Love In the First Degree(25)


25

身の内で、業火が燃え盛っていた。
かつてないほどに荒れ狂う怒りの炎に巻かれ、任務明けの疲労感などとうに消し飛んでいた。
理性を失うというよりも、何も考えられなかったという方が正しい。
ただ感情に突き動かされるままに、目的の部屋を目指してサイファーは猛進した。

風紀委員室の前に立つと、中からは相変わらずの馬鹿げた騒ぎ声が聞こえていた。
耳障りで不快な、下等動物の喚き声だ。
サイファーは躊躇することなく、蹴破らんばかりの勢いでドアを蹴り開けた。
喧噪は一瞬で止み、部屋の中は水を打ったように静まり返った。
男達の視線を一身に浴びながら、仁王立ちに部屋の中を見回す。
籠った匂いに、吐き気を覚えた。
いや、匂いだけではない。
雁首を揃えてぽかんと口を開いた連中の間抜け面、その濁った息遣い、すべてが反吐が出るほどに穢らわしかった。

「よ、よう、サイファー。久しぶりじゃねえか。」
ソファの傍に立っていた風紀委員長が媚びた笑顔を浮かべ、どもりながら一歩踏み出した。
サイファーはじろりと委員長をねめつけると、無言で大股に近付いた。
委員長はぎょっとしたように固まった。
サイファーの形相にただならぬ気配を感じたのか、ひきつった頬で口を開きかける。
その、歪んだ貧相な顔を。
サイファーはいきなり渾身の力で殴りつけた。

委員長の体は浮き上がって吹っ飛び、テーブルの上のグラスをなぎ倒した。
凄まじいガラスの破壊音が空気を震わせ、委員長の体を受け止めたソファが悲鳴を上げる。
男達は弾かれたようにソファから立ち上がり、その場に凍り付いた。
一様に恐怖と困惑の色がはりついた顔で、茫然とサイファーを凝視している。
殴られた委員長だけが、ソファの上で、潰されかけた虫のように蠢きつつ悲愴な呻き声を洩らした。

「ど、どうしたんだ? いきなり‥‥」
震える声で、別の男がぼそりと呟く。
サイファーはじろりと声の主に照準を合わせると、一足飛びに近付き、鼻柱目がけて拳を叩き込んだ。
標的は悲鳴を上げ、よろめいて逃げようとした。
その襟首を引き戻し、脇腹に捻りを加えた二撃目を食い込ませる。
男はくの字に体を折り曲げて、ずるずると床に這いつくばり、そのままげえげえと嘔吐を始めた。

そこでようやく男達は色めきだち、部屋の中は騒然となった。
一人が咄嗟に逃げようとドアに突進してきたが、ドアの前に陣取ったサイファーはその腹目がけて肘鉄を食らわせ、もんどり打って転びかかったところを立て続けに数度蹴り上げた。
視界の横から、別の男が奇声を上げて拳を振り上げながら向かってくる。
すかさず躱し、横から頚椎に手刀を叩き込んで、よろめいたところを突き飛ばして局部を蹴り潰す。
男がぐえ、と奇怪な声を洩らし、派手な音を立てて転がると、今度はテーブルに最も近いところにいた男が、手近のボトルを逆手に掴んで背後から襲い掛かった。
振り下ろされる腕をはずみをつけて払い除け、手首を掴んで捻り上げてボトルを奪い取る。
そのまま容赦なく後頭部で叩き割り、床に弾けたガラスの破片の上にそいつの躯を投げ付けた。
ぎゃっと叫んでもたげようとする頭を踵でみしりと踏みにじる。
そこに、一番の巨漢である副委員長が、当て身を食らわせようと憤然と突進してきた。
寸前でいなして背後に回り込み、その肉厚な肩口に、握ったままだったボトルの残骸をずぶりとつきたてる。
副委員長は嗄れた悲鳴を上げ、肩口に刺さったボトルを引き抜こうともがきながら前のめりに崩れ折れた。
倒れたはずみにボトルは砕け、肩から勢いよく吹き出した血がみるみる床を染める。

赤い床を冷たく見下ろしたサイファーは、ゆっくりと顔を上げた。
部屋の奥に、最後の一人がいた。
逃げ場を失ってぴったりと壁にはりつき、そいつは青い顔でがたがたと震えている。
サイファーは散乱したグラスを大股に踏み越え、まっすぐ壁に近付いた。
抵抗することも忘れ、ひたすら懇願の表情で見上げてくる男の肩を無言で壁に押し付ける。
そして、おもむろに拳をかざし、その横っ面を殴り飛ばした。
男の顔が歪み、口角に血が滲む。
もう一度殴ると、今度は唇が裂け、血飛沫が溢れた。
そして、さらにもう一度。
室内に、鋭く執拗な打擲音が繰り返し響き渡った。
折れた前歯が頬を掠めて飛び、血飛沫がコートの襟に散る。
殴るたびに、男の顔はあちこちが裂け、血を噴きながらみるみる腫れ上がっていく。

繰り出せば、繰り出すほどに。
拳は熱を帯び、怒りは増長していった。
一度暴走した残酷で暴虐的な破壊衝動は、もはや制御がきかなかった。
やがて、男はひくひくと痙攣しながら、何も言わなくなった。
サイファーは舌打ちをし、ぐったりとした男の首から手を離した。
血糊でぬめる己の拳が鋭い痛みを訴えるのに気付き、見ると、いつのまにか手の甲が裂けている。
サイファーは、軽く息の上がった肩を上下させながら拳を凝視し、そして滴る血に唇を押し当てた。
錆びた鉄の匂いが、鼻腔をつきぬけた。
昇華しきれぬ残虐な衝動がさらに燃え上がり、背筋がざわざわと戦慄する。

