Love In the First Degree(9)


9

ああ、天使がいる。

エレベータからホールに降り立ち食堂へ向かおうとしたアーヴァインは、たちまち目を奪われ、眩しさに瞬きながら足を止めた。
学生寮と食堂を繋ぐ通路の隅に、ゼルはひとりぽつねんと立っていた。
昼休みで、ホールも廊下も多くの学生とSeeDで溢れている。
そんなところで、ひとりで、誰かを待っているのだろうか。
しかしどうやらゼルの注意は、さざめきながら通り過ぎて行く人々には、まったく向けられていないようだった。
時折小さく伸び上がっては人混みの向こう側に視線を投げ、そして不安げに俯いてしまう。
辺りの喧噪の中、ひっそりとため息を洩らすのがここまで聞こえてくるような気がする。

アーヴァインは、ゼルの視線の先を辿った。
駐車場へ続く通路だ。
特に何も変わったところはない。
だが、嫌な胸騒ぎを覚えたので、ぐるりとエレベータの前を回って、駐車場通路の正面まで移動してみた。
通路の奥に、ふたつの人影が見えた。
人々が行き交っている廊下からは、あえて注意を向けなければ気付かない位置だ。
──やっぱり。そういう事か。
アーヴァインは渋面を作った。
人影のひとつは、サイファーだとすぐ解った。
もう一人は、遠目で顔までは解らないが、候補生の制服を着た女生徒だ。
彼女はしきりに身振りを交えながら、何かを喋っている。
一方のサイファーは聞いているのかいないのか、斜めに上体を捻ったまま、駐車場の方をうかがっているようだ。
と、突然サイファーは彼女に向き直り、その腕を掴みあげた。
女生徒は悲鳴を上げたようだったが、しかしここからでは聞こえない。
そのまま腕を引かれ、転びそうになりながら奥の駐車場へと引き摺られていく。
──やれやれ。相変わらず、か。
こんな真っ昼間からこんなところで。
不快感にますます眉を潜めて視線を転じると、ゼルはまだ先程の位置にいた。
アーヴァインは深く息を吸い込み、人混みをすりぬけ、静かにゼルに歩み寄った。

「ゼル。食事は済んだの?」
ゼルはびくりと肩を強張らせ、弾かれたように顔を上げた。
「あ。アーヴァイン‥‥。」
「ごめん、驚いた?」
「い、いや。うん。ちっと考え事してて。」
慌てたように激しく頭を振りながら、それでもなお駐車場の方にちらちらと視線を投げる。
アーヴァインは切なくなった。
「サイファー、いたね。」
「え?」
「気になるんでしょ。女の子と一緒だったから。」
ゼルは大きく両目を見開き、そしてまた俯いた。
鼻の頭に、困惑したような皺が寄っている。
「ゼル。何かあった? 君、ここのところ元気ないよ。」
「‥‥。」
「僕の部屋にきてから、ずっと。」
「そ、そうかな。そんなことねえと思うけど。」
「隠したって駄目だよ。僕には解るんだからね。」
君のことはいつだって見てるから──と、続きそうになる言葉をあえて呑み込み、アーヴァインはゼルの顔を覗き込んだ。
「何でも話してくれる約束だよ? ちゃんと話してよ。」
下を向いたまま、蒼い瞳が何度か瞬き、そっとアーヴァインを仰ぎ見た。
ふっくらとした唇が途切れ途切れに動く。

「実は‥‥オレ。サイファーと‥‥その。」
「うん。なんだい。」
歯切れの悪い語尾を優しく促すと、ゼルは意を決したように顔を上げた。
「お前んとこ行った次の日に。オレ、サイファーの部屋に行って。そんで‥‥そんで。」
「え。」
どきり、と心臓が跳ねた。
無意識のうちに頬が強張り、掌に嫌な汗が滲む。
「‥‥サイファーと寝た‥‥ってこと?」
ゼルは、小さく頷いた。
すうっと血の気が引き、アーヴァインは足元が失われたかのような目眩を覚えた。
あたりの音も景色も一足飛びに遠のいて、頭の中が空っぽになる。

