Love In the First Degree(27)
27
三日のブランクは、さほど危惧したほどではなかった。
とはいえ、三十分間ぶっ通しで動き続ければさすがに息が上がってくる。
ゼルは肩で喘ぎながら、最後の右ストレートをサンドバッグ目がけて叩き込んだ。
耳障りな音をたてて、きいきいとバッグが揺れる。
今日のところは、この辺が限界だろう。
大きく深呼吸して、壁際のベンチに踵を返した。
ミネラルウォーターのボトルを取り上げ、中身を煽って、額の汗を拭う。
トレーニングルームに、他に人影はなかった。
午後の講義中の時間で、廊下もしんと静まり返っている。
崩れかかった前髪を気にしながら、ゼルはもう一度ボトルを煽った。
火照った体が徐々に冷えていくに従い、軽い疲労感が四肢に満ちていく。
体調が万全ではないのだから、早く部屋に戻って休んだ方が良い。
そう思いながらも、何となく立ち上がるのが億劫で深くベンチに沈み込む。
とその時、開け放したままの入り口に、人の気配があった。
「ゼル。無理しちゃ駄目じゃないか。」
少し怒ったように顔をしかめて、アーヴァインが立っていた。
部屋を見回し、溜息をついてゆっくりこちらに歩み寄ってくる。
「部屋に行ったらいないし。心配したよ。」
「ワリい‥‥その。どうにもヒマだったからよ。」
もごもごと口籠ると、アーヴァインは傍らに浅く腰をおろし、ゼルの顔を窺った。
「もう動いて大丈夫なのかい?」
「お、おう。少しずつ慣らすからダイジョブ。」
「ごはんは。食べたの?」
「ああ。」
「ゆうべはちゃんと眠れた?」
──ゆうべ。
ゼルは鼻先に皺寄せながら、曖昧に頷いた。
アーヴァインはほっとしたらしく、そうか、と頷き返し前を向いた。
その声色は、いつもの穏やかで優しげなものに戻っている。
だが気のせいか、整った横顔はひどく憔悴して疲れきっているように見えた。
「昨日はごめん。あの後ばたばたしちゃって。さっきまでずっと身動きとれなかったんだ。」
ゼルは小さく緊張した。
そう、昨日部屋を出ていったきり、結局アーヴァインは戻ってこなかった。
一体何があったのか、風紀委員室での騒ぎとは何だったのか。
その答えが得られないままゼルは独り悶々とした夜を過ごし、それゆえ実はあまり良く眠れていないのだ。
「一体‥‥何があったんだ?」
恐る恐る問いかける。
アーヴァインは一瞬思案顔になり、それからゼルに向き直った。
「サイファーが。風紀委員の奴らを殴ったんだよ。」
「え?」
「半殺しでみんな病院送り。」
「な‥‥。そ、そんで、サイファーは?」
ふう、と長い溜息をもらし、アーヴァインは肩を落とした。
「懲罰室にいるよ。五日間の謹慎処分。」
ゼルはまじまじとアーヴァインの横顔を見直した。
状況が、まったく解らない。
アーヴァインは気を取り直すかのように軽く髪をはらい、穏やかな口調で続けた。
「連中は退学になったよ。もうここには戻らない。」
「退学?」
「そう。全員、自分から申し出て自主退学さ。なんでこんな事になったのか、理由を追求しても誰も何も言わなくて、ただ、もうガーデンをやめたい退学させてくれって口を揃えての一点張り。」
「え‥‥え?」
ゼルはますます混乱した。
自主退学、だって?
殴られたのは奴らの方なのに?
「だから、そのままガルバディアの病院に搬送されて。結局、事の顛末は解らずじまいさ。サイファーも一切黙秘のままだし。ただ、」
と、アーヴァインは肩を竦めた。
「あのサイファーのことだから、どうせ理由なんて些細な事だろうって上の方は納得しちゃったんだ。あまりにもつまらない理由だから弁解できないだけだろう、ってね。どのみち、理由が解ったところでサイファーのした事に情状酌量の余地はないし。SeeD資格剥奪の上放校処分にすればそれで終わる話だから。」
ゼルは、ぎょっと身を強張らせた。
虚空を見据えたまま、アーヴァインは再び溜息をつく。
「でも、スコールが上を説得して。学園長も手を回したみたいで、結局上の方も渋々ながら納得して、謹慎処分で落ち着いたんだ。」
「そ‥‥そう、か‥‥。」
ほっと安堵して、粘つく唾液をのみこむ。
どうやら、最悪の事態は免れたようだ。
だが、疑問は晴れない。
なぜ、サイファーは奴らを殴ったのか。
まるで重苦しい鉛が喉につかえているような気分だ。
「あいつら‥‥サイファーに何したんだ? サイファーがんなブチ切れるなんて。」
眉をしかめて独りごつそばで、アーヴァインがぽつりと呟いた。
「サイファーに、じゃない。君に、したじゃないか。」
「う?」
顔を上げると、深い青色の瞳がゆっくりこちらを見る。
「あいつらは、君に乱暴した。だからだよ。」
ゼルはぽかんと口を開けた。
アーヴァインは静かに目を細める。
「だから、サイファーは理由を言わなかった。連中も、迂闊なことを言ったら今度こそサイファーに殺されるから何も言えなかったんだと思う。」
「サイファーが‥‥オレのことで仕返しした‥‥っていうのか?」
アーヴァインは重々しく頷いた。
「うそだ。そんなはずねえ。だってあいつは。」
「僕だって信じられない。だけど、他に説明がつかないよ。」
「そんな‥‥」
それ以上言葉が続かず、ゼルは口を噤むしかなかった。
サイファーが連中に──仕返し、だって?
