Love In the First Degree(29)
29
拒絶されるのは、覚悟の上だった。
再び背中を向けられることになったとしても、やむをえない。
ただ、どんなに拒絶されても捨てきれない想いがあるということ、それさえ伝わればいいんだと思っていた。
しかし、サイファーは黙っていた。
心無しか青ざめた頬を硬直させて、美しい彫像のように微動だにせず立ち尽くしていた。
凍り付いたような表情からは、拒絶や怒りはおろか感情らしい感情が何も読み取れない。
ゼルは不審に思い、それから徐々に不安になった。
こんな有り様は、およそサイファーらしくない。
もしや、仁王立ちで瞳を見開いたまま気絶しているんじゃないか。
馬鹿げた想像が頭をよぎって、心配で居ても立ってもいられなくなった。
「‥‥サイファー。大丈夫、か?」
呼び掛けると、微かに翠色の瞳が動いた。
同時に、薄い唇の端が弾かれたようにぴくりと痙攣する。
ゼルはほっと胸を撫で下ろした。
どうやら聞こえてはいるようだ。
「な、あ。ひとつだけ‥‥聞いてもいいか?」
安堵と勇気を得て、思いきって畳み掛けてみる。
「あんた‥‥なんで、あいつらの事殴ったんだ?」
サイファーは、ゆっくりとゼルを見下ろした。
翠色の瞳に、何か複雑な感情が揺らめいているように見える。
と、次の刹那、眉間の傷が深い皺に沈んだかと思うと、黄金色の頭ががっくりと項垂れた。
「‥‥くそ!」
「サ、サイファー?」
ぎょっとして覗き込もうとすると、サイファーは突然傍らの壁を拳で殴りつけた。
びりびりと壁が震えて、空気が振動し、その余韻を追い掛けるように怒声が炸裂する。
「なんでか、なんて知るか! ただぶっ殺してやりたかったってだけだ! あの糞どもが、俺のもんに手え出すなんざふざけた真似しやがって!」
「え。」
「許せねえ、ぜってえにぶっ殺す、そのつもりだった! それをスコールの野郎が余計な邪魔立てしやがって‥‥クソッタレが!!」
憎々しげに怒鳴りつけながら、拳だけでは飽き足りなかったのか、爪先で勢いよく壁を蹴り飛ばす。
ゼルは唖然とした。
今。この男は、何て言った?
───俺のもの。
そう──言ったのか?
「ど‥‥ういう意味、だよ?」
こわごわ尋ねると、サイファーはじろりとゼルを見据えた。
「なにが。」
「何が、って。」
逆に問い返され、言葉に詰まった。
──聞き間違いだったのか?
あるいは、そうかもしれない。
考えてみたら、この男がそんな台詞を吐くはずがない。
という事は、やはり何かを聞き違えたんだろう。
願望が生み出したありもしない幻聴だったんだ、きっとそうに違いない──。
再び、気まずい沈黙が横たわった。
もはや口にすべき言葉もみつからず、絶望的な心持ちでゼルは俯いた。
頭上のサイファーの浅い呼吸が、ひしひしと胸に痛い。
と、その呼吸が深い溜息に変わったかと思うと、低い不明瞭な声がぽつりと呟いた。
「‥‥ずっと、考えてた。」
「う?」
「なんでテメエの事でこんなに苛つかなきゃなんねえんのか。‥‥なんで、寝ても醒めても考えんのはテメエの事ばっかで、何やっててもテメエの面がちらつきやがるのか。」
ゼルは恐る恐る視線を上げた。
不思議なことに、サイファーの瞳にもう怒りは宿っていなかった。
ただ、吸い込まれそうなほどに深い翠色がまっすぐにゼルを見下ろしている。
「むかつくし胸糞ワリいし、何が何だか解らねえ。テメエが俺以外に心移りすんのも、面白くねえ。テメエがあの野郎に乗り換えやがったって思うと‥‥それだけで、腸が煮えくり返りそうだった。‥‥端から見りゃ、考えるまでもねえ、解りきってることだったのかもしんねえ。けど、俺は認めなかった。この俺が、たかがチキン野郎に‥‥馬鹿馬鹿しい。んなこたあ、ぜってえに有り得ねえってな。」
