声が掠れた。
口内が、喉が乾いてひりついていた。
「助けが欲しいでしょう?この窮地から救い出して欲しいでしょう?」
「黙れ!」
濃厚な空気の圧迫感に喘ぎつつ、灼ける喉で辛うじてそれだけを絞り出す。

冗談じゃない。
俺が、救いを求めてるって言うのか?
混乱しているというのか。
俺はただ‥‥。
「前へ進みたいのでしょう?」
そうだ。前へ。
「でも向かうべき方向がお前にはわからない。」
わからない。
どっちを向けば、前なのか。
持て余す思いも、煮えたぎる焦燥も、その行き場がわからない。
「私なら、その答えをお前に与えられる。‥‥さあ、私に縋りなさい。」
‥‥すがれ、だと?

朦朧とする視界の中心で、琥珀色の虹彩がゆらゆらと揺らめく。
襲いくる厚い空気の壁が、ますます身体を締め上げる。
息苦しい。
視界が霞む。‥‥体が。
押しつぶされそうだ。
「助けを求める事は恥ではありません。‥‥お前はただの少年なのだから。」
詠うように囁くように紡がれる声だけが、やすやすと凝った空気をかいくぐり、皮膚を突き破って、身の内を犯す。
「俺は‥‥俺を少年と言うな。」
己の声は、もはや声にならなかった。まるで水中にいるように、その輪郭はぼんやりとして曖昧だ。
「もう少年ではいたくない?」
「‥‥俺は少年じゃねえ。」
すると、魔女は婉然と微笑みその漆黒の指先を延べてサイファーの頬に触れた。

途端に、空気の壁は霧散した。
窒息の呪縛から解放され、一転、無重力の空間に投げ出されたような脱力感が全身を襲った。
重心を失った積み木のように崩れ折れる身体を、しなやかな黒い両腕が抱きとめる。
冷たい大理石のような胸元が目前に迫り、視界の端には転げるようにして逃れていく大統領の姿が、ぼんやりと映った。
だがそれを最後に、辺りは眩い程の光に覆われて視界は完全に失われた。
耳元で、魔女が詠う。
「もう戻れない場所へ。さあ、少年時代に別れを。」
意識が急速に薄れていった。
水底に沈み行くような絶望と安堵の狭間で、サイファーはふと、思った。

振り返れば。
あの蒼い瞳が、見ているのだろう。
今迄も、そしてこれからも、永遠に続くであろう苦痛を強要してきた、あの蒼い瞳が。

‥‥その苦痛からも、この女は救ってくれるだろうか?
呪縛となって抜けだせない堂々回りのこの煩悶を、断ち切ってくれるのだろうか。

やがて、奇妙な旋律を伴った歌が、再び空気の底から渦巻くように這い上がり、辺りに満ちた。
それは、呆然と取り残された人々の足下をのたうつように、いつまでも、いつまでも流れ続けている。

To be continued.
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