コネコノホウソク(9)


9

英語講師スコール・レオンハートは、サイファーにとって職場で机を並べる同僚であり、かつ個人的に最も親しい友人だった。
無表情といっていい程ほとんど感情を表に出さず、何を考えているか不可解な男ではあったが、なぜかサイファーとは馬が合う。
いや本当は、不可解なのはあくまで表面上に過ぎず、中身はいたって常識的で論理的な思考をする男なのだ。
ただ感情表現と人づきあいががいささか苦手というだけなのである。
それは幾度か言葉を交すうちに、すぐ解った。
そしてそういうところはどこかサイファーにも通じるものがあったから、自然と気心知れた間柄になったのだ。

頻繁ではないが、食事をしたり呑みに行ったり、休日にはふらりと互いの住まいを訪れる事もあった。
ただゼルが来てからは、帰宅が遅れる事をサイファーが渋るようになってしまったので、仕事帰りに誘い合って寄り道をする事もなくなってしまった。
お互いその事に固執したり不満を抱いたりするほどではなかったけれど、やはりどこか物足りなさを感じていたのだと思う。
だから、しばらくぶりに呑みたいという話になって、ならばあんたのところに邪魔していいかというスコールの申し出を、サイファーは二つ返事で快諾した。
それは考えてみれば、ゼルとの生活が始まって以来、初めての来客だった。

サイファーが伴ってきた見慣れぬ客人に、ゼルは最初びっくりしたようだった。
いつも通りに玄関でサイファーを出迎え足元にすり寄ろうとしたが、背後にいるスコールに気付いてぎょっとしたように身構え、たちまち方向転換してキッチンの隅に駆け込んでしまった。
「ゼル。なんだテメエ、一度会ってんだろが。」
その過敏な反応にサイファーは呆気にとられたが、スコールは小さく苦笑した。
「一度きりじゃ覚えてないだろ。いいさ。邪魔するぞ、ゼル。」
「邪魔するぞって、俺の家だぜ。」
「あんたとゼルの家、だろ。」
「ほっとけ。」
居間に移動しながらサイファーは眉を顰めてみせ、缶ビールの入ったコンビニの袋を座卓においた。
後に続いたスコールは、座卓の周囲の本とCDの山を勝手に除けて、座る場所を作る。
それからは、ビール片手にしばらく取り留めもない会話が続いた。
順調に缶の中身が減って、それぞれ一缶目をちょうど空けた頃だった。
不意にスコールが何かに気付いたように振り返った。
つられて見れば、キッチンとの境の柱の向こうから、ゼルがこっちを覗いている。

「なんだ。」
サイファーが目を眇めると、ゼルはちょっと思案するかのように小首をかしげ、そろそろと柱の陰から出てきた。
だがまっすぐサイファーのところに来るのではなく、妙に大きな迂回をして、居間の隅を通ってくる。
まるでわざとスコールと距離を取っているかのようだ。
そしてようやくサイファーの元に辿り着くと、前脚を膝にかけ、甘い声でにいと鳴いた。
サイファーにはすぐぴんとくる鳴き方だった。
「駄目だ。まだ飯には早え。」
つっけんどんに言い放って、茶卓の端に並べた缶ビールに手を延ばし、一本をスコールに押しやって自らも二缶目を開ける。
スコールはちょっと同情するような顔をした。
「腹が減ってるんだろう。食わせてやればいいじゃないか。」
「んな訳あるかよ。まだこんな時間だ。」
壁の時計を顎で示し、膝にかかった前脚を払い落とす。
「んで。何の話だった?」
「‥‥ああ‥‥だから‥‥。」
促したサイファーに、スコールはどこか煮え切らないような調子ながらも、途切れていた話を再開した。
聞き入るサイファーの膝に途中幾度か同じ重みがかかったが、無意識に同じ動作で払い除ける。
そのうち、ゼルも諦めたのだろう、白っぽい毛玉が視界の隅をとぼとぼと横切っていくのがちらりと見えた。
だが、特に気にもとめなかった。
軽く回ってきたアルコールのせいもあったし、久しぶりの四方山話に没頭していたせいもあった。
やがて、再び会話を中断させたのは、またもやスコールだった。

