コネコノホウソク(10)
10
「せーんせ。今度先生んち、遊びにいっていいかなあ?」
「ああ?」
「だってゼルに会いたいんやもん! ねえ先生、」
ゼルは元気?といつものように、一番前の席に陣取った彼女は笑いながら言った。
この頃は教室に入るたび、おはようの言葉よりもそう尋ねられる方が挨拶のようになってしまっている。
彼女、セルフィ・ティルミットはこの数学クラスにおいて、常に中心的存在だ。
成績はいつも平凡なラインを彷徨っているものの、その明るくて屈託のない笑顔には、周囲を惹き付け引っ張っていく魅力があり、人を和ませる力がある。
密な人間関係とはおよそ縁遠いはずの予備校の教科別クラスなのに、このクラスに限っては和やかな親密さが育まれているのは、彼女のおかげだ。
遊びに行ってもいい?と問われて、別に断る理由もなかった。
だからその時は深く考えもせずああと答えたサイファーだったが、しかしそんな事はすっかり忘れていた。
その二、三日後にアパートの玄関先で、実際に顔をつきあわせるその瞬間まで、露ほども思い出しもしなかったのだ。
休日前のその日の夕刻は、スコールが訪問することになっていた。
ノックの音に誰何もせずにすんなりドアを開けたのも、それがスコールの来訪だと解っていたからだ。
だが、ドアの向こうに立つスコールの後ろに、金魚の糞のように三人の男女が固まっていたのには面喰らった。
予備校の生徒であるのはすぐ解ったものの、なんだてめえら、と思わず眉をしかめたのは言う迄もない。
するとセルフィは子供みたいに口を尖らせ、サイファーを詰った。
「なんだはないでしょ、先生。遊びにきてもいい、って言ったやん。」
「‥‥ああ?」
そういやそうだったと気付いたものの、だがそれがなんで今日、スコールの来訪と一緒なのかが解らない。
じろりとスコールを見遣ると、スコールは涼しい顔で小首を傾げた。
「あんたがそう言ったと言うから。てっきりこいつらも誘ったのかと思ったんだが。違うのか?」
「違う、っつうか。」
サイファーは言葉に窮した。
経緯は良く解らないが、とにかくスコールが彼らを伴ってきた事実に相違はない。
四人にじっと注目されて、サイファーは小さく嘆息し、短い髪を掻きあげた。
「ま、かまわねえけどな。」
たまには賑やかなのも、悪くないだろう。
突然の大勢の来客に、ゼルは目を丸くした。
だが先日のスコールの来訪で、怯えたり隠れたりする必要はないと学習したらしい。
茶卓を囲んで賑やかに鍋をつつきだした彼らの間を、ゼルは物珍しげにちょろちょろと歩き回った。
だが、ひとりひとりの膝の匂いを一通り確認したその後は、結局当たり前な顔をしてサイファーの膝に乗ってくる。
「ああもうゼルってば、こっちにも来たらええのんに。」
触りたくて、抱きたくて仕方ないのだろう、セルフィは不満げな声を上げたが、横からスコールが淡々と諭す。
「そいつはそこがいいんだ。そっとしといてやれ。」
「でもお。せめて触らしてえな。」
「この前俺は話してるだけでヤキモチを妬かれたぞ。」
「ええ、本当?」
「余計な事を言うんじゃねえ。」
スコールを睨みつけ牽制するものの、スコールはどこ吹く風で自分のジョッキにビールを注いでいる。
セルフィは目を丸くしたままサイファーの膝を覗き込むと、茶目っけたっぷりにゼルの鼻を突ついた。
「へええ、そんなにセンセイが大好きなんや。残念やねえゼル、人間だったらセンセイのカノジョになれたのに。」
「そいつ、オスだぞ。」
「えええ!」
性懲りもないスコールのツッコミに、サイファーは威嚇する気も萎え、無言でスコールの手からビール瓶を引ったくって自分のジョッキに注いだ。
瓶の中身は大ジョッキ二杯分の容量には足りない。
と、状況を予知していたらしいスコールが、栓を抜いた新しい瓶を隣から傾ける。
「あんたが猫受けするとは思わなかった。」
「うるせえ。猫に受けても嬉しかねえ。」
