コネコノホウソク(3)


3

部屋に帰り着いて洗面所に直行し、濡れた毛を拭ってやっている時に、ようやくサイファーは事情が解った。
顔の横に大きな噛み傷があって、血が滲んでいた。
おそらくここに居ついた事で、この辺を縄張りにしている猫にちょっかいを出されたのだろう。
追い立てられてどうにかあの橋まで逃げおおせて、そこで川に落ちたに違いない。
いくら雨に打たれたにしても濡れ方が尋常ではないし、野良猫なら雨ぐらいでこんなに体力を消耗するとも思えないからだ。
川に落ちて必死にもがき、どうにか岸に辿りついたものの、土手を登り切らぬ内に力尽きたのだろう。
だがもしそのままふらふらと道路に這い上がっていたら、車に轢かれてそれまでだったかもしれない。
そこで力尽きて、むしろ良かったのだ。

もうひとつ、解った事がある。
このチビが、雄だということだ。
なんとなく雌だと思っていたから、これには少々驚いた。
だが雄ならなるほど、初めて会った時のあの威嚇するような小生意気な視線もうなずける。
今も一応大人しくタオルで拭われてはいるものの、時折不満げに鼻に縦皺を刻んで、弱々しくもにゃあと抗議する。
まるで、拭き方が乱暴なのが気に食わないとでも言いたげだ。
だがサイファーは無視して黙々と毛を拭い続けた。
タオルではこれ以上水分が吸えぬ段になり、ドライヤーを使う事にした。
ところが、スイッチを入れた途端、猫は飛び上がった。
突然の騒音と強風に仰天したのだろう、今迄の衰弱はどこへやら、にゃあにゃあぎゃあぎゃあ喚いてサイファーの手を逃れようとじたばたもがく。
それでも無理に抑えつけてドライヤーをかざそうとしたら、したたかに手を引っ掻かれた。
思わず手を離れたドライヤーが洗面台の縁を打って、派手な音とともに床に落ち、同時に猫は素早く掌から滑り出た。
「ってえな! 何しやがるこの野郎!」
思わず怒鳴りつけると、猫は洗面台の中で背中を丸め、蒼い瞳でサイファーを睨み返した。
鼻先に皺を刻み、尖った小さな牙を剥いて、低く唸る。
猫お得意の、威嚇のポーズだ。
だが、いかんせん小さな体は迫力に欠けた。
いくら背中を丸めたところで、湿った毛は逆立たず、やせこけた背骨のラインを余計際立たせるばかりだ。
それでも、本人は精一杯に威嚇しているつもりらしい。
蒼い瞳でまじろぎもせず唸り続けるその姿は、けなげというか憐れというか。
サイファーはなんだか怒鳴り付けた事が馬鹿馬鹿しくなってしまった。

「わかったわかった。これは使わねえ。」
溜め息と共にドライヤーを拾い上げて片付けると、まだ唸っている体をひょいと摘みあげ、乾いたタオルでくるみなおした。
部屋に戻って、ベッドの足元にタオルごと置く。
そして、玄関先に放り出したままだったキャットフードのプルタブを引いて、目の前に置いてやった。
猫はすぐさま匂いを嗅ぐと、なんの躊躇もなく鼻先を突っ込んで、黙々とツナを食み出した。
食い物を前にしたら、怒った事など忘れてしまったらしい。
ゲンキンな奴め。
苦笑したサイファーは、そこでようやく、自分もまたびしょ濡れだった事に気付いた。
濡れた服を着替えもせずに、このチビ助にかかりきりになっていたのだ。
‥‥情けない。
こんな野良猫一匹のために、危うく己が風邪をひくところだったなんて。
サイファーは激しく自己嫌悪しつつも、しかし同時に可笑しくもなって、笑いを噛み殺しつつ洗面所に戻った。

シャワーを浴び、さっぱりとして出てくると、猫はすっかり缶の中身を平らげてタオルの中に丸まっていた。
蒼い目が、いかにも眠そうにゆっくりと閉じたり開いたりしている。
その上を跨ぎ越えて、サイファーはベッドに潜り込んだ。
本を読もうと思ったが、時計の針がすでに午前を差しているのに気付いてやめた。
明かりを消して、さっさと瞼を閉じる。
そういや、馬鹿に腹が減ると思ったら自分が夕飯を食うのを忘れていた。
己の間抜けぶりに内心呆れたが、今さら食うのも面倒だ。
明日はどうせ休みなのだし、朝にゆっくり食えばいい。
そんな事を漫然と思い巡らせていると、足元の床でもそもそとタオルがこすれる気配がした。
「‥‥。」
まさか食い足りねえとか言うんじゃねえだろうな。
俺はすきっ腹を抱えてるっつうのによ。
もういいからさっさと寝ろ、このクソ猫め。
胸中で呟くも、気配はなかなかやまない。
やがて、毛布の縁がひきつれる感触と共に不意に胸元に重みを感じた。
なにごとかと瞼を開いて、ぎょっとした。
目の前に、蒼い瞳があったからだ。

「にゃあ。」
「なんだ。」
思いっきり眉をしかめて睨み付けると、まんまるの目が瞬いて、くるりと方向を変えた。
そしてあろうことか、毛布の中に頭を突っ込み、もぐりこんでしまったのだ。
「おい。」
毛布の中でもそもそと動く柔らかい感触に戸惑っていると、ちょうど腹のあたりでそれは止まった。
まだ湿った毛が脇腹にぴったりと押し付けられて、冷たくてくすぐったい。
どうやらそこをねぐらと決めてしまったらしく、猫はそれきり動かない。
その内、ごろごろと喉を鳴らす柔らかな振動が伝わってきた。
サイファーはまたもや溜め息をついて、瞼を伏せた。
「寝相は悪い方じゃねえが。潰しちまっても責任持てねえぞ。」
すると毛布の中で、くぐもった声が小さくにゃあと答えた。
まるで、そんな簡単に潰されてたまるかよとでも言うような、小生意気な声だった。

To be continued.
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