次第に饒舌になっていくサイファーの口許を、ゼルはぽかんと口を開けて見守った。
この男は、何を言っているんだろう。
何を言いたいのか、伝えたいのか、まったく理解できない。
ただ、何かとてつもない罠が待ち構えているような気はした。
咄嗟にこの場を逃げだしたい衝動にかられたが、両足は竦んで動かない。
語るほどに力に満ちるサイファーの声は、鎖のように頑にゼルをその場に繋いで離さなかった。
「認めるしかねえってようやく解ったのは‥‥あいつらをぶちのめした時だ。けど、もう遅い。後の祭りだ。テメエはもうあの野郎のもので、おまけにテメエがあんな目にあった原因は俺にあるときてる。今さら認めたって、取り返しがつかねえ。だから、俺にできんのは‥‥そんな今さらな未練たらしい感情は、すっぱり断ち切って切り捨てることだけだ。」
一旦言葉を区切り、サイファーは苦しげに口端を歪めた。
「それには、テメエにはっきり拒絶されんのが一番だと思った。テメエに罵倒されて、憎まれて怨まれればいい。そうすりゃ、何もかもケリがつく、こんなくだらねえ感情ともおさらばできる。‥‥そのはずだった。」
「‥‥。」
「それが。テメエのキモチは変わらねえ、だと?」
小馬鹿にするような乾いた口調に、ゼルはぎくりとして言葉を挟みかけた。
だが、サイファーは即座に首を振って遮った。
「違う、テメエを責めてるんじゃねえ。‥‥自分がほとほと情けねえ、ってだけだ。」
「情けね‥え‥‥?」
「ケジメつけに来たつもりが。テメエのそれを聞いた途端、今度はどうしようもなくほっとしちまうなんざ、みっともなくて笑うに笑えねえだろうが。」
皮肉めいた口調で吐き捨てるや否や、自嘲のつもりか薄い唇を微かに歪める。
「まったく間抜けもいいとこだ。こんな、テメエの言葉ひとつに一喜一憂して振り回されてよ。‥‥けどやっと解った。‥‥情けなかろうが、みっともなかろうが、要は。これが惚れるっつうことなんだってな。」
心臓が。一瞬、止まったかと思った。
「‥‥な‥‥に‥‥?」
「惚れてんだよ。俺は、テメエに。」
低い声が、今度ははっきりとそう告げる。
すうっと視界が遠のいて、ゼルはぐらりとよろめいた。
「う‥‥そだ。」
「嘘じゃねえ。」
軽くゼルの腕を支え、サイファーは静かに目を細めた。
「だって。‥‥そんな‥‥何かのマチガイだ。」
「ああ、これが間違いだったらどんなにか楽だったろうな。けど、もうどうしようもねえ。」
「‥‥。」
そんなこと、有り得ない。
混乱を通り越して空っぽになってしまった頭の中に、乾いた否定の言葉が累々と降り積もる。
これは、夢だ。そうでなければ幻想だ。
俺は、幻を見てるんだ。
そうでなければ、こんな──。
ほうけた顔で立ち尽くすゼルに、サイファーは少し苛立ったようだった。
頭ひとつも違う長身を屈めて、翠色の瞳がさらに間近から覗き込む。
「なんだあ? その面は。今さらヤダとか言うんじゃねえだろうな、クソチキン。」
「ちが‥‥そんなん、じゃ。」
慌てて首を振り、ゼルは吃った。
「だ、だって‥‥いいのか、よ‥‥?」
「何が。」
「オレ、お、オトコだぞ。」
「んなの見りゃわかる。」
「あ、あんたノーマルだって‥‥」
「ああノーマルだった。過去形でな。」
「でっ‥‥でもオレ頭もんな良くねえしチビだしか、可愛くもねえし。あ、あんたが惚‥‥れるとかどう考えても有り得ねえっつうか冗談だろっつうか‥‥」