「相手が猫で良かったじゃないか。猫ならあんたの強面も気にしないからな。」
「ほっとけ。」
ヤケ気味にジョッキを煽ると、何が可笑しいのかセルフィも連れの二人も声を揃えてころころと笑った。
傾いたジョッキの底から、ぽたりと冷たい雫が落ちたのだろう。
膝の上のゼルがびっくりしたように顔を上げ、ぴくぴくと耳を動かしながら、丸い大きな瞳でサイファーを伺った。
一同が帰ると、途端に拍子抜けする程の静けさが訪れた。
慣れているはずの静寂も、喧噪の後だと無性に落ち着かなくなるから不思議だ。
テレビかステレオをつけようとも思ったが、この場を動くのもかったるい。
飲み過ぎた、と自覚できるくらいに酔っていた。
恐らく明朝は二日酔いだ。
明日が休みだから良かったようなものの、少し調子に乗り過ぎた。
食器はセルフィらが綺麗に片付けてくれたから、茶卓の上にあるのは半分くらいの中身を残したビール瓶と、底に1cmほどビールの溜まったジョッキだけだった。
賑やかさの名残りのような、そのジョッキの残りを緩慢に喉に流し込み、ふと膝を見下ろす。
大きな瞳がじっとサイファーを見上げていた。
途中、幾度か寝惚け眼であくびをしながらも、結局ゼルはずっとそこにいた。
周囲の喧噪にもその後訪れた静寂にもまるで頓着しなかったくせに、今サイファーと目があった事だけは彼にとっての一大事らしく、微動だにせずサイファーを見つめている。
猫というのは、やたらに人の顔を凝視する動物だ。
それもまるで真剣に何かを訴えかけているような、今にも言葉を発しそうな眼差しで見つめてくる。
「なんだ。」
擦れた声で顎をしゃくると、にゃあ、と答えた。
そしてサイファーの声が合図であったかのように、もそもそと膝から這い上がり、例によってシャツの隙間から頭を突っ込もうとする。
「よせ、って。くすぐってえっつうの。」
首筋を摘んで引き剥がし、ぶら下げたまま鼻先をつきつけた。
「んなに狭いトコがお気に入りか?」
「にゃ。」
離せよ、と言うつもりか細い前脚が宙を泳ぐ。
と、ふと視界に入った空のビールジョッキに、ある事が閃いた。
とんでもない悪戯心だ。
だが、サイズ的には。ちょうどぴったりじゃないか。
「おい、ゼル。お誂え向きのがあったぜ。」
酔いのせいでえらく重たく感じるジョッキを引き寄せて、ぶら下がったゼルを真上にかざし、そのままそろりと指を離す。
案の定。
ゼルはすっぽりとジョッキの中におさまってしまった。
何が起こったのか解らなかったらしく、ゼルは最初きょとんとした顔でジョッキの縁からサイファーを見ていた。
程なく、狭くて固い壁に動きを封じられた事に気付いて、慌ててもぞもぞと身を捩る。
しかし動いたお陰で小さな尻と後ろ脚とがますます丸いジョッキの底にぴったりとはまりこんしまい、完全に身動きが取れなくなってしまった。
ぴったりと押し付けられたピンク色の肉球が、つるつると所在無げにガラスを掻く。
ゼルは心底困ったような顔をして、にゃあと哭いた。
そのなんとも間抜けな格好と情けない声に、サイファーは思わず吹き出した。
一旦笑い出すと酔いの力も手伝って、次々と笑いがこみ上げ、止まらなくなる。
大笑いするサイファーを、ゼルは呆然と見守っていた。
だがやがて、身動きが取れないこの状況と、それを一向に助けてくれようとしないサイファーに対して、彼なりに苛立ってきたのだろう。
途切れがちに、消え入りそうに洩れていた鳴声が、徐々に険を含んでにゃあにゃあという抗議の調子に変わってくる。
しかし何ぶん動きが取れないものだから、いくら鳴こうにも自分ではどうしようもない。
それがまた可笑しくて、サイファーは腹を抱えて笑い続けた。
笑いの発作がようやくおさまったのは、腹筋が痙攣して痛みさえ伴い、さすがに息苦しくなってきた頃だった。
軽い酸欠のような目眩もさることながら、全身が燃え上がりそうに熱くてたまらない。
