Love In the First Degree(18)


18

寝ぼけ眼で明かりを点し、ドアを開けてしばしばと瞬いた。
突然の明るさに、なかなか目が慣れない。
ともあれ、これはきっと夢なんだろう、と目覚めきれない頭でゼルは思った。
緊急の呼び出しなら電話も端末もあるのだから、こんな夜中に訪問者がある事自体ナンセンスだ。
寝入りばなに鳴り響いた荒々しいノックの音に起こされたつもりだったが、その時からしてすでに自分は夢の中にいるのに違いない。
でなければ。
こうして、開いたドアの向こうにサイファーが立ちはだかっている、なんて有り得ない光景だ。

だが、夢ではなかった。
ゼルの緩慢な反応に苛立ったのか、サイファーは舌打ちをすると強引に部屋に入ってきた。
むんずと掴まれ、突き飛ばされた肩の痛みは紛れもない現実だった。
いっぺんに目が冴えたゼルは、愕然としてこの突然の来訪者の顔をまじまじと見つめた。

──二度と面を見せるな。
ほんの数日前、確かに、この場所で。
別れぎわにそう吐き捨てたはずの酷薄な唇が、こうして目の前にある事が信じられなかった。
なぜ。どうして。
疑問符がめまぐるしく頭の中を飛び交うが、言葉にさえならない。
俺は、フラれたんじゃなかったのか?
金輪際、言葉を交すどころか顔を合わせる事さえできないはずじゃなかったのか。
棒立ちになっているゼルを、サイファーはじろじろと無遠慮に眺め下ろした。
翠色の双眸が、肉食獣のそれのようにぎらついている。
まるで獲物の品定めをされているような気分だ。
その野獣が、威嚇するように押し殺した声で呻く。

「テメエを、抱きにきた。」
「‥‥え。」
「俺に抱いて欲しいんだろ。」
ぎょっと目を見張ると、サイファーは苛立たしげにさらに唇を歪めた。
「言えよ。」
「サ、イファー?」
「抱いて欲しいって言え!」

唐突な怒号と共に飛んできた平手に頬を打たれ、ゼルはよろめいた。
身構える暇もなく両肩を掴まれ、その場に押し倒された。
固い床にしたたかに脊髄を打ちつけ、一瞬呼吸が止まる。
長身に任せてのしかかってくるサイファーの体を押し退けようとするが、力が入らない。
サイファーは腹の上に跨がると、前髪を鷲掴みに抑えつけ、さらに声を荒げた。
「懇願しろ! 泣いて縋れ!!」
「サ‥‥っ‥‥!」
「おら、言え! 抱いてくれって頼め!!」

耳鳴りがして、目眩がした。
サイファーが何を言わんとしているのか、意味が解らなかった。
ただ、この男が何かに急き立てられ、焦っているのは明白だった。
荒々しく怒鳴り付けながらもその語尾は僅かに擦れ、遮二無二抑えつけてくる両腕はあるかなしかに震えている。
ちょうど、崖っ淵に追い詰められ進退窮まって牙を剥き、一か八かの逆襲を試みる獣のような。
死に物狂いの切羽詰まった必死さだけが、痛い程に伝わってくる。

いがらっぽい唾液を飲み込み、ゼルは喘いだ。
答えなければ、と思った。
理屈ではなく本能で、サイファーの剥き出しの感情に応えるべきだと感じた。
サイファーに何があったのか、何を焦っているのか、この際そんなことは二の次だ。
今、自分に出来るのは。
からからに乾いた喉から、かろうじて声を絞り出すことだけだ。

「‥‥抱‥‥て欲しい。」
抑えつける腕が、少しだけ緩んだ。
ゼルはすかさず大きく息を吸い込み、一息に言った。
「抱いて、くれよ。サイファー。」

ぎらつく瞳を眇め、サイファーはむんずとゼルの胸倉を掴んだ。
激しく揺さぶられ、後頭部がごつごつと冷たい床に打ち当たる。
逃れようと必死でもがくと、薄い唇が忌々しげに動いた。
「いいか、言っとくがな。テメエが俺をどう思おうと、俺の知ったことじゃねえ。俺はテメエの事は何とも思っちゃいねえ。だから‥‥テメエから逃げる理由なんざこれっぽっちもねえんだ!」
「逃げ‥‥る‥?」
「テメエが望むから抱いてやる。ただ、それだけだ。それ以上の意味なんかねえ。解ったか!」
「‥‥。」
訳も解らぬまま気圧されて頷くと、サイファーはかろうじて落ち着きを取り戻したらしかった。
それきり黙り込み、胸倉を離した手で引きちぎらんばかりにシャツの裾をめくり上げる。

