Love In the First Degree(5)
5
頭が、痛い。
脳髄の芯に、しこりのような鈍い痛みが居座っている。
らしくもなく、度を過ぎた。
いつもなら適当なところで切り上げるのが常なのに、昨日はどういう訳かずるずると夜中まで風紀委員室に居残ってしまったのだ。
朝から何度目か知れない舌打ちをして、サイファーは訓練施設へと続く廊下の角を曲がった。
廊下は無人で、天井から振りそそぐ無機質な明かりだけが、くすんだ緑色の床を照らしている。
昼も間近い、講義中にあたる時間だから、こんなところをうろうろしている学生はまずいない。
鬱憤晴らしにハイペリオンを振り回すには、お誂え向きの時間帯だった。
だが、いざ訓練施設のチェックゲートの前に立ったサイファーは、眉をひそめた。
ゲート横のパネルが、赤く点灯している。
それは、誰かが中に居るというサインだ。
訓練施設のゲートはゲートを挟んだ二箇所のセンサーによって、通過した人間の数をカウントし、現在施設使用中の人数を把握し表示するようになっている。
パネルが表示している人数は、一名だった。
どうやらどこぞの物好きが、こんな突拍子もない時間にも関わらず、しかも独りで、中でひと汗かいているらしい。
まあいい、とサイファーは仏頂面のままゲートをくぐった。
訓練施設は広い。
独りぐらいなら、中で鉢合わせることなど、まずない。
無造作に敷かれた格子板を踏み締め、中に入ると、むっとした草いきれが襲い掛かる。
ハイペリオンの峰を肩に預け、サイファーは左右を見渡した。
通路は二手に別れているが、どちらに行っても最奥部の広場手前でまた合流する。
物好きな先客はどちら側を辿ったのだろうか。
──とりあえず左回りに行くか。
さしたる深い考えはなく、進路をそちらがわに決めて足元のシダ類を蹴り避ける。
そうしてほんの数歩、進んだ時だった。
突然目の前の繁みが勢いよくわさわさと揺れた。
咄嗟に身構え、ハイペリオンの撃鉄を起こす。
だが同時に、おかしい、と思った。
こんな入り口付近でモンスターに出会したことはかつて一度もない。
案の定、茂みの陰からひょい、と出て来たのは人間だった。それも──。
「あっ。」
鉢合わせに仰天したのだろう。
相手は、素っ頓狂な声を上げたまま、その場に立ちすくんでぽかんと口を開いた。
サイファーとは頭ひとつも違う、小柄な躯。
逆立った、金色の髪。
──よりにもよってこいつだったのか。
サイファーは拍子抜けした。
緊張がいっぺんにほぐれ、ハイペリオンの引き金にかけていた指を外す。
一方ゼルは、数メートルの間合いで立ち尽くしたままなおも硬直している。
つまり、これからサイファーが向かおうとしている行く手をゼルが塞いでいるわけだが、当人は衝撃のあまりそれに気付いていないらしい。
サイファーは僅かに苛立ち、唇を歪めた。
「邪魔だ。どけ。」
低く凄むと、ようやくゼルはぴくりと肩を震わせ、ああワリい、と口籠って道を開けた。
ひとしきり動いて、今から戻るところなのだろう。
すれ違い様に、汗ばんだ額と上気した頬が視界を掠めた。
得物を携えていないことに一瞬違和感を覚えたが、拳を覆っているグラブに気付き、そういやコイツは格闘家だったと思いだす。
小柄な体躯に似合わぬ実力の持ち主で、格闘クラスでも群を抜いて優秀な男だ。
ということは、どうやら奥の広場まで行かねば獲物にありつけそうにない。
右を選ぶべきだったな、と舌打ちしながら、しなだれかかる枝を肘で振り払った、その時だった。
「あ、あのさ、サイファー!」
よもや呼び止められるとは思ってもいなかった。
ゼルのことなど、すでに意識から抜け落ちていた。
だが、さすがに名を呼ばれれば無視する訳にもいかない。
苦々しい思いで振り返ると、ゼルは仁王立ちになってこちらを一心に見つめていた。
