Love In the First Degree(12)


12

傍らで、またもや小さな溜息が漏れる。
日なたで溶ける儚い淡雪のような、切なげな溜息だ。
思わず金色のトサカ頭を見下ろし、アーヴァインはもう何度目か解らない逡巡を覚えた。
寒いかいと一度は尋ねたものの、黙って首を振ったから、繰り返している溜息の原因は、この凍てつく気温ではないらしい。

もうすぐ春と呼んでいい季節ではあるが、一年の半分以上は雪に覆われるトラビア地方である。
しかもここはビッケ雪原のまっただ中だ。
幸い今日は降雪もなく風も無風に近かったが、それでも吐く息は白く、周囲の空気は吸い込むたびに気管支をちくちくと刺激する。
視界の彼方、真白な地平線には、小さくトラビアガーデンの頂きが見えている。
そのトラビアガーデンの、SeeD試験の最中だった。

かつては在籍SeeDを持たず、SeeDの実技試験はバラムガーデンに包括される形だったトラビアガーデンも、今では独自に試験を行えるほどの規模になった。
だがSeeDの数ではやはりバラムガーデンには及ばないため、こうした試験の時や大規模なオファーがあった時などは、バラムガーデンのSeeDが駆り出される事が少なくない。
今日は、たまたま任務のなかったバラムガーデンの二人が、臨時試験官としてこうして出張しているのである。

試験内容は至って平凡で、雪原に張られた試験区域の中で、幾人かの班ごとにゴージュシュールを駆逐する作戦だ。
試験官の仕事も単純であり、持ち場の範囲に受験生らが流れてきたらその行動を評価するだけである。
しかも二人に割り当てられた持ち場は試験区域の最も端で、およそここまでやってくる受験生はいないだろうと思われた。
昨今の実技試験は、かつてのゼル達のように、実戦の場をもってSeeD試験を兼ねるというような事例は至って稀だ。
アーヴァイン自身の実技試験もこうしたモンスター駆逐作戦だった。
アーヴァインがバラムガーデンに移籍し、そのまま試験を受けたのは半年ほど前──そう、サイファーがガーデンに戻ってくる少し前、のことだった。

──原因は。
サイファーのことだろうな、とあらかた想像はついた。
ゼルがこんなに意気消沈して、ぼんやりと溜息を繰り返しているなんて、他に理由が考えつかない。
それでも、あえて問い質すのは何となく憚られて、先ほどからずっと躊躇しているのだった。

突然、ゼルがくしゃみをし、アーヴァインは我に返ってゼルの顔を覗き込んだ。
「ほら、やっぱり寒いんじゃないか。」
素早く上着を脱ぎ、背中からかけてやる。
ゼルは蒼い瞳を大きく見張り、アーヴァインを見上げた。
「え。い、いいって。お前が寒いじゃん。」
「僕は平気。」
「寒くねえの?」
「大丈夫だって。君、寒がりなんだから無理しちゃ駄目だよ。」
試験時はそれが規則とはいえ、SeeD服一枚では、バラム育ちのゼルには辛いだろう。
上着の上から軽く背中を叩くと、ゼルは首を竦め、ワリいな、と小さく口籠った。
サイズの合わない上着をすっぽりと纏った様は、まるで毛布にくるまれた子犬のようだ。
いいんだよと応えながら、思わず頬がほころぶ。
ゼルは襟口に頬を擦りつけながら、ふと遠い目をした。

「なんでこんな‥‥違うのかなあ。」
「え?」
「お前は、すげえ優しいのによ。」
独り言のような呟き方だった。
アーヴァインはまじまじとゼルの顔を見直した。
蒼い瞳は虚空を見据えたまま、相変わらず物思いに耽っている。
「‥‥サイファーのこと?」
声を低めると、ゼルは一度だけ瞬き、心底困ったような笑顔を浮かべた。
「解ってるんだけどよ、仕方ねえって。あいつはオレの事なんか何とも思ってねえんだし。」
「‥‥。」
「なのに情けねえよな。どっかで諦めきれてねえっつうか。さっさと諦めて忘れちまおう、って思えば思うほど、ここが。」
と、拳で胸を押さえ、曖昧に犬歯を覗かせる。
「‥‥痛えんだ。どうしていいか解んなくなる。」
「ゼル。」
「馬鹿だよなあ。オレ。」

ぽつりと言って、それきりゼルは黙った。
項垂れた肩が、ただでさえ小柄な身体をさらに小さく見せる。
指先で触れただけで崩れ折れ、そのままどんどん小さくなって消えてしまいそうなほど、頼りなくて弱々しい背中。
普段の太陽のような眩しい笑顔を忘れ、ただ冷たく強張っている頬に、アーヴァインは胸が痛んだ。
息苦しい程の激情が突き上げてきて、もはや居ても立ってもいられなかった。

