Love In the First Degree(21)


21

学生らでごった返す食堂の入り口に立って中を見回し、アーヴァインは眉をひそめた。
変だな、と思った。
部屋にはいなかったのに、ここにもいないなんて。
丁度昼食時のこの時間ならおそらく食堂だろうと思った当てが外れて、そぞろな不安に襲われる。

あの夜以来、顔を見ていない。
翌日から任務でガーデンを留守にしなければならず、やっと今朝遅く戻ってきたところだった。
ガーデンに戻ったら何をおいても真っ先にゼルの顔を見たいと願っていたのに、部屋にも、ホールにも、訓練施設にもその姿がなく、さらに食堂にもいないとなると、いよいよ不安にならざるをえない。
確か、今日は非番でガーデンにいるはずなのに。

他に探すべきところはどこだったろう。
考えあぐねて踵を返しかけた時、突然呼び止める声があった。
はっとして振り返ると、小柄な姿が跳ねるようにして走り寄ってくる。
「アーヴィン、おっかえりい! 任務どうだった?」
「セフィ。」
明るい笑顔と声につられて、思わず頬が緩んだ。
近付いたセルフィは、空になったトレーを手にしていた。
背後の少し離れたテーブルから、数人の女子がこちらを見ている。
彼女らと食事をしていて、ちょうど終わったところなのだろう。
「どしたん、こんなとこでぼうっとして。ごはん食べにきたんやないの?」
「あ、うん。セフィ、ゼルを見なかった?」
「ゼル?」
セルフィは不思議そうに首を傾げたが、すぐにあ、と声を上げて大きく頷いた。
「うん、会ったよ。今朝食堂の前で。」
「え?」
「なんか様子おかしかったなあ。サイファーのこと探してたみたい。」

サイファー。
またサイファーか。
咄嗟に顔を顰めたが、セルフィは空を見据えたまま首を捻っていて、アーヴァインの表情には気付かないらしい。
「でも、サイファー今日は朝からスコールと一緒で任務なんだって。さっきキスティからその事聞いたから、できればゼルにも教えてあげたいんやけど‥‥。」
「それで、その後ゼルはどうしたんだい?」
「うーん。よく解んない。エレベーターの方に歩いてったとこまでは見たんやけど。」
と、セルフィは申し訳なさそうに首をすくめた。
「そうか。‥‥解ったよ、ありがとう。」
アーヴァインは小さく溜息をつくと、手を振って廊下に出た。
せわしなく出入りする学生らの間を縫って、エントランスホールに足を向ける。
エレベーターに向かったと聞いて、そういえば上はまだ探していなかったと気付いたのだ。

足早にエレベーターに乗り込んで二階に上がった。
並んでいるのは講義室や資料室だから、ゼルが居そうな部屋はないが、デッキ辺りになら出ている可能性はある。
廊下を奥へと進んでいくと、ふと前方から、人の話し声らしきものが聞こえてきた。
声の主は複数らしく、時折頓狂な奇声や濁声が混じっている。
だがそれらは近付いてくることはなく、むしろ遠ざかり、やがて壁に吸い込まれるように消えていった。
どうやら屋外デッキ扉の手前にある非常階段を降りていったらしい。
まだ講義中の時間帯なのに、群れてこの辺をうろうろしているなんて、普通の学生なら有り得ない。
恐らく、例の風紀委員の連中だろう。
そういえばこの先には自治会室が並んでいて、風紀委員室もその一室だ。
連中はそこから出てきたのに違いない。

アーヴァインははっとした。
ゼルがサイファーを探していたのなら、風紀委員室に向かったかもしれない。
サイファーがしばしばそこに居ることは、周知の事実だ。
だとしたら、ゼルはあの連中と鉢合わせをしたことになる。
嫌な予感がじわりと胸中に広がった。
小走りになりつつ廊下を辿り、風紀委員室の札の掲げられたドアを目指した。
ドアには鍵はかかっていなかった。
ノックもせずに押し開き、中へと踏み込む。

部屋の空気は淀んでいた。
中央のテーブルの上にはごちゃごちゃとグラスやボトルが散乱し、汚れた灰皿からくすぶった煙草の煙が立ち上っている。
テーブルを囲む形で据えられたソファーには誰もおらず、一瞬部屋は無人に見えた。
だが、そのソファの足元に視線を落とした途端、アーヴァインはその場に凍り付いた。