薄々、そんな事態を予測してはいたのだ。
ゼルがわざわざあんな事を尋ねて来た時、深く理由を追求しなかったのは、その最悪の予測が的中していると知るのが怖かったからだ。
そんな馬鹿げた事があるはずがない。
そもそもゼルの感情は一方的なものなんだし、自分はノーマルだと豪語したサイファーがよもや受け入れるはずがない、そう必死で己に言い聞かせていた。
しかしそれはやはり欺瞞だった。
ゼルの思い詰めた言動やサイファーのあの性格を思えば、警戒して然るべきだった。
サイファーは確かに「興味がない」とは言ったが、それは好意もないかわりに嫌悪もないということだ。
それなりのきっかけと流れさえあれば、あの男は男と寝ることもなんら躊躇しないだろう、と気付くべきだったのだ。

自分自身への憤りと絶望に、アーヴァインは深く嘆息した。
ゼルは、息を詰めてじっとこちらを見上げている。
その不安と困惑に潤んだ蒼い瞳を見返した時、抑えがたい衝動が噴出した。
アーヴァインはゼルの手首をはっしと掴むと、踵を返した。
驚いて戸惑うゼルの腕を強引に引っ張り、駐車場へ続く通路の角を曲がる。
そして無言のまま駐車場へ踏み込むと、足を止め、もう一度ゼルの手を強く握った。
「‥‥どうして、サイファーなんだい。」
「え?」
「あいつは。ああいう男なんだよ。」
駐車場の奥に向かって、アーヴァインは静かにゼルの注意を促した。

薄暗く人気のない駐車場、その壁沿いに整然と並んだガーデン車両の隙間に、蠢く人影がある。
車のボンネットに寄り掛かっている女と、覆い被さる男。
辺りを震わせる、弾んだ息遣いと微かな喘ぎ声。
それが誰であるか、そしてどういう状況であるかを、ゼルも即座に察したのだろう。
たちまち顔を歪めると、苦痛に耐えるような、困惑の極みのような、複雑な表情になった。

先にこちらに気付いたのは、女生徒の方だった。
驚愕に青ざめて悲鳴を上げた彼女に、サイファーはようやく顔を上げ、振り返った。
「なんだあ? 貴様。」
獣のような低い威嚇の声を洩らし、翠色の双眸が憎々しげに睨みつける。
背後で、ゼルが息を飲み、僅かに後ずさる気配がした。
後ろ手に掴んだままのゼルの手首を、励ますようにしっかりと握り直す。
サイファーは女を組み伏せた姿勢のまま、唇を歪めた。
「見て解んねえか? 取込み中なんだよ。とっとと消えろ。」
「断る。」

とその時、女生徒が両腕を突っ張ってサイファーの体をはねのけた。
はだけた制服の胸を押さえ、その場を駆け出した彼女は、あられもない姿のまま駐車場奥の非常口目がけて走り去っていく。
サイファーは、追い掛けることはしなかった。
ただ盛大な舌打ちで彼女を見送ると、こちらに向き直り、忌々しげに唾を吐いた。
「どういうつもりだ、貴様。ノゾキなら隠れてやれ。」
「見られたくないなら、場所くらい選びなよ。」
冷ややかに切り返すと、サイファーは片眉を上げ、薄い唇を開きかけた。
が、ふとその口端を歪めたかと思うと、途端に小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「なんだ、テメエまでまでいやがったのか、チキン野郎。あの夜以来だなあ、ええ?」 

いつのまにか、背後にいたゼルが一歩踏み出し、アーヴァインに並んでいた。
サイファーの言葉に息を殺し、唇を噛んで俯いている。
ベルトのバックルを面倒くさげにがちゃがちゃと嵌めながら、サイファーは再び舌打ちをした。
「雁首揃えてなんだっつうんだ。」
「サイファー。」
アーヴァインはゆっくりと口を開く。
「もう一度、聞く。君はゼルの事、どう思ってるんだい。」
「ああ?」
サイファーは、不躾な眼差しでアーヴァインとゼルの顔を見比べると、ははあ、と鼻白んだ声を洩らした。
「なるほど、チキン野郎に泣きつかれて正義の王子様気取りってわけか。」
「答えなよ。ゼルの事をどう思ってるのか。」
冷たい怒りを込めた強い語調でもう一度繰り返す。
だが、サイファーはまったく怯まなかった。
「俺は興味ねえつったろ。しつけえぞ、貴様。」
「しつこかろうと何だろうと、ゼルが傷つくのを黙って見ていられない。」
「おいおい。俺が悪者か? ヤって欲しいって来たのはそっちだぜえ?」
と、からかうようにゼルの方を顎で示す。
握ったままのゼルの手首がひくりと強張り、小刻みに震え出した。
アーヴァインは眉を寄せ、さらに抗議の言葉を口にしようとした。
だが、それより早く。