──どうして、なんだ。
肌を這う冷たい指の感触に竦み上がりながら、ゼルは果てのない自問を繰り返した。
二度と面を見せるなと言いながら、わざわざこんな事をする、その理由は結局解らない。
もう触れることはできない、言葉すらも交せないと絶望したのは、オレの早合点だったのか?
あれは、ほんの言葉のあやみたいなもので、サイファー自身は覚えてすらいないということなのだろうか?
解らない。
解らないけれど──でも。

──どうでもいい、や。

ファスナーをおろし臀部へとすべりおりる指先に、ゼルは小さく喘いだ。
触れられた箇所が次々と熱を帯びて、切ないほどの期待感で胸がいっぱいになる。
やっぱり、抗えない。
この男のこの指に触れられているという事実を前にしては、もう理由なんかどうでも良い。
疑念や戸惑いは、まるで水に浸された脆い砂糖菓子のように、ぐずぐずに溶けて崩れていく。
考えるだけ無駄だし、考える必要もない。
オレはやっぱり、この男が好きで──こうなる事を望んでいる。
それだけで、充分じゃないか。

アーヴァインに抱かれた時だって、内心密かに反芻していた。
不毛だと解りつつも、乱暴で冷たいこの指先や低い息遣いを思い描きながら身を委ねた。
サイファーがそんなに優しくオレに触れるわけがないのに、それでも自分を抱いているのはサイファーなんだと夢想せずにはいられなかった。
その夢が、現実となっている今、何を躊躇い抵抗することがあるだろう。

下半身を剥かれ、直の夜気にふるりと震える。
サイファーは相変わらず無言のまま、ゼルの両膝を抱え上げた。
待っているのはあの苦痛なのだろう。
わななく心で、固く瞼を伏せる。
無論、苦痛だって構わない。
サイファー自身を感じられるなら、痛みくらいいくらでも耐えられる。
けれど、そんな覚悟の一方で、針の穴ほどの小さな期待もあった。
そこが、苦痛だけでなく快感も生み出す器官なのだと今は解ったからだった。
アーヴァインにそこを開かれて知った、あの悦び。
極上の麻薬にも似たあの鮮烈な愉悦感。
それを再び、得られるかもしれない──それも、他でもないサイファーとの行為で。
そう思うと、自然に頬が火照った。
期待なんかするもんじゃないと頭では解りながらも、むず痒く下腹が疼きだすのをどうにも止められない。

突然、サイファーの動きが止まった。
気配はそのまま、近付きもしなければ遠ざかりもしない。
薄く目を開いてみると、サイファーはじっとゼルの内股に視線を注いでいた。
頬が引き攣れ、まるでこの世ならぬものを見たかのように強張っている。
ゼルは恥ずかしさよりも不安が先に立ち、緩く上体を起こしかけた。
と、すかさずサイファーは口を開いた。

「‥‥テメエ。誰と寝た。」
「え‥‥。」
「相手は。鉄砲撃ちか。」

すう、と、体中の血の気が引いた。
サイファーの双眸は、まだ内股に向けられたままだ。
恐る恐る頭をもたげて己のそこを注視したゼルは、戦慄した。
内股には、烙印が──数日を経てほとんど消えかかってはいるものの、目をこらせばすぐにそれと解る過ちの証が、点々と散っていたのだ。

「あ‥‥」
「そういう、事か。王子様は下半身も慰めてくれるってわけだ。」
「ち、ちが‥‥」
否定しようとするが、舌の根が硬直した。
何が、違うというのか。
少しも違わない。
オレは確かに、アーヴァインと寝た。
サイファーには永遠に振り向いてもらえない事に絶望して、アーヴァインに縋った。
それが事実であり、否定なんてできない。
青ざめているゼルに、サイファーは歪んだ笑いを浮かべた。

「なるほどな。二股上等じゃねえか。」
「そ、そんなんじゃ‥‥」
声を詰まらせ、ゼルは必死で頭を振った。
だが、翠色の双眸は刃のように冷たい眼差しでゼルを射た。
「何泡食ってやがる。別にテメエを責めるつもりはねえ。誰と寝ようがテメエの勝手だ。‥‥要は、」
皮肉に歪んだ口許でせせら笑い、むくりとサイファーは立ち上がった。
「要は、俺に惚れるなんざいかに不毛で馬鹿げた事か、テメエもやっと気付いたって訳だ。」

ゼルは倉皇とした。
帰る、つもりだ。
このまま触れないまま、オレの気持ちも誤解したままで。
翻るコートの裾に、ゼルは咄嗟に取り縋ろうとした。
だが、するりと腕をすり抜けた長身は、まっすぐドアへと向かっていく。

「待‥‥ってくれ、サイファー‥‥!」
からからに乾いた喉を無理に振り絞ってようやく口にしたその名にも、サイファーは振り返らなかった。
寒々しいほどに真っ白な背中はすべるようにドアをくぐり、視界から消えた。
ひたりとドアが閉まり、後に残されたのは。
ただ不気味なまでの静寂と、冷たく淀んだ夜の空気だけだった。

To be continued.
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