Love In the First Degree(26)


26

サイファーの様相は、ただごとではなかった。
怒りに燃えている翠色の瞳は、誰の目から見ても正気ではない。
血の気の失せた頬に双眸ばかりをぎらつかせ、うっそりと立ち尽くす姿は、まるで血に飢えた餓鬼か幽鬼のようだった。
入り口で凍り付いた人垣の後ろで、アーヴァインはぞくりと背筋が粟立つのを覚えた。
こんなサイファーを見るのは、初めてだったからだ。
この男の無軌道ぶりはこれまでも散々目にしてきたが、ここまで狂気じみた姿は未だかつて見た事がなかった。

一体何が起こったのか、と人々は恐る恐る部屋の中を見回した。
床に転がっている男達は、いずれも虫の息だった。
後頭部から血を流している者、鼻が潰れている者、顎が割れて歪んでいる者、手足が異様な角度に折れ曲がっている者もいる。
あるいは男達は無抵抗だったのかもしれないが、それにしても素手でこれだけの兇行を成し得たとは俄には信じ難いほどだった。
先頭にいたガーデン教師が、掠れた声を絞り出す。
「一体、これは‥‥」

すると、サイファーの薄い唇が引きつるように痙攣した。
それは歪んだ笑いにも見えた。
と思うと、突如その長い脚が足元に横たわっている体のひとつを闇雲に蹴り飛ばし始めた。
鈍い打擲音に伴い、何かが潰れる湿った音が繰り返し部屋中にこだまする。
男は延々とか細い悲鳴を上げ続けたが、サイファーはまったく躊躇もせず、はずみをつけて蹴り足を加速させていく。

一同は息をのみ、茫然とその光景を見守っていた。
男を助けるどころか、誰もがその場に凍り付いたまま、指一本動かせずにいた。
今のサイファーは、まるで制御装置が狂って周囲のあらゆるものを破壊しつくすまで暴走し続ける重装兵器だった。
迂闊に止めに入ったら、自分の命が危うい。
誰もが咄嗟にそう思い、本能的な自己防衛で、足が竦んでしまっていたのだ。
と、その時、廊下を駆けてくるなり人垣を掻き分けるようにして部屋の中に飛び込んだ者がいた。

「やめろ! サイファー、何してる!!」

張りのある声が、毅然と響き渡る。
他でもない、スコールの一喝だった。
金縛りにあったように立ち尽くしていた人々は、それで初めて我に返った。
さざ波のようなざわめきがわき起こり、先頭にいた教師がよろよろと後ずさる。
一方サイファーは、目の端でスコールを一瞥したものの、男を蹴り続けている脚を緩めようとはしなかった。
ボロキレみたいになった男は躯を丸め、げほげほと咳込んで血反吐を吐いた。
飛び散った血飛沫が床を叩いて、ぴちゃぴちゃとぬめった音を立てる。

スコールは一足飛びに駆け寄ると、サイファーの腕を掴み上げた。
「いい加減にしろ! こいつらを殺す気か!」
そこでようやく、サイファーの動きが止まった。
翠色の瞳がゆらりとスコールを見据え、忌々しげなくぐもった声が漏れる。
「殺しちゃ、ワリいか。」

スコールはさっと頬を強張らせたかと思うと、素早く掌をかざし、振り下ろした。
ぱしん、と乾いた音が空気を切り裂く。
一同ははっと息を呑んだが、最も驚いたのは頬を張り飛ばされたサイファー当人だったらしい。
まるで夢から醒めたような表情になり、茫然とスコールの顔を凝視している。
スコールはしばしサイファーを睨んだ後、緩やかに入り口の人々を振り返った。
「セルフィ。こいつらを医務室へ。」
「う、うん、解った。」
群集の前の方にいたセルフィが、ひょこりと頭を下げるのが見えた。
小走りに近付いた彼女はその場に屈み込み、横たわる男の顔を覗き込んで露骨に顔をしかめた。
「うっわ、血だらけや。誰か手伝ってえな‥‥アーヴィン!」
名を呼ばれ、アーヴァインは慌てて人の肩を掻き分け、前へと進み出た。
「他の人も、ほら、手え貸してえな!」
人垣に向かって声を張り上げるセルフィの傍らで、アーヴァインは足元に転がっている血まみれの肉塊に屈み込んだ。

ひどいなんてもんじゃなかった。
鼻と口から噴き出した鮮血で顔中血だらけで、絶え絶えの呼吸にあわせて口角に血の泡が浮いている。
鼻がひん曲がっている上に顎は陥没しており、こうして間近で見なければ、それが例の自称風紀委員長であることさえ判別しがたい。
アーヴァインは顔をしかめ、委員長の体を引き起こした。
委員長は状況がのみこめず、どうやらまた殴られると思い込んだらしい。
力無くもがき、逃れようとしたが、激痛のためかすぐに呻いて動かなくなった。