シャツのボタンを途中まで外して襟で風を送り、アルコール臭い呼吸をどうにか肩で整える。
そしてなおもぶり返しそうになる笑いを堪えながら、ジョッキを持ち上げ、そうっと逆さにしてやった。
ぽとり、とテーブルの上に落ちたゼルは、ぶるりと身震いした。
咄嗟に躯を捻ってビールの雫で濡れた下半身を舐め始めたが、アルコールの味にぎょっとしたのだろう。
はたと動きを止めて考え込み、それから思い出したようにサイファーを振り返った。
笑い過ぎて涙が滲んだ瞼をこすって、サイファーは知らぬ振りをした。
「にゃあ。」
鼻先に思いっきり皺をよせ、ゼルは声高に哭いた。
威嚇の一歩手前の所作で背中を丸め、テーブルからサイファーの膝の上にひらりと飛び降りると、にゃあにゃあと激しく啼き立てた。
「ああ、わかったわかった、悪かったって。」
苦笑いしながら軽く膝を揺するが、ゼルの怒りは収まらないらしい。
哭くばかりでは飽き足らず、小さな頭でサイファーの腹をぐいぐい押したくり、時折胸元に猫パンチまでお見舞いしてくる。
ひやりとした肉球がはだけた胸を掠め、やたらこそばゆい。
「テメエが狭いとこが好きだっつうから、つい、よ。んな怒んなよ。」
素直に前脚の攻撃を食らいながらも、サイファーはなおも膝を揺らし、啼き続けるゼルの喉を指先で丁寧にくすぐってやった。
その内ようやく、ゼルも機嫌を直したらしい。
蒼い瞳はまだ時折サイファーを睨みながらも、顎を撫でられる心地よさには勝てぬようで、次第にごろごろと喉を鳴らし始める。
その声を聞いている内に、サイファーは、ふと睡魔に襲われた。
四肢がだるい。
酔いに加えて、笑い過ぎた事で急激に疲労してしまったのだ。
ごろりとその場に仰向けになると、太腿の上でゼルはびっくりしたようにぱちぱちと瞬いた。
そろそろと腹から胸へとのぼってきて、サイファーの顔を覗き込む。
「にゃ。」
「‥‥なんだ。ベッドに行け、ってか?」
「にゃあ。」
「だりい。めんどくせえからココで寝る。」
ゼルは心配そうな顔をした。ような気がした。
いや、猫なのだからそんな表情などあるはずはない。
これは、酔っているからだ。
どうやら今日はすこぶる悪酔いをしたらしい。
表情ばかりか、にゃあ、というその声までもが変に気づかわしげに聞こえる。
おい、起きろよ。こんなとこで寝たら風邪ひくだろ──。
「んなヤワじゃねえ。心配すんな。」
真面目に答えている自分も自分でえらく滑稽なはずなのだが、淀んだ意識ではもうそんな事はどうでもよくなっていた。
重い上腕を持ち上げ、胸板の上で小首を傾げているゼルの首筋を捉えてそっと間近に引き寄せる。
まんまるの蒼い瞳の中で、猫特有の瞳孔が黒々と大きくなった。
両目に挟まれた小さな小さな鼻柱に、なんだよ、と訝る皺が寄る。
その鼻柱に。
サイファーは、音を立ててキスをした。
ゼルは、咄嗟に目をつむり、顎を引いた。
人間ならば、ちょうど肩を竦めるような仕種だ。
サイファーが手を離した後も、どうしていいか解らないような顔でまた小首を傾げている。
「にゃあ。」
だが、半ば瞼を伏せたサイファーは、そのまま両腕を投げ出した。
胸板の上で、覚束ない重みがもぞもぞと動く。
やがて、そのままどうあってもサイファーは動かないつもりだとゼルも諦めたのだろう。
首筋に柔らかい頭を軽くこすりつけたかと思うと、胸板の上で方向転換し、はだけたシャツの胸元にもぞもぞと潜り込んできた。
今となってはすっかり馴染んでしまった温もりが、腹の上でごろごろと心地よい振動を洩らし始める。
うとうとと微睡む耳に、その声は、まるで。
狭い所が好きなわけじゃない。あんたのココが好きなんだ。
そんな風に言ってる気がして、実際の皮膚の感覚以上にくすぐったい何かを覚えずには居られなかった。
To be continued.
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