Love In the First Degree(24)


24

長い、長いトンネルを潜り抜けたような気持ちがした。
見慣れた白い天井が、部屋に満ちた陽の光を穏やかに反射している。
自分の部屋だという事は、すぐに解った。
だが何がどうなったのか、なぜこうして横たわっているのかを理解するには数分かかった。
どこからか、ひそひそと押し殺した声がする。
そっと首を捻って見回すと、ドアの近くにカドワキ先生とアーヴァインが立っていた。
アーヴァインはこちらに背を向けている。
カドワキは何かしら大きく頷いた後、会話を切り上げ、静かにドアを出ていった。
それを見送ってから、アーヴァインはおもむろにこちらを振り返った。
目が合った途端、その整った顔が柔らかく緩む。

「やあ、ゼル。起きたかい。」
滑るように近付いてくる笑顔に、ゼルはしばしばと瞬いた。
無意識に起き上がろうとするが、体が鉛のように重い。
アーヴァインはベッドの縁に腰をおろし、掌で静かに制した。
「大丈夫? 起きない方がいいよ。三日も熱があったんだから。」
「みっ‥‥か?」
「やっと熱は下がったけど、まだ本調子じゃないでしょ。」
「オレ、三日も寝てたのか?」
いがらっぽい自分の声に眉をしかめると、アーヴァインは優しく頷いた。

あれからもう三日が経つのか。
なんだかまだ頭がぼんやりとしていて、現実感が無かった。
三日前の出来事ははっきりと覚えているのだけれど、その記憶の鮮烈さに比べて感情は稀薄で、まるで平面的な映像を遠くから眺めているようで、ひどくもどかしかった。
こうして目覚めても、感情だけはまだ覚醒しきれてないのかもしれない。
ゼルは芒洋にアーヴァインを見つめた。
「お前、ずっと‥‥居てくれたのか?」
尋ねると、再び頷く。
「ここに‥‥運んでくれたのも?」
「うん。」
「そっか。‥‥あんがと‥‥。」
少し話すだけでも疲労を覚える。
声帯までもが衰弱している感じだった。
三日も寝たきりだったのなら無理もない。
元の体に戻すのにはしばらくかかってしまうだろう。
「‥‥こんなんじゃ、任務にもつけねえなあ‥‥。」
無意識に溜息まじりに呟く。
と、アーヴァインがふと笑顔を引っ込めた。
「心配いらないよ。」
「え?」
「君が休んでるのは体調を崩したからって事になってるし。カドワキ先生は口外しないって約束してくれた。だから、大丈夫。」

諭すような言葉に、ゼルは戸惑った。
アーヴァインが何を言っているのか、解らなかった。
衰えた体を戻すのにどれだけかかるだろう、と危惧しただけのゼルの言葉を、何か違う意味に取られたらしい。
口外しないって一体何をだろう。
考えていると、アーヴァインは上体を折り曲げ、静かに顔を覗き込んできた。
「大丈夫だよ、ゼル。何があったかなんて、皆は知らない。だから心配いらないよ。」

──ああ。そうか。
こんな事になって、とても皆の前に顔を出せない──ゼルがそう心配しているとアーヴァインは誤解したのだ。
確かに、道理だった。
あいつらに犯されたなんて知れたら、好奇と奇異の視線に晒されることは必須だろう。
口性ない人々に心無い中傷も受けるかもしれない。
それを思えば、こういう場合は事実を隠蔽したいと思うのが当たり前だし、人前に出るのを躊躇うのがまっとうな反応だ──けれども。
ゼルは深いため息を洩らした。

「‥‥ちがう。それは心配してねえ。」
「え‥‥?」
アーヴァインが眉をひそめた。
何となく後ろめたくて、窓の方へと視線をそらす。
「知られても、別にいい。オレ、気にしてねえし。」
視界の隅で、アーヴァインが硬直するのが解り、ゼルはますます申し訳なくなった。
いつも、そうだ。
アーヴァインを前にすると、いつもこうした後ろめたさに襲われる。
本気で自分を心配し、好意を寄せてくれているのが解るから、逐一それを裏切らねばならないことに罪悪感を覚えてしまうのだ。

「そんな事あるわけないだろ。気にしてないなんて、そんなこと。」
アーヴァインは少し怒ったように語調を強めた。
「ゼル。僕にまで強がって見せなくていいんだよ。君はショックだったはずだ。そうでなきゃ‥‥そう、きっと‥‥ショックが大き過ぎてまだ混乱してるんだ。何が起きたかも解ってない、そうなんだろう?」
ゼルは再び首を振った。
「それはねえよ。起こった事もちゃんと覚えてるし。本当に、別にいいんだ。」

奇妙かもしれないが、本当に、どうでもよかった。
こんな時、普通なら感じるであろうと思われる悲愴な気持ちは、露程も湧いてこなかった。
自分の身に起きた事だというのにまるで他人事のようで、醒めた虚無感しか感じない。
ゼルは、気付いていた。
先ほどから感情が稀薄なのは、覚醒しきれていないからではない。
元々、何も感じていないからなのだ。