「きょ‥‥興味ねえ、のに。」
はっとして見直すと、ゼルは顔を上げ、まっすぐサイファーを見ていた。
青ざめた唇が、震えながら、しかしはっきりと言葉を刻む。
「興味ねえのに、なんで、あんな事したんだよ。」
「あんな事? たかがセックスだろが。感情なんざなくてもセックスはできる。」
サイファーは不機嫌そうに眉間を寄せて言い放った。
「おいチキン。言っとくがな。俺は確かにテメエと寝た、だがな。俺はテメエのコイビトになったつもりはねえし、テメエのモンになった覚えもねえ。くだらねえ感情を期待されんのは迷惑なんだよ。」
「‥‥。」
「これからもテメエが寝てくれっつうならそうしてやる。ただし、ウゼえ感情は抜きでだ。ヤるだけならいくらでもヤってやらあ。それで文句ねえだろ。」

ゼルは、黙っていた。
引き結んだ口許が、小さくわなないている。
アーヴァインはいたたまれなくなった。
なぜ、ゼルが、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
こんな男の心ない言動に、何ゆえ傷付き、耐えねばならないのか──。
怒りと憎悪に胸がわななき、目の前にいる傲岸不遜な嗜虐者に対して殺意さえ覚えた。
もしここにエクゼターを携えていたなら。
きっとためらうことなく、この男の額目がけて引き金を引いていたことだろう。
「‥‥許せない。」
我知らず、呟きながら一歩前に出た。
暗く燃え盛る憤怒の感情を、ぶつけてやらねば気が済まなかった。
しかし二歩目を踏み出す直前、突如横から伸びた腕がアーヴァインを引き止めた。
「アーヴァイン、いいから‥‥っ‥‥」
「‥‥ゼル‥‥?」
「いいんだ、オレ、大丈夫だから。」
「大丈夫‥‥って。」

大丈夫なはずがない。
事実その顔は蒼白のままで、潤んだ蒼い瞳は今にも泣き出しそうだ。
しかしゼルは気丈に首を振ると、大丈夫だから、と再び言った。

「本人がそう言ってんだ、外野は口出し無用ってこった。」
サイファーはせせら笑い、コートの襟を直しながら大股に近付いてきた。
擦れ違いざま、アーヴァインの顔に一瞥をくれると、勝ち誇ったように低く呟く。
「だから言ったろ、色男。さっさと貴様が食っちまえってよ。」
「‥‥。」
憎悪を込めて睨み返すが、すでにサイファーは後ろへとすりぬけて出口に向かっていた。
ったくとんだ厄日だぜ、とぶつぶつこぼしつつ、横柄な足音が遠ざかっていく。

「行こうぜ、アーヴァイン。」
心もとない力で袖を引き、ゼルは言った。
「オレ、メシまだなんだ。腹へっちまった。つきあってくんねえ?」
努めて笑おうとしてか、トライバルの刻まれた頬がかすかに痙攣する。
しかしそれは笑顔と呼ぶには程遠い表情だった。
ゼルは感情を押し隠すのが苦手であることは、アーヴァインも知っている。
それなのに懸命に平静を装おうとしている、そのぎこちなさがたまらなく辛い。

──僕には何もしてあげられないのかい?
君の手をこうして握って、見守ってあげることしかできないって言うのかい?

舌の付け根にせりあがる言葉。
だがあえてそれらを飲み込み、アーヴァインは静かに頷いた。
これ以上何かを言っても、それはゼルを詰る事にしかならない。
だから、今はただ。
痛々しく擦りむけ血の滲んだゼルの心を、優しく包み、癒してやることに徹したかった。

To be continued.
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