コネコノホウソク(11)


11

朝晩の冷え込みが徐々に温み始め、予備校に関わる者にとっては一年で最も慌ただしい季節も終わろうとしていた。
普段のんびりと構えていた数学クラスの連中も最後の追い込みが幸いし、ほとんどの生徒の進路が決まって、講師らの間にもほっとした空気が漂っていた。
予備校自体は、間もなく長い春休みに入る。
だがそんな大平楽な気分に浸っていられたのも、その日の夕方までだった。

ドアを開けると、アーヴァインが、いつもの笑顔で立っていた。
日がな一日怠惰に過ごして、そろそろ夕食にしようかと算段している時分のことだ。
突然の管理人の来訪に、サイファーは少々驚いた。
朝夕に管理人室の前ではしょっちゅう会っているものの、部屋に訪ねてきたのは初めてのことだったからだ。
「ちょっと、いいかな。お邪魔しても。」
ああ、と曖昧に頷くと、足元でこそりと毛玉が動いた。
来客が誰なのかを見極めたいらしく、蒼い瞳を瞬かせながら金色の背中が伸び上がる。
アーヴァインは視線を落とし、一段と相好を崩した。
「やあゼル。元気そうだねえ。あ、おみやげ持ってきたよ。」
そう言って、手にしていた小さな袋をかさかさと振ってみせる。
「煮干しをあげてもいいかい?」
「ああ。」
「ありがとう。ほうらゼル、今日はアジの煮干しだよ。」

嬉々として長身を屈め、ゼルの鼻先に掌を差し出すアーヴァインを、サイファーは困惑して見守った。
なんなんだ。
別段、管理人に苦情を言われるような事をした覚えはないし。
単純にゼル目当てで来たのか?
「‥‥中、入ったらどうだ。」
訝りながら低く促すと、アーヴァインはしゃがんだまま顔だけを上げた。
「ううん、ここでいいよ。実はね。‥‥君に話さなきゃならないことがあって。」
「なんだ。」
アーヴァインの目線に合わせて、玄関の上がり口に腰をおろす。
ゼルは、膝の横で無心に煮干しを噛んでいる。
その背中にそっと触れながら、アーヴァインは言った。
「僕ね、もうじきここを出ることになったんだ。」
「出る?」
「叔父の持ってる別のアパートの方に移るんだよ。」
「ああ‥‥」
引っ越しとか、転勤とか、そういえばそろそろそういう季節だ。
「それで、ここには新しい管理人が来るんだけど。」
と眉を寄せ、アーヴァインは心底困ったような顔になった。
「その新しい管理人が、ペットは禁止にするって言うんだ。」

暫しの間、沈黙が流れた。
ゼルが小魚を食む音だけがかさかさと続いている。
アーヴァインは深い溜息をついて、再び口を開いた。
「それだけはやめてくれって言ったんだ。現状ペットがいる住人もいるしって。でも新しい管理人、動物嫌いみたいで。叔父も、元々ここはペット禁止なのを僕が勝手に許可しただけだから、って言って許してくれないんだ。だったら僕をこのままここに居させてくれって頼んでも、もう決まった事だって取り合ってくれなかった。」
「‥‥。」
「ごめん、本当に。僕の力不足で。」
アーヴァインは深々と頭を下げた。
サイファーはそれでもなお、少しの間黙り込んだままでいたが、やがてゆっくりと首を振った。
「‥‥いや。あんたのせいじゃねえ。」

実際、仕方のないことだ。
正直なところ、いつかはこうなるだろうと漠然とした予感もあった。
アーヴァインが許可したからといって、このアパートが決してペット向きには作られていないのは明白だったし、実は後になって改めて契約書に目を通してみて、ちゃんとペット禁止の項目があるのも気付いていた。
つまり、今まではこちらがアーヴァインの好意に甘えていたに過ぎないのだ。

「どうする‥‥? ゼルのこと。」
まるで我が事のように、いやそれ以上に悲痛な面持ちでアーヴァインが尋ねる。
「ペットOKのところに引っ越すか、それとももし君がこのままここに残るのなら。‥‥僕で良かったら預かるから。今度のアパートはちょっと遠くになっちゃうけど。でも休みの日なら会いにこられるでしょ?」
「‥‥ああ‥‥」
生返事をしながら、その実サイファーの頭の中は空白に近かった。
半ば茫然として、何も考える気になれなかった。
ゼルは煮干しを食べ終えてしまい、玄関におりたつとそこいらをうろうろし始めた。
サイファーの脛とアーヴァインの膝の間を行ったり来たりしながら、不満げに鼻先をしかめて二人の顔を見上げ、にゃあと啼く。
「ああ、ごめんねゼル。あとはサイファーに貰いなよ。」
優しく笑いかけて、アーヴァインはサイファーの傍らに煮干しの袋を置き、静かに立ち上がった。
「もし良かったら考えておいて。今月いっぱいはここにいるから。」
サイファーは曖昧に頷いた。
アーヴァインが出ていった後も、そのまま何となくそこを動けなかった。

その時がきたらその時だと、僅かながらも覚悟は重ねてきたつもりだったのに。
いざこうなってみると、どうするかなんて簡単には結論が出せなかった。
このアパートは快適だった。
引っ越すとなると不便だし、色々と面倒も伴う。
大体ペットOKのところなんてこの辺にあるのかどうか。あっても家賃が予算内か。
そもそも、今さらこの時期になって、空き部屋なんかあるのか?
煮干しをねだって啼くゼルに無意識に煮干しを掴みだしてやりながら、そんな事を漫然と思い、サイファーは深いため息をついた。