力一杯握りしめた両拳が、小さく震えている。
──なんなんだ、コイツ。
渋面を作って肩ごしに睨み返すと、ゼルは慌てたように切り出した。
「え、えと‥‥。この前のことは。わ‥‥すれてくれよな。」
「ああ?」
「だから、この前の新年会‥‥の時の‥‥。」
上擦った声が、尻すぼみに擦れる。
むろん、ゼルの言わんとする事は即座に解った。
なるほど、当人にしてみれば出来れば忘れて欲しい一件だろう。
だが、馬鹿なチキンだ、と思った。
こっちはとっくに忘れかけているというのに、わざわざ自分から切り出だすなど、間抜けにもほどがある。
同時に、むらむらといつものからかい心が疼きだした。
自ら墓穴を掘る間抜けぶりももちろん、日頃の威勢はどこへやら、まるでか弱い小動物のように項垂れてこちらの反応を伺っている様も小気味が良い。
こんな格好のからかいネタを見逃せという方が、無理な話だ。
サイファーは向き直り、わざと鼻白んだ声で切り返した。
「新年会? 何の事だ。」
「え。‥‥お、覚えてねえの?」
ゼルはびっくりしたように目を見張り、途端に頬を引きつらせた。
自分で自分の首を絞めた事にようやく気付いたのだ。
「そ、そっか。じゃあいいや、うん。ワリい、何でもねえ! じゃあな!」
あたふたと首を振り、腕まで振って、倉皇として踵を返そうとする。
だがもちろん、そうは問屋が下ろさない。
「おい、チキン。」
「な、なんだよ! オレはチキンじゃ‥‥」
ほとんど条件反射なのだろう、ゼルは半身をひねったまま反論しかかる。
その顔めがけて、サイファーは口端を吊り上げた。
「テメエ。俺に惚れてんだろ。」
再びゼルは硬直し、泣きそうな顔になった。
「‥‥そ‥‥それはその‥‥。」
「違うのか。」
「や‥‥違‥わねえけど、でも。」
あからさまに狼狽える頬が、蒼白になっている。
「なら、俺と寝てみるか。あ?」
「‥‥は?」
意味が、解らない。
眉をひそめ、聞き返した顔に、そう書いてある。
もちろんこれは予想通りの反応だった。
こうでなくては、からかい甲斐がない。
サイファーはますます悦に入りながら、わざとゆっくりと言った。
「惚れてるからには、ヤりてえんだろ。セックス。」
「‥‥!」
蒼白だったゼルの頬が、みるみるうちに血色を帯びた。
「ばっ、な、そっ‥‥!」
完全にパニックに陥ったらしく、酸欠の金魚のようにぱくぱくと唇を開いては閉じるばかりで言葉にならない。
サイファーはこみあげる笑いを押し殺しながら、悠然と顎を撫でた。
「ただ問題があってなあ。俺は生憎ノーマルだ。男とは寝た事がねえ。」
「‥‥!‥‥!!」
「だからいまいちヤり方が解らん。自信がねえ。」
大袈裟に眉をしかめ、肩をすくめてみせる。
「ま、テメエがちゃんと勉強してくるってんなら寝てやってもいいぜ。どうだ。」
ゼルは固まったままだった。
もはや、声を発するどころか呼吸することさえ忘れたのか、ただ唇をわななかせながら茫然とサイファーを見ている。
──この辺で、勘弁しといてやるか。
吹き出したくてたまらないのを必死で堪え、サイファーは背を向けた。
ここでいつものように突っ掛かってくるならばもう少しからかってやっても良かったが、これ以上煽ったところで反応はなさそうだと判断したからだ。
立ち尽くすゼルを残し、さっさと茂みを押し分け、狭い通路を辿る。
おかげで少し鬱憤が晴れた。
しつこく居座っていた頭痛も、気のせいか和らいだ気がする。
これでもうひと暴れすれば、くさくさした気分もすっかり清算できるだろう。
鬱蒼と生い茂る草木の奥から、甲高く怯えるようなグラッドの声が、か細く空気を震わせた。
To be continued.
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