「‥‥おい、サイファー。」
「あ?」
「こいつ、俺を睨んでるんだが。」
アルコールに仄かに火照った眦で、スコールは傍らを示した。
促されて視線を向けると、最初の柱の横に置き物のように鎮座しているゼルがいた。
突然の二人の注目に臆する事もなく、大きな蒼い瞳で二人の顔を交互に見比べている。
「まさか。気のせいだろ。」
「いいや、今確かに睨んでた。」
スコールは首を振った。
一旦主張しだすと、てこでも譲らない男なのだ。
サイファーは苦笑しながらも合わせてやった。
「そうか。ま、気にすんな。」
だがスコールはおさまらなかったうだ。
もう一度首を振ると、身を乗り出すようにして眉を顰めてみせた。
「妬いてるんじゃないか。」
「‥‥なに?」
「あんたを取られたと思って、嫉妬してるんじゃないのか。」
サイファーは呆気に取られてスコールの顔を見直した。
決して酒に弱い男ではないし、この程度のアルコールでは酔う内には入らないと思っていたが。
或いはしばらく酒席を共にしない間に、こいつのアルコール耐性も薄れてしまったのかもしれない。
「酔ってんのか、貴様。馬鹿馬鹿しい、相手は猫だぞ。」
「猫だってヤキモチぐらい妬くだろう。あんたが知らないだけだ。」
スコールの口調は至って真面目だった。
決して酔って冗談を言ってる訳ではないらしい。
サイファーはなんとなく黙るしかなくなって、そっとゼルの方を盗み見た。
目があったゼルは、解っているのかいないのか、大きな瞳を一度だけぱちりと瞬かせると。
ふいっと腰を浮かせのろのろとキッチンの方へと歩み去った。

缶ビール三本で、いい感じにほろ酔いになった。
足元がふらつく程ではないが、玄関先に立っても真冬の夜の冷気を感じない程には身体が火照っている。
スコールもまた同じように上気した頬で、いつにない鮮やかな笑顔を見せて帰って行った。
その背中を見送って、居間に取って返し、空いた缶を片付けながらようやく思い出した。
「ゼル。」
呼んでみたが、返事も気配もない。
顔を上げ、視線を巡らせてみると、キッチンの片隅にいた。
だがこちらに背を向けうずくまったままの毛玉は、振り向きもしない。
サイファーは内心しまった、と思った。
とうにいつもの夕飯の時間を過ぎていたのだ。
罪悪感がちくりと胸を刺し、片付けかけていた缶をそのままに慌ただしく冷蔵庫に歩み寄った。
あいにく煮干しは切れていたので、いつものツナ缶を開けて、毛玉の傍らに置いてやる。
「おい、飯だぞ。」
しゃがみ込んで声をかけると、ようやくゼルは顔を上げた。
だが置いてやった食事には目もくれず、じっとサイファーの顔を凝視しただけで、またぷいと横を向き前脚の間に顔を埋めてしまった。
サイファーは憮然とした。
「ちっと遅くなっただけだろ。んな怒んなって。」
腕を伸ばし、ふわふわの背中に触れようとすると、途端にゼルはすっくと起き上がった。
サイファーの手から逃れるように、とことこと廊下に出ていき、相変わらず背を向けたまま通路のど真ん中でまた丸くなる。
これにはむっとした。
露骨な無視もさることながら、そこは家の中で最も寒い場所であり、寒がりのゼルが毛嫌いしている場所だったからだ。
あえてそこで丸くなるなんて、どう考えてもあてつけとしか思えない。
「食わねえのか。食わねえなら片付けちまうぞ。」
険を含んだ声音で言っても、ゼルは動かない。
サイファーは痺れを切らし、ツナ缶を掴んで立ち上がった。
「ああそうかよ、なら勝手にしろ。後で喚いても知らねえからな。」
缶ごと冷蔵庫に乱暴に突っ込んで、様子を伺うが、変化はない。
サイファーは大袈裟な溜息をつくと、リビングに行ってダウンジャケットを引っ掴みそれを羽織った。
そして丸い毛玉を踏み越えると、無言のまま玄関に向かい、振り向く事なく外に出た。