そんな馬鹿げたことがあるだろうか。
──「試してみろ」とサイファーに言われたから。
連中は確かにそう言ったのだ。
それなのに、当の本人であるサイファーが報復するなんて‥‥絶対に、有り得ない。
アーヴァインは、ふっと上体を屈めて膝の上に頬杖をつくと、どこか遠くを見るような目つきになった。
「僕ね。何となく、解った気がするんだ。どうして、君がサイファーに惹かれるのか。なぜ、僕じゃ駄目なのかが。」
「‥‥?」
唐突な言葉に面喰らった。
一体、こいつは何を言い出すのだろう。
アーヴァインはゼルの狼狽には構う事なく、同じ調子で淡々と続けた。
「僕は‥‥起こった事実はあくまで伏せたほうがいいって思ってた。何もなかったことにして目をつぶる、それが君の‥‥君の名誉のためだって。」
「‥‥。」
「僕にできることは、ただ。君を慰めることと、あいつらやサイファーを二度と君に近付けないようにする事だけだった。無駄に騒いで、ことを荒立てるのは馬鹿げてるって思ってた。」
「‥‥うん。」
それは、解る。
それがまっとうで利口な判断というものだろう。
人に知られようと何を言われようとそんなことはどうでもいい、と割り切ってしまう自分の方が普通でないのはゼルも自覚している。
だが、アーヴァインは悲しそうに首を振った。
「でも‥‥それって狡いことだ。」
「ずるい?」
「そう。‥‥あいつらやサイファーに復讐することも考えなかった訳じゃない。だけど、下手に行動して騒ぎになれば、君の身はもちろん僕の身まで危うくなる、僕はそれが怖かった。‥‥君の名誉のためなんて言いながら、結局は自己保身さ。自分の立場が大事だった。狡いんだよ、僕。」
「で、でもそれは。」
慌ててゼルは遮った。
「それは普通のこと、だろ。別にお前が狡いってわけじゃ‥‥。」
するとアーヴァインは小さく笑い、ありがとう、と言った。
「そうだね。そうかもしれない。だけど、普通だからこそ僕は‥‥勝てないんだ。あの男に。」
ゼルは眉を寄せた。
アーヴァインは緩やかに膝の上で拳を固める。
「‥‥サイファーは。あの男は、違う。保身とか利害とか、そんなこと何も考えちゃいない。自分の身が危うかろうが立場がまずくなろうがお構いなしだ。ただ君を傷つけたあいつらに直接報復して、制裁することしか頭になかったんだと思う。」
「‥‥。」
「そんな事をしたら自分だって放校処分になるかもしれない、いや実際、なりかかったし。はたから見たらただの馬鹿だよ。でも。」
と、一旦言葉を区切り、ふう、と息を吐いてアーヴァインは虚空を見上げた。
「何も考えていない分、サイファーは正直で、純粋なんだ。癪だけど認めるしかない。君があの男に惹かれるのは‥‥きっとそこの部分なんだろうなって。」
ゼルは、ゆっくりと瞬いた。
アーヴァインの言葉が、スローモーションに頭の中を往復する。
うまく考えがまとまらず、何を言っていいかも解らなかった。
黙ったまま複雑な顔をしているゼルに、アーヴァインは再び微笑を浮かべた。
「ゼル。何も、君がそんな顔する事ないじゃないか。」
「でも。‥‥ワリい。オレにはよく解んねえ‥‥。」
「いいんだよ、解らなくても。今のは僕が勝手にそう解釈したってだけだから。あいつに負けるなんて悔しいからね。自分で納得できる理由が欲しくてさ。」
「‥‥。」
ゼルは、やっぱり曖昧に頷くことしか出来なかった。
「ねえ、ゼル。もしかしたら、君の言う通り。サイファーは昔から変わっていないのかもしれないね。」
アーヴァインの声が、すうっと耳に滑り込む。
「そういえば、子供の頃も。僕たちがうっかりゼルを泣かせたりすると、必ずサイファーが飛んで来て殴りかかってきたんだよねえ。」
──そう、だったろうか。
そうだった、かもしれない。
半ば上の空で、ゼルはぼんやりと相槌を打った。
汗を吸って肌にはりつくシャツがやけに冷たい。
早く部屋に戻って着替えてえな、とそんなどうでもいい考えばかりがぐるぐると頭を回っていた。
To be continued.
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