「サイファー。あんたは俺と来るんだ。」

凛とした声に顔を上げると、部屋の中央でスコールがサイファーの腕を掴み、促していた。
人垣はようやくばらけて、めいめいに難儀しながら負傷者を担ぎ上げていた。
担荷をもってこい、と誰かが怒鳴り、幾人かはばたばたと廊下を駆け抜けていく。
その喧噪の中、スコールとサイファーだけが、時が止まったかのようにその場に佇んでいる。
サイファーはスコールを睨み返すと、いまだ冷めやらぬ怒りの眼差しで、じろりと周囲を見回した。
アーヴァインと目が合い、鋭利な刃の形に細められた双眸がアーヴァインの肩口あたりを凝視する。

「‥‥ガーデンを出ていけ。」

地の底から這い出すような、陰に籠った声だった。
アーヴァインは一瞬ぎょっとしたが、サイファーの標的は自分ではなく、肩に担いでいる委員長なのだとすぐ気付いた。
部屋中にさっと緊張が漲り、一同の目が一斉にサイファーに集まる。
「二度と現れるな。もしその腐ったツラを俺やアレの前に晒しやがったら。」
と唇を歪め、サイファーは低く吐き捨てた。
「今度こそ、ぶっ殺す。」

しん、と静まり返った室内に、委員長の細く啜り泣くような呻き声だけが尾を引いた。
アーヴァインは、冷たい汗が噴き出すのを感じた。
迫力に圧倒され、誰もがその場に釘付けになって黙りこくるしかなかった。
不気味な静寂の中、サイファーはスコールの腕を振りほどくと、足元に転がった体を跨いでずかずかとドアに向かって行く。
その足取りは傲岸そのもので、己が殴り倒した男達のことはおろか、負傷者を運び出すために右往左往している人々のこともまったく意に介している様子はない。
人々は慌てて次々と道を開け、この暴君が立ち去るのを見送った。

残されたスコールは、ゆっくり頭を巡らせアーヴァインを見た。
反応に困ったアーヴァインが肩を竦めてみせると、スコールは大きく溜息をついた。

まったく。世話のやける。

美しい唇が、あるかなしかの声でそう呟くのが解った。
そして気を取り直すようにレザージャケットの襟をただし、静かにサイファーの後を追って部屋を出て行く。
アーヴァインは眉を寄せ、ぐったりとした委員長の体を担ぎ直した。
肩に食い込む重みに難儀しながら、ドアに向かう。
一歩踏み出すごとに、胸中にはどす黒く濁った澱のようなものが降り積もっていく。

──俺やアレの前に晒しやがったら。
──今度こそ、ぶっ殺す。

サイファーの最後の言葉が、わんわんと頭の中で反響していた。
なぜ、サイファーがこんな馬鹿げたことをしでかしたのか。
この混乱の最中ではその原因を訝る者はまだ誰もいないが、場の収拾がつけばおのずと追求されることになるだろう。
だがそれを待たずとも、アーヴァインには解っていた。
あの、最後の台詞。
──間違いない。
これは、サイファーの報復だ。
ゼルが受けた仕打ちへの見返りであり、こいつらが行った狼藉への制裁なのだ。

信じられなかった。
今まで彼らが行ってきた蛮行の数々を、サイファーは公然と無視していた。
それが公序良俗に反したものであろうと、犯罪めいたことであろうと、一切戒めることなどなかったはずだ。
仲がいいという訳ではないにしろ、サイファーは彼らと同類だとみなされていたのもそのためだ。
そのサイファーが、まさかこんな行動に出るなんて。
有り得ない。
しかし事実だ。
そしてその事実が示すある結論に、アーヴァインはますます眉間の皺を深くせざるを得なかった。

サイファー自身が気付いているかどうかは解らない。
だが、サイファーのゼルに対する感情は──明らかに変化を遂げているのだ。
アレのことなど何とも思っちゃいねえ、かつてそう豪語したサイファーは恐らくもう居ない。
ただの無関心な相手のために、かくも逆上し、無茶苦茶な暴挙に訴える訳がない。
ゼルのひたむきな想いの賜物か、あるいはサイファー自身に元々何らかの要因が潜んでいたものか。
いずれにせよ、サイファーにとってゼルはいつのまにか、間違いなく特別な存在となっていたのだ。

迂闊だった。
あのサイファーが、まさか「変わる」なんて。

──そう。人は変わる。
変わるからこそ、今のところは身を引こうと決めたのだ。
自分の気持ちは裏切れない、と首を振ったゼルだって、いずれは変わるかもしれない。
いつかきっと、再び機会は巡ってくる、そう確信してゼルの拒絶を許容したのだ。
だが、ゼルではなくサイファーの方が変わるなんてことは、まったく想定していなかった。

僕は、もしかしたら、とんでもない誤算をしたのかもしれない。
とっくに遠くへ去ったと安堵していたはずの敵に、知らぬ間に背後に忍び寄られ不意打ちを食わされたような気分だった。
あのサイファーが、「変わる」。
だとしたら、それは────。

To be continued.
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