「ゼル。もう、いいから。」
肩をつかみ力をこめると、ゼルはゆるゆるとアーヴァインを見上げた。
見開かれた蒼い虹彩に、アーヴァインの顔が曖昧に映る。
「辛かったら、そう言っていいんだよ。我慢することなんてないんだ。」
「‥‥。」
「君は馬鹿なんかじゃない。情けなくなんかない。いつだってそうやって頑張ってて一生懸命で。だから僕は‥‥」

──君が、好きなんだよ。

最後まで、口にする間ももどかしかった。
そういう衝動をこらえるのには慣れていたはずなのに、この時ばかりは自制心がまったく働かなかった。
気付いた時には、漆黒のトライバルが刻まれた頬を掌で包み込み、まっすぐに、唇を重ねてしまっていた。
ゼルは瞠目し、一瞬逃れようとした。
素早く腰ごと抱き寄せて逃げ道を封じ、宥めるように柔らかく抱擁する。
初めて人に抱かれた仔猫のように、ゼルは四肢を強張らせた。
頑なに結ばれた唇を舌先で軽くなぞり、軽く吸い上げてから、唇を離す。

「君が好きだよ、ゼル。」
囁くと、先程と同じように困惑しきった顔で、ゼルは瞬いた。
「ねえ。僕じゃ駄目なのかな。僕じゃ、君を幸せにしてあげられないのかな。」
「‥‥オレは‥‥」
掠れた声をつまらせ、俯いてしまう。
「お前の気持ちは、その、嬉しい、けど。」
「けど?」
「‥‥‥‥ごめん。」
ゼルは項垂れた。
心から申し訳ない、と本気で詫びているのが手に取るように解る。
アーヴァインは目を細め、しばらく黙ってから、ふと溜息を洩らした。

「‥‥解ってる。僕では駄目なんだよね。」
「‥‥。」
「でも。そんな君を見てると‥‥アイツを殺したくなってくる。」
それは、本音だった。
サイファーさえ、居なければ。
そんな仮定は虚しい事だと解りつつも、何度そう思ったか知れない。
「‥‥アーヴァイン。」
ゼルは顔を上げ、悲しげに眉をひそめた。
「サイファーは。‥‥今のあいつは、本当のあいつだと思うか?」
「え?」
「オレは違う‥‥と思うんだ。よく解んねえけど。なんか‥‥間違ってるだけのような気がする。」
「間違い?」
訝って問い返すと、ゼルは小さく頷いた。
「ガキの頃のこと、お前なら覚えてるだろ。オレ、弱っちくてトロくさくってさ。」
「‥‥。」
「いつも皆に遅れてばっかだった。でもあいつ‥‥かばってくれたんだぜ、そういうオレの事。」
「まさか。」
アーヴァインは思わずゼルの言葉を遮った。
「かばうなんて。だっていつも君を泣かせてたのはサイファーだよ?」
「そうだけど。でも、」
と、ゼルは静かに首を振った。
「肝心な時にはちゃんと助けてくれた。あいつはあいつなりに‥‥優しいとこもあったんだ。だから。今のサイファーは、何か間違ってる。本当のあいつはあんなんじゃねえって‥‥そう思っちまうんだよ。」

アーヴァインは、黙り込むしかなかった。
確かに子供の頃、ゼルはいつもサイファーの後ばかりついて回っていた。
泣かされても小突かれても。
なぜ凝りもせずサイファーの後を追うのか誰もが不思議がったし、アーヴァインはそれをいつも歯痒い思いで見つめていた。
ゼルの言う事は本当なのかもしれない。
サイファーがゼルに優しくしている光景などまるで記憶になかったが、単に誰も知らなかったというだけの話で、本当はそうだったのかもしれない。
でもそうだとしても、今はもう皆あの頃のような子供ではないのだ。
サイファーに変わっていて欲しくない、本質はあの頃のままでいて欲しいとゼルが願うのは解る。
けれども、人は変わる。
幼い頃のまま、純粋なまま成長することなんて、普通は無理だ。
ただ一人──今、目の前で蒼い瞳を見張っている、この天使を除いては。

「君は。‥‥本当、子供の頃から変わってないよ。」
「え。」
不思議そうに、ゼルが瞬く。
──そう、僕だってもう子供じゃない。
もてあましていたもどかしい思いの正体も今なら解るし、見つめることしかできなかったあの頃とは違う。
いざとなれば、力づくで奪うことだってできる。
いや、何も力に訴えるまでもないのかもしれない。
時間をかけて少しずつ宥め諭し、そしてタイミングさえあえば、あるいは。
突然のキスに驚きながらも、こうして何事もなかったかのように話し掛けてくるゼルの態度からしても、それは決して不可能な事ではないように思える。
──でも。

「あ。終わったみてえだぜ。」

冷たい空気を掻き分けて遠くから鳴り響くサイレンに、ゼルはほっとしたように笑った。
その透き通るような笑顔を前に、アーヴァインは何だかひどく後ろめたくなった。
もしかしたら。
自分はゼルにとって、サイファー以上に邪悪な存在なのかもしれない。
どうにも、そんな気がしてならなかった。

To be continued.
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