翌朝、出勤したサイファーの顔色にただならぬものを感じたのか。
顔を合わせたスコールは真っ先に、どうしたんだ、と眉をひそめた。
事情を告げると、その柳眉がことさら難しい角度に顰められ、困惑そのものの顔になる。
「あんたのところはペット禁止だったのか。」
「まあな。」
「なるほど。‥‥なら確かに引っ越すのが道理だろうが、でも‥‥」
「おっはよーございまーす!」

突如会話を遮った甲高い声に、二人は振り返った。
確認する迄もなく、講師室に飛び込んできたのはセルフィだ。
「やあセルフィ。」
「合格おめでとう。がんばったな!」
「ありがとうございまあす! 今日はお礼のご挨拶に来ましたあ。」
口々に声をかける講師陣に笑顔を返し、セルフィは軽い足取りで机を縫って歩いた。
まったく、元気に足がくっついてスキップしているような娘だ。
弾んだ声であちらこちらと会話をかわして、最後に二人の前までやって来ると、おどけた様子でぴょこりと頭を下げる。
「先生、ホンマありがとうございました!」
「ああ。大学に行っても頑張るんだぞ。」
無表情な頬にそれでも笑顔らしきものを浮かべながらスコールが頷く。
セルフィは、はいもちろんと元気よく答えたが、ふと不思議そうな顔でサイファーの顔を凝視した。
「‥‥って、センセーどしたん? なんかクラーい顔してへん?」
「あ?」
「んもう、なんやの。可愛い生徒の新しい門出だっていうのにい。」
と、軽く口を尖らせる。
スコールといいセルフィといい、俺はそんなに露骨な顔をしてるのか、とサイファーは内心舌打ちをした。
が、なんでもねえと毒づく前にスコールが口を開いてしまった。

「お前の門出はめでたいんだが。実はこいつの恋人が少々めでたくない事になりそうなんだ。」
「コイビト?」
「な。貴様何ふざけ‥‥」
「ああ、ゼルやね! え、ゼルがどうかしたん?」
喩える方も喩える方なら、理解する方もする方だ。
憮然としたサイファーの横で、スコールは淡々と事の次第を語った。
「えええ。ほな、ゼルとお別れせなあかんの?」
「このままあそこに居続けるのなら、そういう事になるな。それとも、」
と首を傾け、スコールは黙ったままのサイファーの顔を覗き込んだ。
「引っ越すつもりか?」
「‥‥さあな。まだ解らねえ。」
その端正な顔から視線をそらしつつ、サイファーは言葉を濁した。
「せやねえ‥‥引っ越し言うてももうこの時期やし‥‥。」
セルフィはがっかりした顔で肩を落とした。
スコールも、憂いに満ちた眼差しで頷く。
「どちらにしろ、月末までには結論を出さなきゃならないんだろう? もし引き取り手を探すんなら、俺も手伝うが。」
「ていうかセンセー。もし何ならゼル、うちが引き取ってもええよ、うちんち一戸建ての自宅やし。」
上目遣いに二人を見比べながら、セルフィが言う。
スコールはゆっくり瞬いてセルフィを見た。
「大丈夫なのか?」
「家族も特に動物嫌いって訳やないし、説得すれば大丈夫やと思う。」
そうして、どうする?と言いたげに、二人揃ってサイファーを仰ぎ見る。
──まるで、我が事のように、真剣な顔をして。
サイファーは小さく溜息をついて、引き結んでいた唇を開いた。

「どうにかならあ。大家にも同じこと言われてるしな。」
「同じことって。引き取りたいって?」
「ああ。」
「ふうん、そうなんだ‥‥。」
セルフィが鼻白んだ様子で呟くと、スコールが宥めるように微苦笑した。
「ゼルなら探せば引き取り手はいくらでもあるだろう。人なつこいからな。」
「せやけどお。なつこい言うてもゼルが本当になついとるんはセンセーだけやん。そのセンセーんとこにおれへんのやったら、どこ行っても同じやないのん。」
「まあ、それもそうだが‥‥。」
スコールは髪をかきあげ、ふと小首を傾げてサイファーを見た。
「ゼルにも聞いてみたらどうだ。」
「なに?」
面喰らって口端を歪めると、スコールは目を細めた。
「ゼル自身はどうしたいのか。本人の気持ちが一番大事なんじゃないのか。」
──人じゃなくて猫だろうが。
そう突っ込みたかったが、スコールは大真面目だ。
「馬鹿か、貴様。アレにんなこと解るわけ‥‥」
「解るさ。猫は人語を解するって言うぞ。」
スコールは眉をひそめ、声を低めた。
「それに、猫は一生に一度だけ言葉を喋るらしい。」
「‥‥ああ?」
「そういう言い伝えがあるんだ。実は俺の親戚のおばさんが飼ってた猫も‥‥」
と、さらに神妙な面持ちで言葉を続けようとする。
咄嗟にサイファーは遮った。
「もういい、解った。とにかく、もう少し考える。」
「え、なんやの。おばさんの猫がどうしたん?」
セルフィは不満顔で二人を見比べたが、サイファーは無視した。
──馬鹿馬鹿しい、つきあっていられるか。
こっちは真剣に悩んでいるというのに。
猫が話すだなんて、どうせヨタ話に決まっている。
大体普段から、スコールの冗談はタチが悪い。
ふざけた冗談をいかにもな真顔で言うものだから、始末におえないのだ。

何にせよ、結論はなるべく早く出さねばならない。
スコールになおもおばさんの猫の話をせがんでいるセルフィを横目に、サイファーは軽く首筋を押さえ、深いため息をついた。

To be continued.
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