ほとんど全裸に剥かれた肢体が、まるで人形のようにそこに転がっていた。
それが誰であるかは、瞬時に理解できた。
血の気が引き、目の前が真っ暗になる。
一体何があったのか。
なぜ、探し求めていた相手がこんなところで横たわっているのか。
その理由や状況は推測する迄もない、残酷で悲惨で、容赦のない光景だった。
アーヴァインは崩れ折れそうな目眩に見舞われ、ぐらりと壁にもたれかかった。
有り得ない。
これは現実ではない、できることならそう思いたい。
だがその時、横たわった躯が僅かに震えるのが見えた。
そこでようやく我に返り、駆け寄って傍らにひざまずく。

「ゼル。ゼル!」
何度も名を呼びながら抱き起こし、揺さぶった。
ゼルは瞼を開いていたが、その両眼はぼんやりと虚空に向けられたまま何も見ていなかった。
半開きになった唇はひどく擦れて腫れていて、僅かに血も滲んでいる。
黄金色の髪はくしゃくしゃになって額や頬に張り付き、口許から喉にかけては、粘液が流れて乾いた跡が幾筋もできていた。

きりきりと胸が締め付けられ、息苦しさにアーヴァインは喘いだ。
ゼルの体には、至る所に暴力と陵辱の跡が残されていた。
四肢には、強く押さえつけられてできたと思しき無数の痣と掻き傷、さらには歯型まであった。
臀部から太腿にかけての傷が最もひどく、局部の周囲には生乾きの血痕がこびりついている。
肌に塗り込まれた汗と唾液と体液、そして血の匂い。
それが入り交じった独特の臭気が、ぷんと鼻をついた。

とにかく、ここから連れ出さなければ。
散らばったゼルの衣服を手繰り寄せ、一度そっと横たえてから、自らのコートを脱いだ。
衣服ごとゼルの体をすっぽりとくるみ、横抱きに抱き上げる。
その振動でやっと意識を取り戻したらしく、ゼルが小さく呻いた。
しっかりと胸に抱いたまま顔を覗き込むと、初めて青い瞳の焦点が合った。
「ア‥‥ヴァイ‥‥?」
「そうだよ、僕だよ。」
応える声が、我知らず震えた。
「あいつ‥‥ら‥は‥」
「心配しないで。もういない、僕だけだ。」
噛み含めるように言うと、ゼルは腕の中でひくりと体を強張らせ、小刻みに震え出した。
「あ‥‥あいつら、に‥オレ‥‥。」
「ゼル。解ってる、大丈夫だから。」
きつく抱き締め首を振るが、ゼルは視線を宙に泳がせて、譫言のように唇を動かし続けた。
「逃げ‥‥ようとしたけど‥ワケ解んなくな‥‥て‥‥」
「ゼル。」
「‥‥あ、いつら、サイファー‥‥に。」
「え?」
「サイファーに‥‥試してみろって言われたって‥‥‥」

アーヴァインは、ぎくりとして、喉を引きつらせた。
冷たい刃を背筋に押し付けられたような気がした。
「サイファーに言われてやった‥‥あいつらがそう言ったのかい。」
「‥‥解んね‥‥え。もう、いい‥‥んだ、どうなったっていい。」
力無く横を向き、ゼルは喘いだ。
乾いた涙の跡に、新たな涙が滲んでいる。
アーヴァインはそっとゼルの体を抱え直すと、その耳元で毅然と囁いた。
「ゼル。もう喋らないで。君は何も考えなくていいから。」

ゆっくりと立ち上がってドアに向かい、外をうかがった。
今のところ、辺りに人の気配はない。
だが、エレベーターから降りてホールを通っていく訳にはいかなかった。
誰にも見とがめられずに寮に辿りつくためには、非常階段を使って、裏から行くしかない。
先ほどそこを降りていったに違いない連中と万が一にも鉢合わせたら、と思うと気は進まないが、他に道はなかった。
とにかく、この瀕死の雛鳥を、一刻も早く部屋に運んで手当てしなければ。

アーヴァインは素早く身を捻ってドアから滑り出た。
力無く身を預けているゼルの体を何度もかかえ直しながら、階段へと向かう。
首筋に感じるゼルの不規則な呼吸が今にもひっそりと消えてしまうのではないかと思うと気が気ではなくて。
なるべく静かに進もうと思いながらも、歩調は無意識のうちに早足にならざるを得なかった。

To be continued.
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