「な、んで‥‥だ、一体‥‥」
嗄れたか細い声が背後で聞こえ、サイファーは振り返った。
委員長が、いつの間にかソファから立ち上がってこっちを見ていた。
サイファーは目を眇め、拳をおろすと、ゆっくりとそちらへ近付いた。
委員長はふらふらと後退り、よろめいて尻餅をついた。
「ま、待てよ、サイファー‥‥なんで俺らが殴られ、なきゃならねえんだよ‥‥!」
血走った目がおどおどとサイファーを見上げる。
その貧相な顔を睨み下ろしながら、サイファーはずっと押し殺していた声を絞り出した。

「貴様らの胸に聞いてみろ。」
「な‥‥に‥‥?」
「チキンに何をした。」

委員長はぎょっと目を見張り、視線を彷徨わせた。
「あ、あのチビのことかよ‥‥」
サイファーはむんずと委員長の胸倉を掴み上げ、強引に立たせた。
委員長は醜く顔を歪め、半泣きになって喚いた。
「あ、あれは! あんたが試してみろっつうから‥‥!」
しかし、彼は最後まで喚く事はできなかった。
サイファーが、渾身の拳でその横頬を殴りつけ、さらによろめいた腹部に強烈な膝蹴りを加えたからだ。
委員長は口から血の泡を吹いて、ずるずると床に崩れ折れた。
「俺がいつ『あいつで』試せっつった。」
凍てつく声を浴びせながら、うずくまった肩を踵で揺さぶり、仰向けに反転させる。
丸太のようにごろりと伸びた委員長は、ぜいぜいと喘いで何かを訴えようとした。
その顎をめがけ、反動をつけた爪先を勢いよく蹴り出す。
鈍い、嫌な音が響いた。
おそらく、顎が割れたのだろう。
委員長はくぐもった悲鳴を上げて体をのたうたせ、手足をばたつかせた。
必死で床を捉え、逃れようともがくその掌を、片足でむんずと押さえつける。
「‥‥勝手な真似しやがって。調子ん乗ってんじゃねえぞ、おら!」
怒号と共に、全体重をかかけた靴裏で二度、三度と掌を踏みつぶした。
断末魔のような鋭い悲鳴がこだまして、部屋中の壁がびりびりとわなないた。

──まだだ。まだ足りねえ。

サイファーは、歯ぎしりと共に低く呻いた。
殴っても、叩きのめしても。
身中で荒れ狂う激情は一向におさまらない。
舌の付け根に湧いた苦い唾を傍らに吐き捨て、サイファーは屈み込んだ。
潰れた掌を庇って、芋虫のように丸まろうとしている委員長の体を再び掴み上げる。
顎が割れ、すでに判別のつかぬほどに顔を腫らした委員長は、血まみれの口をさらに歪めてやめてくれ、とか細く懇願した。
聞く耳を持たず、そのこめかみを力任せに張り飛ばす。

肉が裂け、骨の砕ける感触。
むせ返るほどの、血の匂い。
暴力だけがもたらす、この酩酊にも似たカタルシス。
──だが、その一方で。
サイファーは、次第に奇妙な違和感を覚え始めていた。

何かが、おかしい。
なぜ俺は、こんなことをしている?
なぜ俺は‥‥こいつらを殴らなきゃならねえんだ?
──原因は、なんだったろう。
暴走し続けるこの怒りは、一体何を根拠に湧いてきたのか。

『乱暴されたんだよ、あの連中に。』

突如脳裏にその言葉が蘇り、ぎょっとして手を止めた。
両手から離れた委員長の躯が、スローモーションで地に落ちる。
ボロ切れのように横たわったその躯を茫然と見下ろしながら、サイファーはぐらりと足元が大きく傾いたような気がした。

『有り体に言うと、輪姦された。』

──そうだ。
あの野郎の口からそれを聞いた途端。
狂気めいた怒りが地雷のように爆発し、訳が解らなくなったのだ。
こいつらを、ぶっ殺す。
いや、殺すだけでは飽き足りない。
血流が沸騰して逆流するほどの憤怒と目もくらむほどの激昂は、確かにあの瞬間に取り憑いたのだ。

──いや、そんなはずはない。
俺はアレの事は何とも思っていない。
アレがどこでどんな目にあおうと、俺は──。

ぞわり、と悪寒が背中を走った。
頭の中で、しきりに警鐘が鳴っている。
思ってはならない、考えてはならない、忌避すべきある感情がじわじわと脳髄を侵食していく。
それはあたかも、こぼれた液体を吸ってみるみる染みを拡げるテーブルクロスのようだった。
慌てて拭き取ろうにも、一度こぼれた水は元には戻らず、もう間に合わない。
そうして変色していく己の感情を、もはやサイファーはなす術もなく見守るしかなかった。

──違う。俺は。アレを────

「なにごとだ、これは!」

割れ鐘のように響き渡った怒号で、サイファーは現実に引き戻された。
振り返ると、ドアは大きく開け放たれ、驚愕に見開かれたいくつもの目があった。
先頭でドアノブを押さえたままわなわなと震えているのは、ガーデン教師のひとりで、今しがたの怒号もこの教師のものだった。
サイファーはゆっくりと身を翻し、彼らに向き直った。

──ぽたり、と。
静寂の中、裂けた拳から滴り落ちる血の音だけが、やけに粘っこく耳の奥に張り付いた。

To be continued.
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