「オレ‥‥お前とのこと、サイファーに知られてさ。」
ゼルは、俯き加減にぽそぽそと呟いた。
「オレの気持ちもサイファーに誤解されちまった。‥‥オレが馬鹿だったんだ。お前に甘えて、取り返しのつかねえことしちまった。‥‥だから、」
と、挟んだ呼吸が小刻みに震える。
「だから、今度の事がばれて皆になんか言われたり笑われたりしても‥‥別にいいんだ。オレは、本当にそういう人間なんだから。」
「ゼル。それは違うよ。」
アーヴァインは、低い声で遮った。
「いいかい。そんな理由で君が自分を責めたり自暴自棄になったりするのは筋違いだよ。君がこんなこんな目にあったのは、全部あいつのせいなんだ。あいつが奴らに‥‥」
「違う。」
きしむ上体をゆっくりと起こし、ゼルはまっすぐにアーヴァインの顔を見据えた。
「あいつが奴らに何か言ったんだとしても‥‥それであいつを責めるのは、間違いだ。あいつはオレのこと何とも思ってねえんだし。奴らに何言うのもあいつの自由だろ。」

アーヴァインは頬を強張らせ、普段の柔和さをどこかへ置き忘れたかのように苛立たしげな口調で言った。
「‥‥馬鹿げてるよ。サイファーを、庇うなんて。」
「庇うとかじゃねえ。本当のことだ。」
「本当のこと、って。」
困惑したように言葉を濁し、それきりアーヴァインは黙り込んだ。
沈黙の中、空調の鈍いうなりだけが空気を震わせる。
やがて、少し青ざめた顔に、諦めとも悲痛ともつかぬ難解な表情が浮かんだ。
胸の奥まで絞り出すような深い溜息に続いて、絶望的な声音が呟く。

「‥‥そんなに。そこまでして‥‥君は、サイファーが好きなのかい。」
「うん。」
「永遠にかなわないとしても? ずっと不毛なままでもいいのかい? これからもきっとまた君は傷付くよ。もしかしたら、今以上に。‥‥それでも?」
「それでも。オレは、あいつの事しか考えられねえ。」
頷いて、そっと拳を握り込む。
アーヴァインは項垂れたまま、ゆっくりと首を振った。
「‥‥つまり。僕では駄目なんだね。」
「‥‥。」
「僕なら。絶対、君を幸せにしてあげられるのに。」
「自分のキモチに嘘ついたら。幸せになんてなれねえよ。」
きっぱりと顔を上げ、ゼルは言った。
「オレはもう二度と、自分のこのキモチだけは裏切りたくねえ。」

すると、アーヴァインは微かに笑った。
「‥‥仕方ない、ね。それが君の答えなら。」
いつものように穏やかな濃紺色の瞳がゼルを見据え、優しい掌が毛布の上から膝に触れる。
「僕は従うよ。僕には、君の気持ちが一番大事だから。‥‥でも忘れないで。どんな事があっても、僕は君の友達だし、味方だってこと。‥‥いいね?」

ゼルは、ちくりと胸が痛むのを覚えた。
罪悪感で、泣きたくさえなった。
けれど、もうアーヴァインのこの優しさに甘えてはいけない。
同じ過ちを、繰り返してはならないのだ。

軽く唇を噛んだゼルに、アーヴァインは微笑んだままああそうだ、と腰を浮かせた。
「ゼル、おなかすいたでしょ。」
「‥‥あ。うん。」
「食事、食堂でもらってきてあるよ。待ってて、冷蔵庫にあるから。」
と、壁に向かってアーヴァインが一歩踏み出した、その時だった。

突然、廊下で誰かの叫び声がした。
ゼルは思わず、アーヴァインと顔を見合わせた。
ある程度の防音がなされたドアごしに聞こえてくるとなると、相当に大きな声だ。
「な、んだ?」
「なんだろう? ちょっと見てみる。」
アーヴァインはつかつかとドアに近付き、顔を出して廊下をぐるりと見渡した。

「‥‥セフィ?」
「あっ、アーヴィン!」
ドアの向こうに、ひょっこりとセルフィの頭が覗いた。
アーヴァインの長身が阻んでいるので顔までは見えないが、ひどく興奮しているような口調がはっきりと聞こえてくる。
「なんでゼルの部屋におるん?‥‥って、そんな事どうでもええわ、それより大変なんよ!!」
「どうしたんだい?」
「どうしたもこうしたも、風紀委員室がえらい騒ぎになっとるって!」
「風紀委員?」
その言葉にはっとして、ゼルはベッドの上で体を強張らせた。
セルフィは上擦った声で早口にまくしたてている。
「なんや詳しい事はよう解らんけど、あそこを通りかかった学生が通報してきたんや、大変な事になってるって。今、スコールを呼んでくるようにニーダに頼んだとこなんやけど、ウチらも風紀委員室行ってみるから、アーヴィンもはよ来て!」

最後の方は走り去りながら喋ったのだろう、ばたばたという足音と共に声は遠ざかっていった。
数人の足音らしい喧噪がその後に続いて、その後再び廊下は静まり返った。
ゆっくり振り返ったアーヴァインに、ゼルは小さく頷いた。
セルフィの様子からして、ただごとではない。
何が起きたか解らないけれど、呼ばれた以上行くべきだ。
アーヴァインは口を開きかけ、躊躇するような顔をした。
だがすぐに頷き返し、そのまま部屋を出ていった。

ゼルは固く毛布の縁を掴んで、窓の外を見た。
晴れ渡っていたはずの空は、いつのまに沸き出したのか薄暗い雲で一面を覆われて、不安げな曇天模様に変わっていた。

To be continued.
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