言ってる事が支離滅裂だった。
何がなんだか訳が解らず、正直、泣きたいぐらいだった。
有り得ない展開を前にして、嬉しいとか良かったとかいう以前に全神経がパニックに陥っていた。
決して返ってくる事はないと信じて波間に放り続けていた小石が突然跳ね返ってきたら、誰だって戸惑うのが当たり前である。
怖じ気づいて狼狽し、思わず避けてしまうのが本能というものだろう。
それがたとえ、自分の切望していた反応だったとしてもだ。
今のゼルは、まさにそういう状況だった。
タチの悪い夢なら、早く醒めて欲しいと思った。
迂闊な期待は、失望という苦痛を招くだけだ。
こんな残酷な夢は、もう二度と見たくないというのに。
半泣きになって口籠ってしまったゼルを、サイファーは鷹揚に見下ろした。
そしてその唇に淡い笑みを含んだまま、おもむろにゼルの首筋を引き寄せた。
彫りの深い彫刻のような顔が、斜めに近付いてくる。
「ったく、テメエは。‥‥やっぱ、どうしようもねえチキン野郎だな。」
低い囁き声と共に、当たり前のように唇が重なった。
どくり、と大きく心臓がわななき、ゼルは凍り付いた。
しかしそれも束の間で、唇から伝わる甘く温かい感触に、躯はたちまちとろけるように緩んでしまった。
柔らかい息遣いが歯列を割って舌を滑り、ゆっくりと喉の奥まで落ちていく。
同時に、混乱の極みだった神経は徐々に凪いで、まるで揺りかごに揺られるような心地よさの内に落ち着きを取り戻していく。
そして。
ようやく小さな確信が胸の内に広がりはじめた。
これは──まぎれもない現実なのだ。
サイファーが、オレを。
オレを、好きだと言っている。
これは夢じゃない、これは──確かに、現実だ──。
「いいか。俺をマジにさせやがった責任は取ってもらうぜ。」
小刻みに震え続けるゼルを解放すると、サイファーはぴったりと額を合わせて囁いた。
「テメエは俺のもんだ。覚悟しとけよ。他の奴らが指一本でもテメエに触れたら、マジでぶっ殺すからな。」
「‥‥う‥ん。」
気圧されて頷いたものの、急に恥ずかしくなって、ゼルは頬を赤らめた。
あんたが好きだ、と。
これまで散々口にしてきて、そういう自分は相当にあからさまだったと思う。
けれどもいざこうして逆に告げられてみると、これはかなり気恥ずかしかった。
すっぽりと抱きすくめられた広い胸に、ぎこちなく頬を埋めてみる。
踊り狂うように早鐘を打つ己の鼓動が、とくとくと耳の奥にこだましていた。
「テメエは、俺だけを見てろ。余所見は許さねえ。」
耳元で、低い声が囁き続けている。
「二度と‥‥あの鉄砲撃ちにも頼るんじゃねえ。解ったか。」
「‥‥ん。」
少し不機嫌そうなその声に、瞼の奥がじわりと熱くなった。
当然だ。余所見なんて、する訳ないじゃないか。
オレは、ずっと。
ずっと、あんただけを見てたんだから──。
不意に視界がぐらりと傾いた。
気が付くと、力強い両腕が横抱きにゼルの躯を抱き上げていた。
びっくりして身をよじると、低い声が制する。
「じっとしてろ。抵抗されたら、見境なくなっちまう。」
「で、でも‥‥。」
「俺を怒らせんなよ。」
サイファーは真顔で軽く頬に口づけた。
「乱暴にしたくねえ。俺は‥‥テメエに優しくしてえんだ。」
ゼルは、真っ赤な顔のまま顎をひいた。
膨らむ羞恥心で、サイファーの顔をまともに見ることすらできない。
サイファーはしっかりとゼルの躯を抱えなおすと、滑るようにベッドへ歩み寄った。
To be continued.
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