アパートに一番近いコンビニまで往復して十五分。
ほろ酔いだったアルコールもすっかり抜けてしまい、再び玄関に辿り着いた時には手足が冷たくなっていた。
玄関を明けて暗い廊下を見渡す。
ゼルの姿はそこにはなかった。
と、足元に気配を感じ、はっとして俯く。
果たして、白っぽい毛玉はすぐ爪先の所にいて、びっくりしたようにサイファーを見上げていた。
目が合うと、慌てたようにその場から飛び退き、うろうろと所在なくその場を回る。
サイファーはわざと知らない振りをして、大股にゼルを跨ぐとさっさとリビングに向かった。
後ろから、パタパタと慌てたような足音が追ってくる。

新しいコンビニの袋を座卓に投げ出し、腰を下ろして、片付け途中だった空き缶を別の袋に放り込んだ。
追ってきたゼルは、しかし一メートルほどの距離を置いて、困ったように固まっていた。
このまま擦りよって良いものか否か、真剣に迷っているらしい。
サイファーは思わず手を止めて、小さく唇を歪めた。
ったく。素直じゃねえ野郎だな。
だったら最初から拗ねたりなんぞしなきゃいいものを。
つうか。
マジでヤキモチ妬いてやがったのか、こいつ。

コンビニまでの往復の間に、怒りはすっかり萎えていた。
そもそも放置していた自分が悪かったのだ。
それに、酔いが醒めると共に、やたらとスコールの言葉が気になった。
猫だってヤキモチぐらい妬く。
或いはそうなのかもしれない。
ゼルにも感情があることくらい、もう嫌と言う程解っている。
そう思うと、呆れつつもくすぐったいような、何とも複雑な気分だった。
さらに、複雑な気分は気恥ずかしいものに変わる。

まったく、俺も相当にイカれてる。
こんなチビ助一匹に。
いいように振り回されてんじゃんか、なあ?
だが、どうやら。そろそろ観念するしかなさそうだ。
俺はこのチビに。
まったく、心底、参っちまってる。

「ゼル。」
こみ上げる苦笑を溜息にすりかえて、サイファーは低く名を呼んだ。
ゼルははっと顔を上げ、一瞬間を置いてから、意を決したようにそろりと寄ってきた。
小さな前脚が、膝のすぐ横に行儀よく並ぶ。
サイファーは座卓の上の袋を探って中身を引っ張り出すと、掌にひと掴み、握ったそれを鼻先に突き出してやった。
「おら。飯が気にくわねえんならコレでも食ってろ。」

ゼルはきょとんとしてサイファーの顔と掌とを見比べた。
掌の乗っているのは、大好物の煮干しだ。
だが、サイファーの不機嫌さとその好物の関連性が理解できないらしい。
──食っていい、のか?
にゃあ、と困ったように小首を傾げる様に、サイファーはとうとう笑い出した。
「遠慮すんな、食っていい。」
掌を鼻先に突き出したまま、残る手で背中を撫でてやる。
ゼルはひくりと身体を縮こまらせたが、すぐに目を細め心地よげに喉を鳴らした。
そして甘えた声でサイファーの指に鼻先を擦り付けると、ようやく安堵したように掌の御馳走を噛み始めた。
鼻先に皺寄せて煮干しを食み続ける小さな頭、時折思いだしたようにサイファーを伺う蒼い瞳。
それらを見守りながら、サイファーは邪魔をせぬようそっと背中を撫で続けた。
ふわふわとした温もりが、冷えた指先に痺れるように心地よかった。

To be continued.
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