Love In the First Degree(15)


15

なぜ、泣いているのか自分でもよく解らなかった。
累々と溢れ出る涙が新たな涙を誘い、ただ惰性で泣いているだけのような気もする。
アーヴァインは、困惑した顔でじっと見守っている。
何をそんなに困る事があるんだろうと訝ったが、ああ自分が泣いているせいだと気付いて、なんだかひどく申し訳なくなった。

アーヴァインは、いつも優しかった。
静かに見据える濃紺の瞳も、穏やかな声も、すべてがゼルを安堵させてくれた。
何もかもが優しくて、いたわりに満ちていて──それは、あまりにも。
違いすぎた。

ゼルは、小さく喉をつまらせた。
躯の火照りが引いていくに従い、己のした事の意味が、そして自分が泣いている理由が、ようやく解ってきた。
たちまち押し寄せる罪悪感に、心臓がきりきりと締め上げられ、ずきずきとこめかみが痛む。
咄嗟に両手の甲で顔を覆い、アーヴァインの視線から逃れずにいられない。

「ゼル。‥‥君は、悪くないよ。」
ゼルの心中を見透かしたように、アーヴァインは囁いた。
「僕のせいだ。全部、僕が悪い。だから君が自分を責めることなんてないんだよ。」
顔を覆ったまま、ゼルは頑に首を振った。
悪くないわけがない。
受け入れてしまったのは、他でもない自分なのだ。
いっときの衝動に流されて、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
サイファーにどんな仕打ちを受けようとも、それでも一途にサイファーだけを思い続けることが、ゼルの唯一のプライドであり依りどころであったはずなのに。
それを、自ら打ち砕いてしまうなんて。
いや、己の気持ちを裏切っただけではない。
アーヴァインの好意をいいことに、自分はそれに甘えた。
己の苦痛や寂しさを紛らわせる、ただそれだけのために、アーヴァインの想いを利用したのだ。

ゼルはきつく唇を噛んで声を押し殺した。
頭上で、アーヴァインが深い溜息を洩らす。
「後悔、してるんだね。」
間近だった息遣いが遠ざかり、ベッドがきしんだ。
起き上がったアーヴァインは、背中を向けたまましばらく黙っていた。
薄暗く静まり返った部屋の中に、噛み合わない二人の呼吸だけが交錯する。
やがて、溢れ続けていた涙がようやく収まり始めた頃、アーヴァインはゆっくり半身を捻って振り返ると、いつも通りの穏やかな口調で問いかけた。
「ねえ、ゼル。そんなにサイファーが好き?」
思わず、アーヴァインの顔をうかがった。
アーヴァインは小さく首を傾け、答えを促す。
「‥‥好きだ。」
ゼルは泣き腫らした瞼をしばたたいて頷いた。
「どうして?」
「どうして、って‥‥。」
汚泥のようにまとわりつく罪悪感も一瞬忘れ、ゼルは逡巡した。
理由なんて、解らない。
いや、そもそも理由なんて必要だろうか。
そばにいたいと願うこと、声を聞いて触れていたいと望むこと、後にも先にもただそれだけで、そこに理由があるかどうかなんて、今まで考えたこともなかった。
ゼルはのろのろと躯を起こした。
脱ぎ捨てられた服を漫然と探りながら、言葉を探しあぐねる。
だが、結局出てきたのは素朴な疑問だった。

「お前は‥‥なんでオレがいいんだ?」
「え?」
虚をつかれたようにアーヴァインは眉尻を下げた。
「お前はオレが好きだって言うけど。‥‥なんでオレなんだ? お前、女の子にもすげえモテんだろ。なのに、なんで。」
「‥‥それは。」
すかさず口を開きかけながらも、まるで見えない壁に行く手を塞がれたかのように、アーヴァインは黙った。
ゼルは小さく首を振ってみせた。
「オレだって同じなんだ。なんでサイファーがいいのかなんて‥‥解んねえんだよ。」

引っ張りだした下着をぎこちなく身につけ、シャツに腕を通す。
動くたびに躯の芯に残る余韻が疼いて、たまらなく辛い。
露な肌を覆い隠したところで、己の犯してしまった過ちは消えないのだ。
──サイファーが、もし知ったら。
どんな顔をするのだろう。
嘲笑されるか、まったくの無関心か──いずれにせよ問題はサイファーの反応ではない。
一途さを貫けなかった、己自身の意思の弱さだ。
二度と顔を見せるな、と言われたのは確かに堪え難いほどのショックだった。
けれども、だからといってこんな簡単に自分の誇りを手放してしまうなんて。
なぜ、最後まで抵抗しなかったのか。
なぜ、断固として拒絶しなかったのだろう。
そうできる余地はいくらでもあったはずなのに、オレは一体。

「ねえ、ゼル‥‥。」

囁くような声に、はっとゼルは我に返った。
アーヴァインが身を乗り出し、真剣な眼差しで顔を覗き込んでいる。
「君がサイファーを好きでも構わない。僕は、いつだって‥‥君のためなら、どれだけだって待てるよ。」
「‥‥。」
「だから‥‥少しずつでもいいから。僕のこと、受け入れて欲しいんだ。」

流れるような言葉と共に、そっと唇が近付く。
ゼルは慌てて顔をそらした。
「‥‥ワリい。オレ‥‥」
しかしアーヴァインは気を悪くした風でもなく、静かに笑っただけだった。
「いいよ。何も焦ることないし。ゆっくりでいいから。」
「でも。」
「僕が、きっと君を幸せにしてあげるから。」
そう言って、温かな掌が慈しむように髪を撫でる。

──この男は、どうしてこんな時にまで優しいんだろう。
じわりとまた涙腺が緩みかかり、ゼルはふと思った。
そう、拒めなかったのは──この優しさに、抗えなかったからだ。
どこまでも静かで穏やかなこの温もりに、包み込まれて安心したかった。
そうして癒されたいと思うのは、果たして罪なことなのだろうか。

もしかしたらオレは、むしろこの優しさによりかかるべきなんじゃないのか。
素直にすべてを忘れ、水に流して。
アーヴァインを受け入れることこそ、オレに残された最良の道じゃないのか。
だって、オレは、ふられたんだ。
もう面を見せるなと言われた以上、サイファーの事は諦めるべきなのだろう。
そして、心のどこかでそれが解っていたからこそ、この男にすべてを委ねてしまったのではないのか。
何も後ろめたく思う必要などない。
罪悪感も後悔も必要ない。
オレはただ、この優しさによりかかってすべてを預けて、幸せに──。

いや。違う。

どんなに自分を納得させようとしても、落ち着かないこの気持ち。
いたたまれない、胸の痛み。
たとえどれほどの罪悪感を抱え、後悔を繰り返すとしても、自分の本心を偽ることだけはできない。
絶対に、できないのだ。

「‥‥ごめんな。アーヴァイン。‥‥ごめん。」
かすれた声で、それだけ呟くのが、精一杯だった。
詫びるべき相手はアーヴァインなのか己自身なのか、あるいはその両方なのか。
だが、ゼルの胸中に渦巻く業火のような思いを知ってか知らずか、アーヴァインは再び微笑み、頷いただけだった。

To be continued.
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